夕風(ゆうかぜ/ゆふかぜ)は、日本海軍の駆逐艦。峯風型の10番艦である。艦名は夕方または日暮れに吹く風を意味する。三菱長崎造船所で建造。一等駆逐艦に類別され、横須賀鎮守府籍に編入。同じ峯風型の島風、太刀風と共に第三駆逐隊を編成し、第二艦隊に所属。1928年(昭和3年)10月11日午後9時20分、小演習に参加中の浦賀水道において僚艦「島風」に衝突し、その右舷艦首に大破口を生じる損害を与え、「夕風」も艦首に軽微な損傷が生じ修理を行った。1936年(昭和11年)2月26日に勃発した二・二六事件では、横須賀警備戦隊旗艦の木曾と第三駆逐隊(島風、灘風、夕風)、第七駆逐隊(潮、曙、朧)等と出動。海軍陸戦隊を横須賀から芝浦へ輸送する任務に就く。1937年(昭和12年)以降、華中の沿岸作戦に参加した他、南洋諸島や樺太沿岸の警備任務に就いた。1940年(昭和15年)頃には、老朽化のため予備艦に指定され舞鶴港に繋留されていた。そのまま廃艦となる可能性もあったが、対米英戦近しの情勢を鑑み復帰する。1941年(昭和16年)3月には台湾海峡東方海上にて座礁したが、満ち潮と共に離礁に成功し事なきを得た。開戦日となった1941年12月8日朝、連合艦隊旗艦長門以下の戦艦部隊と共に出撃。後衛にあった鳳翔、瑞鳳を直援した(第三航空戦隊所属)。この出撃前には開戦の報と共に、「真珠湾で討ち損じた敵艦隊が米本土へ遁走するようなら、これを追撃して撃滅する」と訓示があったとされる。しかし、戦果十分と判断され追撃は中止となり、12月13日に呉・柱島に帰投した。1942年(昭和17年)3月12日、米機動部隊による東京空襲を警戒し、索敵のため鳳翔と共に小笠原諸島まで出撃する。しかし、会敵しなかったため父島に寄港し、補給の後帰投した。同年6月に起こったミッドウェー海戦では、新たな連合艦隊旗艦たる戦艦「大和」以下の主力部隊護衛と鳳翔の随伴として出撃、併せて洋上給油用油槽船の護衛も行った。しかし、作戦に失敗し主力部隊が後退したため、戦闘には不参加だった。なお敗戦秘匿のため、帰港後乗組員は三ヶ月上陸禁止となっている。以後も鳳翔に付随し、内海で対潜哨戒及び空母着艦訓練の支援(トンボ釣り)に従事。時には、航空部隊が行う雷爆撃訓練の目標艦も務めた。なお、この雷爆撃訓練には後に陸軍機も参加している。この事もあって外地には殆ど出なかったため戦績も無く、武勲や戦果には恵まれなかったが、終戦まで無傷で残存していた。なお大戦末期でも、30ノット程で航行できたという。また、終戦時残存していた峯風型は4隻であり、うち「澤風」は対潜学校の試験・練習艦に改装、「汐風」「波風」は回天搭載艦に改造されていた。1945年(昭和20年)春頃、鳳翔が現役編成から除かれ呉港に繋留された事に伴い、夕風は別府方面へ異動となった。そして航空母艦海鷹(かいよう)と共に、地上から発進した航空部隊、即ち特別攻撃隊の標的艦として訓練に当たっていた。7月24日、別府湾内で空襲を受け、無傷で回避したものの、山口県の室津港へ退避することにした。しかし別府湾を出た直後の夕刻(16時30分頃)、海鷹は艦尾に触雷、航行不能となった。このままでは翌日の空襲で撃沈必至であったため、両艦艦長相談の上、ひとまず海岸まで曳航し、坐洲させることとなった。とはいえ、基準1200トン程の駆逐艦が基準14000トン程もある空母を曳航するのは困難の極みであった。曳索は海鷹の備品直径28mmワイヤーを使用、これを夕風の一番砲塔に巻きつけ、さらに海鷹の錨鎖も海中に降ろして錘とする等ワイヤが緊張しないよう工夫し、ようやく曳航が始まったのは22時頃であったという。速度も2ノット程しか出せなかったが、幸い海も風も凪いでいて、曳航中にワイヤが切れる事はなかった。しかし、一番砲塔基部で油漏れが発生し、かなりの緊張を強いられた。夜半、空襲を受けたが無事切り抜け、翌朝8時頃、別府湾北奥の日出海岸(日出町)に到着した。海鷹を出来る限り海岸に近づけた後は惰性で坐洲させるべく、曳航したまま海岸に接近した。その為ワイヤを切り離した際、負荷から解放されて急加速しあわや座礁しかけたが、回避に成功し事無きを得た。スクリューが海底の泥を巻き上げるほどの浅瀬まで接近しており、危機一髪であった。その後夕風は艦首部に防舷物をぶ厚く取り付け、不十分な位置で停止した海鷹の艦首と艦尾を海岸に向けて交互に押し、ようやく坐洲に成功した。全ての作業を終えた夕風が別府港の錨地に帰ったのは、25日昼頃であった。なお、これは日本海軍における、駆逐艦による空母曳航唯一の成功例である。度重なる空襲を受け大破浸水、触雷から四日後の7月28日遂に放棄された。乗組員の殆どは既に退艦していたが、対空要員として残っていた内、二十数名が戦死した。戦後、生き残った海鷹乗組員は、「もし曳航が失敗して外洋で漂流中に撃沈されていたら、犠牲は何十倍にもなっただろう」と、夕風乗組員に大変感謝していたという。海鷹乗組員の回想では、当時900名程が乗り組んでいたとあり、定員を大幅に上回っているが、これは夕風も同様であった。戦時下で増員したと思われるが、実数は不明である。海鷹空襲の際、合わせて別府方面にも空襲が行われた。夕風も数度対空戦闘を行ったが、被害も戦果もなく切り抜けている。その後の標的艦訓練は夕風のみで続けられたが、8月に入ると空襲を避けるため夜間しか活動出来なくなっていた。終戦を別府湾で迎えた後、呉港へ回航。1945年(昭和20年)10月に除籍され、同年12月、特別輸送艦の指定を受け、都合19回の復員輸送に従事。軍人約2,000名、邦人約6,300名の輸送に当たる。引揚者の輸送実績は以下の通り。なお復員船として行動するにあたって、1946年(昭和21年)1月、第一・三番魚雷発射管跡、及び第三居住区上甲板の三箇所に人員輸送用デッキハウスを設置している。復員業務終了後、横須賀港長浦にて繋船した。ここでは、同じく復員業務を終えた鳳翔も繋船されていた。古参の乗組員は「二度と見られまい」と思っていただけに、特に懐かしがったという。その後、特別保管艦(賠償艦)に指定され、1947年(昭和22年)7月、イギリスへ引き渡しとなる10隻が佐世保に集結される。食糧運搬艦「早埼」(「荒埼」という資料もある)を旗艦とし、26日にシンガポールへ向けて出航した。回航艦は駆逐艦、海防艦、駆潜艇等が含まれていたが、戦時急造艦も多く、故障や漂泊が多発したという。夕風は故障もなく、単艦先行して他艦より一日早い、8月15日(8月14日という資料もある)にシンガポールのセレター軍港に到着した。この時の艦長田口康生氏(「雪風」航海長や砲術長等)の回想によると、そこでは在シンガポールのインド人が百数十人も集まり、「インド独立の記念と御礼に」と、日本の愛唱歌「愛国行進曲」を日本語で合唱する歓迎を受けたという。翌16日には他艦も到着、引渡し作業を行った。その後、まだ現地に残っていた南西方面艦隊司令部に挨拶・報告をすませ、回航員は「早埼」にて帰国の途に就いた。その後夕風は現地で解体され、26年の艦歴を閉じた。夕風元乗組員は、「(雪風に乗船していた)田口氏に最期を見届けていただいた事といい、夕風と乗組員はまことに幸運であった」と述懐している。夕風の進水式で使われた支綱切断用手斧は、そのまま艦内で保管されていた。戦後は旧乗組員で結成された「夕風会」で大切に保管されていたが、戦後50年の節目に、夕風の故郷、三菱重工業長崎造船所の史料館に寄贈された。三菱側はこれを「幸運の斧」と命名し、大正時代のコーナーに展示している。なお同造船所は、海鷹の前身「あるぜんちな丸」の建造と空母への改造も行っていた。進水式で配布された記念絵葉書は二種類確認されている。絵葉書を入れた袋にも、夕日と風、帆掛け舟がデザインされている。
出典:wikipedia
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