金 無英(キム・ムヨン、1985年11月22日 - )は、東北楽天ゴールデンイーグルスに所属する韓国・釜山広域市出身のプロ野球選手(投手)。中学校卒業後、テレビで見た日本の高校野球にあこがれ早鞆高校へ野球留学。福岡経済大学(現・日本経済大学)に進学後はプロ野球ドラフト会議の指名候補にも上ったが、肩を痛めたために指名を受けることはできなかった。その後、四国・九州アイランドリーグの福岡レッドワーブラーズのトライアウトに合格し入団。シーズン当初は故障のため出遅れたが、復帰後は抑えに定着。35試合に登板し17セーブ、防御率0.41という好成績を残した。福岡レッドワーブラーズでは監督の森山良二にプロとしての姿勢を教えられ、「福岡レッドワーブラーズには本当に感謝している」と取材で述べている。10月30日のドラフト会議で福岡ソフトバンクホークスに6位で指名され入団。ホークスは意中の球団であった。韓国籍であるが、日本の高校・大学に通っていたので外国人枠から外されており、登録上は日本人選手扱いとなっている。4月に日本人女性と結婚。右肩の炎症で公式戦には出遅れたが、7月17日のロッテ戦(千葉マリンスタジアム)の救援登板で一軍デビューを果たした。しかし、一軍公式戦への登板はこの1試合だけでには登板機会がなかった。には9試合に登板。防御率2.35を記録した。シーズン終了後の11月から12月下旬まではチームメイトの柳田悠岐・川原弘之と共に、プエルトリコのウィンターリーグへ派遣されている。は、公式戦の開幕を一軍で迎えると主にビハインドの場面で中継ぎとして自己最多の29試合に登板した。6月23日の対北海道日本ハムファイターズ戦(福岡Yahoo! JAPANドーム)では、3点ビハインドの8回表無死から登板。1イニングを3者連続三振で無失点に抑えると、8回裏にチームが逆転して勝利したため、一軍での初勝利を挙げた。には、5月9日の対オリックス・バファローズ戦(ほっともっとフィールド神戸)戦で1点リードの9回裏2死満塁から登板、クローザーのブライアン・ファルケンボーグによる川端崇義への頭部死球(危険球宣告による退場)を受けての緊急登板だったが自身の押し出し四球で同点に追い付かれると、山本和作に生涯初のサヨナラ安打を許した。同月15日の出場選手登録抹消後は、約3ヶ月にわたって二軍で調整。9月5日の対日本ハム戦(東京ドーム)では、一軍の先発投手不足を背景に一軍初先発を果たした。この登板では、金が2回裏まで投げた後に3回裏から継投策に入ることを予定していたという。しかし実際には、初回に4点の援護を受けたにもかかわらず1回3分の2を投げただけで6点を失って敗戦投手になった。一軍公式戦全体では、この試合での先発を除いて、中継ぎで22試合に登板している。には、自身2年振りの開幕一軍入りを果たすと一軍公式戦25試合に登板した。8月11日の対日本ハム戦(福岡ヤフオク!ドーム)での救援で自身2年振りの勝利を挙げるなど、1勝2ホールドを記録した。一軍のパシフィック・リーグ優勝で迎えたポストシーズンには、阪神タイガースとの日本シリーズへの出場資格を得たものの、登板の機会はなかった。には3月上旬に右肘を痛めたが、4月23日に香川オリーブガイナーズとの三軍戦で実戦に復帰した。しかし、一軍公式戦への登板機会はなく10月4日に球団から戦力外通告を受けた。11月12日から、入団テストを兼ねて東北楽天ゴールデンイーグルスの秋季キャンプに参加。同月15日の紅白戦終了後、一軍監督・梨田昌孝から合格が発表された。12月7日、コボスタ宮城敷地内の「イーグルスドーム」において同じく秋季キャンプでの入団テストで合格した栗原健太(前・広島)、川本良平(前・ロッテ)、山内壮馬(前・中日)との合同で入団会見を行った。背番号はソフトバンク時代と同じ61。は、移籍した楽天でも一軍でわずか2試合の登板にとどまり、10月1日に球団より戦力外通告を受けた。オーバースローから最速147km/hのストレートとカットボール・カーブ・フォークボールを投げる。
出典:wikipedia
LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。