岩本 貴裕(いわもと たかひろ、1986年4月18日 - )は、広島東洋カープに所属するプロ野球選手(内野手、外野手)。広島市東区牛田出身。小学1年から「広島中央リトル」で野球を始め、小学3年には「広島鯉城リトル」に移籍。牛田中を経て広島商業に進学した。広島商業では1年生からエースと4番を任され、3年生の夏には投手として6試合に登板、打者としても打率5割を越す活躍でチームを甲子園出場に導いた。夏の甲子園は初戦敗退。高校通算52本塁打。複数のプロ球団がマークし、ドラフトの注目選手に挙げられていたが、亜細亜大学に進学。外野手にコンバートされ、1年秋から4番を任される。3年春のリーグ戦では1試合3本塁打を記録。東都大学1部リーグ通算72試合出場、278打数70安打、打率.252、16本塁打、43打点。東都大学リーグを代表するスラッガーで歴代単独4位となる16本塁打を記録。ベストナインにも3度選ばれる。2部リーグ通算10試合出場、40打数12安打、打率.300、3本塁打、11打点。大学日本代表に選ばれ、4番を任されたこともある。3年秋には自ら志願して、約3年ぶりに投手に復帰、後にチームメイトとなる小窪哲也(当時・青山学院大学4年、現・広島)から三振を奪うなど結果を残し、ストレートは最速146kmを記録した。4年春からは投手と野手の二刀流にも本格的に挑戦した。2008年10月30日のドラフト会議で広島東洋カープから1位指名を受ける。ドラフト会議当日は秋のリーグ戦で東洋大学と優勝をかけた大事な試合だったが、試合は敗れた。憧れの地元球団である広島から指名された喜びと、試合に負けた悔しさを感じながら指名会見に臨んだ。同年11月13日に契約金1億円・年俸1500万円(金額は推定)で仮契約。ルーキーイヤーの2009年は開幕一軍を逃すものの、二軍ではウエスタン・リーグ開幕からほぼ全ての試合で4番を任される。5月28日に一軍登録され、同日の対千葉ロッテマリーンズ戦(呉二河球場)でプロ初出場、初スタメン(7番・右翼手)を果たし、2回裏に回ってきた第一打席で小林宏之からプロ初安打(中前安打)を記録した。シーズン終盤にも再度一軍に昇格した。二軍では打席、打数、安打はリーグ2位の数字。塁打数、本塁打もリーグ2位タイで本塁打は14本を記録した。2010年は開幕を二軍で迎え、打率も2割4分前後と平凡であったが、6月にT-岡田を意識したノーステップ打法を取り入れてからは驚異的な打撃成績を叩き出し、栗原健太の故障離脱に伴い一軍昇格。主に一塁手、栗原が復帰してからは外野手として出場。7月4日の対横浜ベイスターズ戦(マツダスタジアム)で清水直行からプロ初本塁打を記録して以降、わずか2ヶ月の間に14本塁打と量産。次期主砲として大器の片鱗を覗かせるシーズンとなった。10月に台湾で開催された第17回IBAFインターコンチネンタルカップの日本代表に選ばれ、全試合で4番を任された。2011年は開幕を一軍で迎えたが、打率2割台前半、3本塁打と調子が上がらず、7月に二軍落ちとなった。降格後はしばらく二軍の試合に出ていたが、慢性的な膝の痛みを解消するために9月に同箇所の手術を受けた。以降は右膝への負担を軽減するためノーステップ打法を断念し、右足を上げる打撃フォームに戻した。2012年は前述の右膝手術の影響から出遅れたものの、栗原健太、ニック・スタビノアの両主砲が離脱した夏場に主軸を務め、6月13日から7月31日まで4番を任された。6月にはリーグトップとなる月間打率.397を記録したが、7月以降は不調に陥って成績が下降線をたどり、8月に入ってからはシーズン途中に入団したブラッド・エルドレッドに4番の座を奪われてスタメンでの出場機会が減少。結局本来の打撃を取り戻せぬまま8月13日に二軍降格、以降シーズン終了まで一軍に復帰することは出来なかった。シーズン64安打と15二塁打はキャリアハイの成績である。2013年は打撃フォームをオープンスタンスに変更し、自己最多の82試合に出場。成績自体は軒並み前年を下回ってしまったものの、夏場以降に打撃の調子を上げ、結果を残したことで、クライマックスシリーズの登録メンバーに選ばれた。10月12日、ファーストステージ・対阪神タイガース1回戦(阪神甲子園球場)で9回表に代打出場、玉置隆からライトスタンドへ自身ポストシーズン初ホームランとなるダメ押しの1号3ランを放ち、初のファイナルステージ進出に貢献した。シーズン終了後に用具契約を学生時代から愛用していたSSKからデサントに変更した。2014年は出場試合数が前年の半分以下に激減したのをはじめ、成績も前年をさらに下回り、ルーキーイヤーの2009年以来となる打率1割台に終わった。2015年は春季キャンプでの一軍昇格はならなかったが、オープン戦期間中の3月7日に一軍昇格。主に代打起用で結果を残し、開幕一軍メンバーに選ばれた。最初の4打席で4打数3安打をマークしたものの、スタメン起用やチャンスの場面では結果を残すことが出来ず、4月7日に二軍降格、以降二軍暮らしのままシーズンを終えた。打率こそ3割であったが、打率以外については自己ワーストを更新。出場試合数はさらに減って7試合にとどまり、ルーキーイヤーの2009年以来となる本塁打0、自身初の打点0に終わった。10月21日に広島市内の病院で、左腋窩動脈閉塞症のため手術を行った。2016年は打撃フォームをスクエアスタンスに戻して再起をかけたが、6月まで二軍暮らしが続いた。前述の左腋窩部手術の影響から春先は状態が上がらず、3月から4月にかけて打率1割台に低迷するも、5月以降2ヶ月連続で月間打率3割台をマークしたことが評価され、7月1日に一軍昇格。シーズン初打席から3打席連続代打安打をマークした。以降も数少ない出場機会でアピールを続けていたが、当シーズン初スタメン(5番・左翼手)となった8月7日の対読売ジャイアンツ戦で2打席連続三振を喫して途中交代。以降、3打席連続三振を含む4打席連続ノーヒットと調子を落とし、ブラッド・エルドレッドが8月14日に一軍昇格したことに伴い、8月15日に二軍降格となった。遠投110mの強肩と、逆方向である左にも大きな打球を打てる強打が持ち味。亜細亜大学時代は主に中堅手。広島入団後は元々本職であった外野手(右翼手、左翼手)に加え、長身で左投げであることを生かして一塁手としても起用されるようになった。外野手よりも一塁手として出場する機会が多くなっており、控えの時は代打⇒一塁の守備固めでの起用が基本パターンで、外野でスタメン出場した試合でも終盤に一塁へ回るケースが多い。2013年9月22日、対読売ジャイアンツ戦(東京ドーム)の8回表に代打で起用された後、8回裏の守備で一軍公式戦では初めて中堅を守った(今のところ、一軍公式戦で中堅を守ったのはこの試合のみである)。打撃は選球眼に難があり、ボールゾーンスイング率が高く、打率と出塁率がほぼ変わらない。好調が長続きせず、成績が安定しないシーズンを繰り返しているため、打撃フォームを何回も変えている。ちなみに、2015年シーズン終了時点で一軍公式戦では一度も死球を受けたことがない。10歳からカープのファンクラブ(ジュニア会員)に加入し、毎週のように自転車で広島市民球場に通いスクワット応援をした。田中慎太朗は広島鯉城リトルシニアの1年先輩、松下建太は1年後輩、中田翔は3年後輩となる。また、柳田悠岐は広島商業の2年後輩で、時間が合えば一緒に食事をすることもある。岩見優輝は亜細亜大学の同期で、後に広島でもチームメイトとなった。プロ入り後は、恵まれた体格を生かした左の長距離砲として期待されているが、広島商業時代に岩本を指導した迫田守昭監督(現・広島新庄高等学校監督)は、長打よりも巧打を持ち味とする選手だったと評している。
出典:wikipedia
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