宝永三ツ宝丁銀(ほうえいみつほうちょうぎん/ほうえいみつたからちょうぎん)とは宝永7年4月2日(1710年)から鋳造開始された丁銀の一種で秤量銀貨であり、単に三ツ宝丁銀(みつほうちょうぎん)とも呼ばれる。また宝永三ツ宝丁銀および宝永三ツ宝豆板銀を総称して三ツ宝銀(みつほうぎん)と呼ぶ。表面には「大黒像」および「寳」の文字および両端に二箇所の「宝」字極印およびその内側に一箇所のやや小型の「宝」字極印が打たれ「常是」の極印は無い。また、「大黒像」極印を12箇所打った祝儀用の十二面大黒丁銀が存在する。勘定奉行の荻原重秀の計らいにより永字銀の発行から1ヶ月も経たないうちにさらに銀品位を下げる吹替えが将軍の決裁を得ることなく行われた。三ツ宝銀の鋳造量は少ないわけではないが、1年余りでさらに四ツ宝銀への吹替えが行われているため、古銀を交換回収し三ツ宝銀を普及させる間もなく流通も少なかったものと見られ、現存数も永字銀についで少ない。享保7年末(1723年)に、元禄銀、二ツ宝銀、永字銀、および四ツ宝銀と共に通用停止となった。宝永三ツ宝豆板銀(ほうえいみつほうまめいたぎん)は宝永三ツ宝丁銀と同品位の豆板銀で、「寳」文字および「宝」字を中心に抱える大黒像の周囲に小さい「宝」字が廻り配列された極印のもの「廻り宝」を基本とし、また「宝」字が集合した「群宝」、大文字の「宝」字極印である「大字宝」などが存在する。いずれの「宝」字極印も玉の上部がウ冠まで突き抜けていることで二ツ宝銀と区別され、玉の底辺の両側が跳ねていることを特徴とする。規定品位は銀32%(六割四分八厘引ケ)、銅68%である。明治時代、造幣局により江戸時代の貨幣の分析が行われた。宝永三ツ宝銀については以下の通りである。雑分はほとんどが銅であるが、少量の鉛、ビスマスなどを含む。『吹塵録』によれば丁銀および豆板銀の合計で370,487貫余(約1,382トン)である。しかしながら、『月堂見聞集』では353,870貫余(約1,320トン)としており、これは発行途中の段階のものであると考えられる。公儀灰吹銀および回収された旧銀から丁銀を吹きたてる場合の銀座の収入である分一銀(ぶいちぎん)は三ツ宝銀では永字銀と同じく鋳造高の10%と設定され、また吹替えにより幕府が得た出目(改鋳利益)は80,199貫余であった。
出典:wikipedia
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