日劇ウエスタンカーニバル(にちげきウエスタンカーニバル)は、1958年2月から1977年8月まで、日本劇場で開催されていた音楽フェスティバルである。 全57回公演(実際は56回)。日本劇場を運営する東宝が1958年2月8日から第1回を開催したものである(これを記念し、2月8日は「ロカビリーの日」と制定されている)。観客動員数は初日だけで9,500人、1週間で45,000人を記録した。この数字は、ドーム球場や日本武道館といった、大きなハコモノが存在しない1950年代当時としては、異例の記録である。この企画が当たったことで、以後も定期的に開催されるようになった。1950年代にはロカビリーブームを生み、1960年代後半にはグループ・サウンズ(以後GS)ブームが巻き起こった。また、GS時代には、出演者のパフォーマンスに対する賞が設けられており、回ごとにそれを決定していた。GSにとって象徴的な行事となり、連日超満員となった。GSブーム最盛期においては有楽町駅前から東京駅近くまで約1kmに渡って前売券を買う人々の行列が連なり周囲は騒然となった。しかし、GSブームの終焉とともに客足も遠退き、1970年代は主にジャニーズ事務所やスクールメイツのタレントをメインとしたアイドルショーとなっていった。例えば、キャンディーズの単独ショーも「ウエスタンカーニバル」として行われた事がある(1975年8月26日「日劇ウエスタン・カーニバル ~キャンディーズ・ショー~」等)。そして1977年8月の第57回をもって幕を閉じた。尚、実際の公演回数は全56回だが、カウントミスによって57回公演した事になっている。1981年1月、老朽化に伴う複合ビル計画により日本劇場の閉鎖・解体が決定した事を受け、1月22日より4日間、内田裕也プロデュースによる「サヨナラ日劇ウエスタン・カーニバル ~ 俺たちは走り続けている!」が開催され、ロカビリー時代のスターや、ザ・タイガース、ザ・スパイダースを始めとした人気GSの面々も再結成し出演。大きな話題となった。2000年11月からは「想い出のウエスタンカーニバル」と銘打ち、主にロカビリー時代の出演者による同窓会的なコンサートが定期的に行われている。2008年12月25日にはウエスタンカーニバル開催50周年を記念し、閉館間近の新宿コマ劇場で「ウエスタンカーニバル・クリスマス同窓会50th」が開催された。1954年からウエスタンバンドが集まって、有楽町蚕糸会館6階の東京ヴィデオ・ホールで「ウエスタンカーニバル」というイベントが開催されていた。1950年代半ばころになると入場できないファンも出るほどの盛況となり、「親衛隊」のような熱烈な女性ファンも付くようになっていた。その一方、ウエスタンバンドのメンバーたちは東京ヴィデオ・ホールの出演時以外は東京都内の小さなジャズ喫茶で細々と演奏を行っていた。そうしたウエスタンバンドのパフォーマンスに注目したのが、渡辺プロを立ち上げて間もない頃の渡辺美佐であった。美佐はジャズの次の音楽ビジネスの中心になるものを模索していたが、たまたま美佐の実妹の曲直瀬信子がロカビリーのファンで、美佐は信子の紹介でジャズ喫茶や東京ヴィデオ・ホールでのウエスタンバンドのイベントに足を運んでおり、一つの試みとして「2月の暇な時期に若い子にウエスタンでもやらせたら」と思い立った。だが、当時無名であったウエスタンのバンドを集めてのイベントに劇場側は「客を呼べるのか?」と懐疑的で、実際に浅草の国際劇場には開催を断られていた。美佐は知人の演出家・山本紫朗のもとを訪ね、2人で日本劇場に企画を持ち込んだ。日劇も最初は渋ったが、観客動員が期待できないとされた2月の開催ということもあって承諾した。一方、東京ヴィデオ・ホールでの「ウエスタンカーニバル」を実質的に取り仕切っていたスウィング・ウエストのリーダー・堀威夫も東京ヴィデオ・ホールやジャズ喫茶での観客の反応を肌で感じて、「東京ヴィデオ・ホールより大きい劇場で開催しても成功する」と確信し、より収容人員の多い日劇での「ウエスタンカーニバル」開催を思い立った。ただ、堀たちには日劇とのコネクションがなかったため、ジャズプレイヤーとして幾度か日劇の舞台に立っていた渡辺晋の元に相談に行った。ここで晋から自身の妻である美佐に話を持っていくように言われ、思惑の一致を見たことで美佐・山本・堀の3人が中心となって「第1回日劇ウエスタンカーニバル」の企画が進んでいった。「日劇ウエスタンカーニバル」を開催するに当たり、山本は構成・演出を担当。出演者の選考、演奏曲目、出演順の決定、チケットなどの営業活動は全て堀が担当した(後述の「ロカビリー3人男」を「日劇ウエスタンカーニバル」に引っ張ってきたのも堀である)。また、美佐の妹・信子もファンとの横のつながりを生かして、親衛隊にテープ投げを依頼するなど制作サイドと観客の橋渡し役となった。こうして開催された「第1回日劇ウエスタンカーニバル」は前述のような成功を勝ち取った。美佐はこのイベントの成功で「ロカビリーマダム」(「マダムロカビリー」とも)という称号を得て、一躍脚光を浴びることになった。夫である晋もこのイベントの成功を見て、1958年9月にジャズプレイヤーを引退し、美佐と立ち上げた渡辺プロの経営に本腰を入れるようになる。渡辺プロにとってはその後「ナベプロ帝国」と呼ばれる地位を築く足掛かりとなるイベントとなった。一方、堀はこのイベントに関わったことが縁で、一時客分格で渡辺プロに身を置くことになったが、やがて「日劇ウエスタンカーニバル」でスターダムにのし上がった守屋浩を主演にした映画『檻の中の野郎たち』を制作したことで美佐の怒りを買い、結果的に渡辺プロを去り、自身のプロダクションであるホリプロ創設に至っている。この時、守屋も堀と行動を共にし、ホリプロ所属となった一方、東京ヴィデオ・ホール時代から「ウエスタンカーニバル」で共に活動してきたグループの大半は「ウエスタンカーニバル」にとどまったため、堀と守屋だけが飛び出す形となった。こうした経緯も影響してか、その後スウィング・ウエストも守屋も「日劇ウエスタンカーニバル」からは締め出され、さらにGS時代に移った後も、出演したグループは事実上渡辺プロもしくはその系列に所属するものに限られ、ホリプロ系列所属のグループは締め出されることになった。堀は後に「『いいバンドを一つつくり上げていけばいいんだ』じゃあだめ、質を追求すると同時に、量もある程度追求しないとほんとうの意味の力にならない、ということを知った。」と当時を振り返っている。
出典:wikipedia
LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。