エドワード・ヘンリー・ハリマン(Edward Henry Harriman, 1848年2月20日 - 1909年9月9日)はアメリカ合衆国の実業家。W・アヴェレル・ハリマンの父。1848年、聖公会牧師オーランド・ハリマンとコーネリア・ニールソンの次男としてニューヨーク・ヘンプステッドに生まれる。曽祖父ウィリアム・ハリマンは1795年にイングランドから移住し、商取引に携わった。14歳で学校を卒業した後、叔父オリバー・ハリマンが勤めていた伝手を頼りウォール街で働き始める。22歳の時にニューヨーク証券取引所の会員となる。1879年、ハリマンはニューヨークの銀行家ウィリアム・J・アヴェレールの娘と結婚する。アヴェレールはシャンプレーン湖にある鉄道会社の社長も務めており、ハリマンは彼の影響を受け鉄道に関心を抱くようになる。1881年、ハリマンはオンタリオ湖にある破産した鉄道会社を買収し、会社を再建した後にペンシルバニア鉄道へ権利を売却し莫大な利益を得た。1897年、ユニオン・パシフィック鉄道の執行委員長に就任し、1898年5月まで在任した。また、この頃に会社の主導権を確立し、死去するまで会社に影響力を与え続けた。1899年、アラスカ州沿岸の動植物の研究採取を試みる科学者を後援し、自社の「ジョージ・W・エルダー」号を科学者たちに提供している。1903年、社長に就任。また、1901年にはサザン・パシフィック鉄道を買収し、同社の社長に就任している。ハリマンはユニオン・パシフィック鉄道とサザン・パシフィック鉄道の統合を目指すが、死後の1913年に合衆国最高裁判所により経営権を分離されてしまう。最終的に統合が実現するのは1996年になってからのことである。日露戦争中にはジェイコブ・シフと共に日本の戦時公債を1人で1,000万円分も引き受け、1905年のポーツマス条約締結後に訪日して、1億円という破格の財政援助を持ちかけて、南満州鉄道の共同経営を申し込んだ。日本側も乗り気で奉天以南の東清鉄道の日米共同経営を規定した桂・ハリマン協定を結んだが、小村寿太郎外相の反対により破棄されてしまう。このことがアメリカの対日感情を悪化させ、後の対米開戦の遠因となったとする論もあるが、1917年に石井・ランシング協定によってアメリカが日本の満州の特殊権益を認めているため、その可能性は低い。2カ月間の日本滞在中に柔術に関心を抱くようになった。ハリマンは柔道家の富田常次郎・前田光世や6つの柔術・力士団体と共に帰国し、2月7日にはコロンビア大学で公演を開き600人の観客を集めた。1909年9月9日、ニューヨーク・アーデンの自宅で死去し、アーデンにある聖ジョーンズ教会に埋葬された。ハリマンの死去に際し、1899年のアラスカ調査に参加したジョン・ミューアは「ほぼ全てにおいて、彼は称賛すべき人物だった」と賛辞を贈った。
出典:wikipedia
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