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倭彦命

倭彦命(やまとひこのみこと、生年不詳 - 垂仁天皇28年10月5日)は、記紀等に伝わる古代日本の皇族(王族)。『日本書紀』では「倭彦命」、『古事記』では「倭日子命」、他文献では「倭彦王子」とも表記される。第10代崇神天皇の皇子で、第11代垂仁天皇の同母弟である。『日本書紀』・『古事記』とも事績の記載はない。『日本書紀』・『古事記』によれば、第10代崇神天皇と、皇后の御間城姫との間に生まれた皇子である。同母兄として活目入彥五十狹茅尊(第11代垂仁天皇)がいる。『日本書紀』によれば、垂仁天皇28年10月5日に倭彦命は薨去し、11月2日に「身狭桃花鳥坂(むさのつきさか)」に葬られた。その際、近習は墓の周辺に生き埋めにされたが、数日間も死なずに昼夜呻き続けたうえ、その死後には犬や鳥が腐肉を漁った。これを哀れんだ天皇は殉死の禁令を出したという。また同書垂仁天皇32年7月6日条では、皇后の日葉酢媛命(ひばすひめのみこと)が薨去した際、天皇は野見宿禰の進言に従って人・馬などの土物(はにもの)を墓に立てて代替とすることを命じ、以後これが慣例になったとする(人物埴輪・形象埴輪の起源譚)。この起源譚は、垂仁28年条の記事が前提になる。『古事記』では、倭日子命(倭彦命)の分注として、倭日子命の時に初めて陵に人垣を立てたとしている。また、同様の伝承は『続日本紀』天応元年(781年)条にも記されている。倭彦命の墓は、宮内庁により奈良県橿原市鳥屋町にある身狭桃花鳥坂墓(むさのつきさかのはか、)に治定されている。公式形式は山形。考古学名は「桝山古墳(ますやまこふん)」。この桝山古墳は現在では前方後円形となっているが、前方部は明治以降の付加によるもので、本来は一辺約90メートルの方墳である。墳丘は3段築成で、日本最大級の規模を誇る巨大方墳になる。墳丘には埴輪が存在することが知られ、その埴輪片から5世紀前半の築造と推定される。『日本書紀』では倭彦命は上記のように「身狭桃花鳥坂」に葬られた旨が記されているが、『延喜式』諸陵寮では記載を欠いている。江戸時代には鬼の爼・鬼の雪隠東方の石室を倭彦命墓に比定する説もあった。明治10年(1877年)4月に内務省によって現在の墓に定められ、明治19年(1886年)に宮内省(現・宮内庁)によって用地買収とともに同地にあった神社が移転され、明治23年(1890年)以後に前方後円形に修営された。しかし現在では治定に否定的な見解も強い。上記のように『日本書紀』『古事記』において、倭彦命には殉死との関わりが記されている。日本における殉死習俗を知る他の記事としては、『魏志』倭人伝に卑弥呼死去の際に「奴婢百余人」の殉葬が見えるほか、『日本書紀』大化2年(646年)3月25日条に殉死禁止の詔がある。なお、『日本書紀』の伝承はあくまで「人物埴輪・形象埴輪の起源譚」であって、「円筒埴輪の起源譚」ではない点が注意される。考古学的には、円筒埴輪は弥生時代の吉備地方で見られる特殊器台・特殊壺に淵源を持つ古い風習である一方、人物埴輪・形象埴輪は古墳時代中期から見られる風習になる(ただし前期にも人形土製品・石製品を墓に置く風習が稀に存在する)。

出典:wikipedia

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