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玉波 (駆逐艦)

玉波(たまなみ)は、日本海軍の駆逐艦。夕雲型の9番艦である。1939年度(マル4計画)仮称第124号艦として藤永田造船所で建造。1943年(昭和18年)4月30日に竣工して一等駆逐艦に類別され、舞鶴鎮守府籍となる。竣工後、訓練部隊の第十一水雷戦隊(木村進少将(海軍兵学校40期))に編入。瀬戸内海に回航され訓練を受けた後、6月22日に若月とともに横須賀に回航され、6月23日に到着した。到着後間もなく、遠州灘でアメリカ潜水艦ハーダー ("USS Harder, SS-257") の雷撃で擱座した元特設水上機母艦相良丸(日本郵船、7,189トン)の救難作業を若月とともに支援。6月27日に柱島泊地に帰投した。7月1日、第二水雷戦隊(伊崎俊二少将(海軍兵学校42期))に編入される。7月9日に呉を出港し、トラック諸島まで空母冲鷹、水上機母艦日進などを護衛。7月15日にトラックに到着後、軽巡洋艦五十鈴とともにナウル島への輸送作戦に従事し、7月22日にトラックに帰投した。その後はトラックとパラオ間を行き交うタンカーなどの護衛に従事。9月18日、第三艦隊(小沢治三郎中将(海軍兵学校37期))と第二艦隊(栗田健男中将(海軍兵学校38期))のマーシャル諸島方面への出撃に際して、第三艦隊付属のタンカー日栄丸(日東汽船、10,020トン)を護衛してトラックを出撃。9月21日にエニウェトク環礁に到着したものの、2日後にはトラックに向けてエニウェトク環礁を出港した。トラックに帰投後、9月29日に空母隼鷹、軽巡洋艦木曾、多摩を護衛してトラックを出港し、10月5日に呉に帰投した。10月1日付で第三十二駆逐隊に編入され、10月14日には空母雲鷹、隼鷹を護衛して呉を出撃し、10月19日にトラックに到着した。11月3日、第三十二駆逐隊は第二艦隊の主力を護衛してトラックを出撃し、ラバウルに進出。しかし、11月5日にラバウルは第38任務部隊(フレデリック・シャーマン少将)の空襲を受ける(ラバウル空襲)。ラバウルに進出したばかりの第二艦隊主力は空襲で大損害を蒙り、栗田中将は即座にトラックに退却する事とした。第二艦隊主力とともに11月8日にトラックに帰投し、横須賀に下がる空母翔鶴、重巡洋艦愛宕、高雄を護衛して11月11日にトラックを出港。11月15日に横須賀に帰投後は整備を行い、島風とともに翔鶴を護衛してトラックに進出。短期間船団護衛に従事の後、12月16日に重巡洋艦最上を護衛してトラックを出港して12月21日に呉に帰投し、修理に入った。1944年(昭和19年)1月17日に修理を終えると横須賀に回航され、高雄、空母千代田、瑞鳳を護衛してトラックに進出する。しかし、2月5日のクェゼリンの玉砕によりアメリカ軍の脅威が差し迫り、連合艦隊はトラックからの総引き揚げに決した。2月10日、満潮、白露とともに戦艦武蔵を護衛してトラックを出港し、途中で分離の上2月15日に呉に帰投して機銃増備工事とレーダー取り付け工事が行われた。瀬戸内海での訓練の後、5月10日に武蔵、第二航空戦隊などを護衛して佐伯を出撃してタウイタウイに向かい、5月15日に到着した。6月19日のマリアナ沖海戦では丙部隊(第三航空戦隊、第二艦隊。栗田健男中将)に属した。海戦後、6月22日に中城湾に立ち寄った後、翌23日に藤波とともに出港してマニラを経由し、昭南に回航された。7月2日、昭南からマニラ経由で日本に向かうタンカー旭東丸(飯野海運、10,051トン)の護衛に藤波とともにあたった。7月7日未明2時ごろ、のマニラ湾口西方海域を航行中にアメリカの潜水艦ミンゴ ("USS Mingo, SS-261") を探知し、ミンゴもレーダーにより4つの目標を探知した。「吹雪型駆逐艦」、すなわち玉波が推定23ノットの速力で向かってきていると判断した後、潜航してさらに観測を続けた。一方のミンゴも2発に及ぶ爆雷攻撃をやり過ごした後、艦尾発射管から魚雷を4本発射した。しかし、これは命中しなかった。1時間後に体勢を立て直し艦首発射管から魚雷を4本発射し、うち3本が命中して玉波は艦首から沈没していった。藤波は玉波がいるあたりに火炎と爆炎が立ち昇るのを認めて反転し、7月9日まで断続的に捜索を行ったが手がかりはつかめなかった。駆逐艦長千本木十三四中佐以下276名が戦死した。

出典:wikipedia

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