LINEスタンプ制作代行サービス・LINEスタンプの作り方!

お電話でのお問い合わせ:03-6869-8600

stampfactory大百科事典

本庄実忠

本庄 実忠(ほんじょう さねただ、明応6年(1497年)? - 天正8年8月24日(1580年10月2日)?)は、戦国時代の武蔵国本庄の武将。東本庄館5代館主、第一次(前期)本庄城初代城主。官途名は宮内少輔(くないしょうゆ)。東本庄館の初代館主本庄宮内少輔信明の曾孫である本庄実明の長男として東本庄館に生まれる。天文15年(1546年)、河越夜戦において後北条氏と戦い、手傷を負いながらも奮戦、武功を上げ、上杉憲政より西本庄の地を賜る。しかし、上杉家が敗走を繰り返し、上杉家の居城であった奇居鉢城も北条方に移る。天文20年(1551年)、両軍が神川、上里一帯で再び合戦となるも、上杉軍は破れ、上州より越後へ敗走。以後、実忠は後北条氏に服属する事となる。弘治2年(1556年)に本庄城を築き、長年の本拠地であった東本庄館を去る。その後、勢力奪還を図った憲政が上杉謙信と共に関東に進出し、実忠も再び上杉旗下に入り、永禄4年(1561年)に後北条氏の本拠地である小田原城の攻撃に従う。永禄10年(1567年)に後北条氏が反撃を開始し、謙信と合戦をするべく厩橋城へ向かい、途中にある本庄城は北条軍の攻撃を受け、一端落城。実忠も降伏するしかなく、再び北条氏に服属することとなる。皮肉にも次代である本庄隼人正近朝は小田原城にて自害することとなる。天文15年(1546年)、後北条氏の打倒を図った上杉家に従い、実忠は河越城の攻略に加わる。城を包囲して兵の降伏を待ったが、夜間に乗じて城より討って出て来た北条氏康軍に不意をつかれ、上杉陣営は総崩れとなる。この時、本庄氏一族の本庄藤三郎が本陣を守り、憲政の脱出を助け、実忠も手傷を負いながらも奮戦する。結果、実忠は退去できたが、藤三郎は戦死。この本庄氏一族の奮闘に感激した憲政は感状を発すると共に、実忠には西本庄の地を賜え、藤三郎の遺児である松寿丸には久下塚(大字北堀字久下塚)の地を恩賞として与えた。山内上杉氏によって五十子陣が築かれた頃(15世紀中頃)、在地の本庄宮内少輔信明が東本庄(北堀地内)に館を構えていた(これ以前から本庄四郎左衛門尉時家が館を建設していたものと推定される)。本庄氏は本庄城へ大移動するまでは、東本庄の館を拠点とし、5代にわたって居構えていた。本庄城の築城目的に関しては諸説あり、実忠が北条氏側に仕えることとなり、上州からの進軍に備えて築かれたとも、東の古河公方家(足利家)を迎え撃つために築かれたともされる(書籍によって築かれた目的が異なる)。ただ、新たな要害の地を築くべく、本拠地であった東本庄の館から大移動を展開する事となったのは確かである(元の館より北方に位置し、より国境沿いに近付いている)。時に弘治2年(16世紀中頃)。こうして(第一次・前期)本庄城が久城掘り東岸に築かれ、実忠が初代城主となる。当然、この時に諸々の氏神(本庄の金鑚神社)や寺院も一緒に移動させられた(その後、金鑚神社はさらに別の場所へ移転する)。実忠は天正8年(1580年)に85歳(満84歳)にして亡くなる(元主君であった上杉憲政の死後、1年の事であった)。その家督は本庄隼人正近朝が継ぐこととなるが、10年後の天正18年(1590年)5月、小田原征伐の際、豊臣秀吉に攻められ、落城に際して自害することとなる。本庄氏が築いた本庄城も5月27日に落城し、ここに武蔵国の本庄氏は滅亡する。本庄氏の在城期間は2代合わせて34年であった。この評価は平成の『本庄歴史民俗資料館紀要』によるものだが、昭和の『資料館だより』では、町を整理し、宿場町の基盤を形成したのは小笠原信嶺とある。その為、厳密には本庄北部の開拓者として実忠は評価される。伝承のように実忠の時代から城下町が形成されていたかは、発掘調査の結果では、実のところ、疑われている。

出典:wikipedia

LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。