伊原 春樹(いはら はるき、1949年1月18日 - )は、日本広島県出身の元プロ野球選手(内野手)。1971年から1973年の登録名は「伊原 春植」(いはら しゅんしょく)。ニックネームは「ハル」。選手としては西鉄・太平洋・クラウン・西武、巨人でプレーした。現役引退後は指導者に転身して西武(コーチ・監督)、オリックス(監督)、阪神、巨人(コーチ)の各球団に所属した。広島県甲奴郡上下町(現:府中市)生まれ。6人兄弟の次男で女4人、男2人の4番目だった。上下中学校から広島県立北川工業高等学校(現:広島県立府中東高等学校、監督は古葉毅の実弟古葉福生)に進む。夏の甲子園県予選では、三塁手、四番打者として活躍。準決勝で本塁打を放ち決勝に進出するが、広島商の山本和行に完封を喫し、甲子園出場を逸する。卒業後は東京都の芝浦工業大学へ進学。東都大学リーグ加盟の同野球部では在学中2度優勝。春季リーグでは、同期の投手・前野和博(東芝)とともに芝工大の3度目の優勝に貢献、三塁手としてベストナインにも選ばれた。大学の1年下に捕手の道原裕幸がおり、三番道原、四番伊原が打の中心であった。同年の秋季リーグでは、大学紛争の影響もあり部員が急減する中、監督兼主将をつとめ、リーグ5位ながら一部残留を決める。一部リーグ通算49試合出場、128打数29安打、打率.227、3本塁打、14打点の成績を残した。1970年度新人選手選択会議で西鉄ライオンズから2位で指名され、入団・プロ入りする。当時、学生運動で大学がロックアウトされ授業が受けられなくなったことと、入団先が福岡県であったことから卒業に要する単位が足りず、中途退学扱いでの入団だった。初年度のから控え三塁手として一軍に定着、一方で二軍のジュニアオールスターゲームにも選出される。翌には竹之内雅史の外野コンバート、船田和英のヤクルト移籍が重なり、レギュラー三塁手として118試合に出場。しかし、太平洋クラブライオンズとなったには内野の再編もあって定位置を菊川昭二郎に譲った。同年、アメリカのマイナーリーグ1A級に属するローダイ・ライオンズに野球留学。その後は徐々に出場機会が減る。、関本四十四、玉井信博とのトレードで加藤初と共に読売ジャイアンツ(巨人)へ移籍。2年間在籍したがあまり出番はなく自由契約となる。にクラウンライターライオンズ(1976年に太平洋クラブから球団名変更)へ復帰。ここでは準レギュラーとして活躍するが、西武となってから二年目のには出場機会が減り、同年限りで現役を引退する。引退後は、の二軍守備走塁コーチ補佐を皮切りに、1982年から1984年二軍打撃コーチ。1985年、一軍守備走塁コーチ補佐となるが1年でチームスタッフに降格し、1987年、一軍守備走塁コーチに復帰。オフ、監督・東尾修との野球観の違いやフロントの首脳陣若返り策により解任。に阪神タイガースの守備走塁コーチへ就任するが1年で退団し、翌、西武に作戦・走塁コーチとして復帰。同シーズン限りで東尾が勇退し、次期監督と目された伊東勤が現役続行を望んだため、監督に就任するよう要請され、これを受諾する。就任1年目の、90勝を挙げて4年ぶりのリーグ優勝に貢献。翌は、後身の育成のため清水雅治に監督就任後も続けていた三塁コーチを任せ、好成績の2位で終わるものの、当初から予定されていた伊東の監督就任を受け辞任。、オリックス・ブルーウェーブの監督に就任(変則3年契約=2年契約 + オプション1年)。2年連続最下位に沈んだチームの再建を期待されるが、負けが込むに従って選手・コーチとの間に軋轢が生じ、最下位に終わる。また再編問題・大阪近鉄バファローズとの合併のあおりを受け、契約年数を残して1年限りで退任した。よりニッポン放送・J SPORTS(CS衛星テレビ)のプロ野球解説者、日刊スポーツ評論家、ベースボール・マガジン社顧問。また、2005年・には、横浜対西武交流戦でテレビ神奈川(tvk)の中継解説者も務めた(2005年は5月20日、2006年は5月19日を担当)。、巨人のヘッドコーチ兼三塁コーチに就任(監督の原辰徳に電話をかけて「OBとして立て直したい、私にやらせて欲しい」とコーチを申し出た結果実現した)。、兼任していた三塁コーチを緒方耕一に任せ、ヘッドコーチに専念する。、原がWBC日本代表監督に就任した関係で、3月のオープン戦において監督代行を務めた。シーズンでは再びコーチを務め、最終的にリーグ優勝・日本一に貢献した。、リーグ4連覇と日本一連覇を逃した責任を取ってコーチを辞任するが、球団の慰留を受け球団編成本部シニアアドバイザーに異動した。1月、12月31日付けで球団編成本部シニアアドバイザーを辞職したことが発表された。2012年からは東京スポーツ評論家(専属)のほか、J SPORTS、この年から西武主催公式試合の中継放送を始める朝日ニュースター(からはテレ朝チャンネル2。いずれもテレビ朝日直営CS放送)、BS朝日(テレビ朝日系BS放送)各衛星テレビ局の野球解説者を務めた。2013年シーズンオフ、11月3日に辞任した渡辺久信の後を受けて再び埼玉西武ライオンズの監督として指揮を執ることになった。背番号は73。、開幕から3連敗スタートで、両リーグ最速の30敗となるなど序盤から最下位に低迷。6月3日に伊原は球団の休養を申し入れ、翌4日に了承され、開幕から53試合目となる同日の対横浜DeNAベイスターズ戦(西武ドーム)の試合後に伊原の休養と、監督代行に打撃コーチの田辺徳雄が就任することが発表された。6月27日、球団に監督の辞任を申し入れ、了承され、7月1日付で球団本部付アドバイザーに就任したが、同年末で退団した。2月からは野球解説者・評論家に復帰。東京スポーツ専属評論家をはじめ、各放送局で解説者を務める。同年7月3日、文化放送で放送された西武対ロッテ戦中継へのゲスト解説が復帰後初解説となった。西武コーチ時代、三塁ベースコーチとして的確な走塁判断を行い、西武の頭脳と呼ばれた。緻密な西武野球は伊原の手腕によるものと評価は高い。対戦チームの選手の癖を見抜き、見抜いた癖をベンチでメモ帳に書き留めていく姿は対戦相手に脅威を与えた。伊原の名前を全国区にしたのは、1987年の日本シリーズ第6戦であった。8回裏2対1と西武1点リードで迎えた二死一塁、秋山幸二がセンター前ヒット。通常は一、二塁、あるいは一、三塁の場面であるが、一塁ランナー辻発彦は一気にホームイン。後に「伝説の走塁」と呼ばれる走塁であり、このとき辻に突入を指示したのが、当時コーチだった伊原であった。対戦チームである巨人の中堅手ウォーレン・クロマティは返球が緩慢であり、中継プレーに入る遊撃手川相昌弘には「二塁進塁を警戒して打者走者を見るために右回転し、結果先の走者を見ない」という癖があった。伊原は2人の癖を看破し、かつ巨人ベンチがこの癖に気付いていないと見抜き、辻に突入を指示したのである。この走塁指示により、伊原の洞察力と走塁判断の確かさは全国に知れ渡ることになる。伊原は著書の中で1987年はセ・リーグでは巨人が独走しており「間違いなく巨人が来るな」と家でも遠征先でも巨人の試合をマメに見ていたという。「中継を見ているとクロマティのところにフライが上がった時、ランナーがいなければクロマティは必ずホワーンとした投げ方で内野に返す。ランナーがいたらどうかというと、普通に投げる事は投げるんです。ただ、弱肩なのかクセなのか、ランナーなしの場面より素早く投げるものの、それでも私から見ればホワーンとしたボールを返してます」「これは生かせるな」とあの走塁が生まれたという。もっとも、このプレーがあまりに有名だがそれに限らず、オリックス監督時代や巨人コーチ時代などに何度かシングルヒットでの一塁走者の本塁生還をサードコーチャーとして成功させている。伊原は「コーチは嫌われ者でなければならない。選手に好かれようと思ったら、お互い成長が止まる」と発言しており、どのチームでも鬼軍曹として非常に厳しい指導を行った。また味方を擁護するため、対戦相手となる他チームの選手や監督、コーチらに対しても容赦ない振る舞いを見せた。2013年11月の西武監督復帰時には、鬼が帰ってきたと一部では揶揄された。ただし、そのような誰が相手でも容赦なく歯に衣着せぬ発言をすることが原因で舌禍騒動を引き起こしたり、その妥協なき硬派な指導方針が原因で第二次西武監督時代においては選手との確執が相次ぎチームが低迷したとの見方もある(後述)。佐々木誠は「尊敬していたのは伊原さん。誰にでもはっきりとモノを言うし、ゴマをすったりしませんから」と語っている。オレステス・デストラーデは「伊原さんは厳しくて、いつも怒っていたよ」と述べている。シーズン開幕後は成績が上がらず、敗戦後に選手を名指しで痛烈に批判する場面も増えていたため、それが原因で一部選手との確執が報じられた。報道陣に対して「監督に敗戦後のインタビューは控えて欲しい。士気の低下を招く」と要望した選手や、「あの人(伊原)は勝ったら自分の手柄、負けたら選手の責任にする」と言い放った選手もいたとの一部報道もある。秋田への遠征中、5月16日に同市内で行われた全体練習で暴風雨だったにも関わらず、屋外での全体ランニングを強行。長期の遠征中だったこともあり、一部の選手から反発の声が上がった。伊原は報道陣に「これで負のオーラを流すことが出来る」と語り、低迷するチームへの発奮を促すためであると強調したが、選手たちからは不満の声が続出したという見方もあり、「これが決定的な関係悪化を招いた」と証言した関係者もいたとされ、約2週間後の休養も「事実上の解任」との噂も囁かれている。1年限りで阪神から西武に復帰したことから、野村克也とは不仲とされている。阪神退団の理由は家庭の事情によるものとしているが、当時阪神のチーフスコアラーだった三宅博は確執が原因で辞任したと記している。野村率いる楽天との交流戦(2008年5月29日)で、楽天2点リードの9回二死一塁で矢野謙次が盗塁を失敗しゲームセットになる。試合後、野村は「バッカじゃなかろかルンバ、巨人は面白い野球をするね、野球は意外性のスポーツ」とコメントし、これをマスコミは総じて「巨人ベンチの凡ミスを野村が指摘」という論調で取り上げた。翌日、野村のその言動を知った伊原は激怒し「うちの監督(原辰徳)を侮辱するな」と発言、マスコミに対して猛烈な反論を展開。伊原は野村がとった一連の言動を「選手が成功すれば自分の手柄にし、失敗すれば責任を他人へ押し付ける。そういう悪い癖は昔から何ひとつ変わっていない」と批判し、更に「年寄りだから仕方がない。考えを正す、思い直すということをしないのだろう」「年長者だからとみんな許してしまい、大抵の理不尽はまかり通ってしまう」などと厳しい言葉を続けた。野村も負けじと「先日の走塁ミスは原(辰徳)の策じゃないのはわかっている。彼は賢い男だから、その程度のミスは絶対に犯さない」と発言、伊原のコーチとしての采配能力についても触れ「(阪神コーチ時代の伊原は)どんな場面でも、誰が走者でも関係なく走らせた」「あまりにもチャンスを潰すものだから、最終的に伊原から走塁に関する指示の権限を取り上げるしかなかった」と語った。さらに野村は「昔から先輩に対するマナーがなっておらず、無礼で非常識な男」という伊原の人物評を明らかにし、マスコミの前で散々に皮肉った。伊原はなおも「自分の非を認めず、常識がない人間の言うことに耳を傾ける必要はない」とコメントしたが、その頃には各種マスコミで原や伊原自身がバッシングに晒されていた。翌2009年の交流戦で巨人が楽天に4戦全勝すると、伊原は報道陣の前で「野村監督さま、今年の交流戦は4連勝させていただき、ありがとうございます。これもひとえに『ノムラの考え』のおかげでございます。昨年いただいたお言葉は非常に参考になりました。今日は1年間お預かりしていた、あのお言葉をそっくりそのままお返しさせていただきます。バッカじゃなかろうか〜、ルンバ!」と野村をこき下ろした。2003年、中退扱いになっていた芝浦工業大学へ再入学し、残っていた単位を取得して2004年に卒業。卒業式は当時学長の江崎玲於奈らを交えてマスコミにも紹介され話題となった。現役時代、宅地建物取引士の資格試験を一発で合格。これは当時の伊原の居住先の大家が、大学卒業を果たせず、特に資格も持たなかった伊原に「ユニフォームを脱いでも職に困らぬよう」受験を薦めたためである。伊原は後年この大家の娘と結婚した。からまでは背番号78であったが、東尾修が監督就任時に78を希望した為、より背番号73を着けた。これは夫人からのアドバイスにより、夫人の名前との語呂合わせから採用したためであり、西武、オリックスの監督就任時にもこれを貫いたが、2007年より巨人の野手総合コーチに就任すると78を着けた。これは緒方耕一が恩師藤田元司の背番号の73を既に着けていたことと、自身が8回日本一になったゲンのいい番号であるからという理由である。西武監督再任時には再び73番を着けた。の所沢への球団移転に対しては、東尾、竹之内雅史らと共に最後まで反対していたが、西武監督時代にはトミー・ラソーダの「俺にはドジャーブルーの血が流れている」に倣って「俺にはライオンズブルーの血が流れている」とまで発言している。巨人ヘッドコーチ就任後も、当時守備が上達しなかった西武の中島裕之を「ナカジはどうしてる? あいつはサードが一番向いているんだが…」と案じていた。西武監督時代、2002年オフに放出した鈴木健がヤクルトスワローズに移籍した翌2003年のシーズンに大活躍。オールスターに選出され、前年リーグ優勝チーム監督としてパ・リーグを率いる伊原のもとに挨拶に行ったが理不尽に怒鳴られ退散せざるをえなかったという。強面の反面リップサービスも嫌いではない。ニッポン放送の解説者時代、中継開始前に野村克也の物まねをしたこともある。好きな食べ物はカレーライスで、それも普通の人ならとても食べられないレベルの激辛が好み。2010年の巨人春季キャンプでは、宿舎となったホテルで提供されるカレーライスが伊原のリクエストで日を追うごとに辛さを増し、他の選手・スタッフがとても食べられないほどになってしまったため、キャンプ後半には普通の選手用の「中辛」と伊原用の「激辛」の2種類が用意されたという。携帯電話が大嫌い。西武時代に首脳陣が持たせようとしたが「携帯電話で、自身の行動範囲を縛られる感覚が理解できない」と拒否、以後も持っていない。伊原への伝言は全て夫人が管理していると言う。2008年、萩本欽一が巨人のキャンプを訪れ、ファンの前で“欽ちゃん走り”をするよう伊原に振った。伊原は「イメージ壊すからね~…」と初めは拒んだものの、「イメージを壊して違うところへ行く巨人が見たい」という一歩も引かない萩本の態度に屈し、欽ちゃん走りを披露した。自伝によると二軍のコーチ時代から監督時代も含め、20年間、攻撃時には三塁コーチを担当する事が多かったが、最初に一軍のコーチに配置転換した際には、一塁コーチを務めていた時期もわずかにあったと言う。※いずれも、解説者として出演したプロ野球中継。
出典:wikipedia
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