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浜波 (駆逐艦)

浜波(濱波、はまなみ)は、日本海軍の駆逐艦。夕雲型駆逐艦の13番艦である。日本海軍の法令上は旧字体の濱波を使用するが、本記事では浜波とする。一等駆逐艦「浜波」は1943年(昭和18年)10月15日に舞鶴海軍工廠で竣工した夕雲型駆逐艦。訓練部隊の第十一水雷戦隊に編入され、内海西部で訓練に従事。12月15日附で第32駆逐隊に編入され、夕雲型4隻(浜波、玉波、早波、藤波)として第二水雷戦隊に所属した。1944年(昭和19年)前半は船団護衛任務に従事した後、6月下旬のマリアナ沖海戦に参加。10月下旬、捷号作戦にともなうレイテ沖海戦に第二艦隊司令長官栗田健男中将指揮下の第一遊撃部隊(通称栗田艦隊)に所属して参加、生還した。レイテ沖海戦直後の11月11日、「浜波」は第三次レイテ輸送作戦に従事中、オルモック湾で米軍機動部隊艦載機多数の空襲を受け撃沈された(多号作戦)。1942年度(マル急計画)仮称第341号艦として舞鶴海軍工廠で建造。舞鶴海軍工廠は本艦をふくめ夕雲型6隻(夕雲、巻波、早波、浜波、沖波、早霜)の建造を担当した。1942年(昭和17年)4月28日、第341号艦(浜波)は起工。本艦は、秋月型駆逐艦4番艦「初月」や島風型「島風」等と共に建造された。9月25日、第341号艦は特務艦2隻(洲埼、風早)や潜水艦等と共に命名される。同日附で各艦は艦艇類別等級表に登録される(浜波は夕雲型駆逐艦に類別)。1943年(昭和18年)4月18日、「浜波」は進水。同日附で舞鶴鎮守府籍。4月24日には夕雲型5番艦「巻波」が舞鶴に到着、他艦(霞、不知火、初春)等と共に修理に入る。9月17日、日本海軍は陽炎型駆逐艦10番艦「時津風」沈没時艦長本倉正義中佐(海兵51期)を、浜波艤装員長に任命する。また初春型駆逐艦2番艦「子日」水雷長や夕雲型4番艦「長波」竣工時水雷長等を歴任した西村正直大尉を浜波艤装員に任命する。舞鶴海軍工廠に浜波艤装員事務所を設置。10月15日、竣工。浜波艤装員事務所を撤去。同日附で本倉中佐(浜波艤装員長)は制式に浜波駆逐艦長となる。主な初代幹部は、水雷長西村正直大尉(後日、重巡「筑摩」水雷長)、航海長坂牧平一大尉、砲術長稲政博中尉。1943年(昭和18年)10月15日の竣工と同時に、「浜波」は訓練部隊の第十一水雷戦隊(司令官木村進少将・海軍兵学校40期)に編入。瀬戸内海に回航され、約二ヶ月間にわたり臨時編入艦と共に訓練を受けた。12月15日、「浜波」は第二水雷戦隊(司令官早川幹夫少将・海兵44期)麾下の第32駆逐隊に編入される。当時の32駆司令は、白露型駆逐艦4番艦「夕立」初代艦長や陽炎型10番艦「時津風」初代艦長等を歴任した中原義一郎大佐(海軍兵学校48期)。第32駆逐隊は前月のラバウル空襲で夕雲型10番艦「涼波」を喪失して3隻編制となっており(昭和19年1月5日除籍)、本艦の編入により定数4隻(玉波、早波、藤波、浜波)となった。12月25日、呉を出撃してトラック諸島まで波船団甲梯団の護衛に従事する。1944年(昭和19年)1月4日にトラックに到着後、ポンペイ島に向かう輸送船松江丸(日本郵船、7,061トン)の護衛を行い、1月下旬からは島風とともにパラオ方面に派遣され、引き続き船団護衛に従事した。2月18日夜、給油艦佐多、特設給兵船日朗丸(日産汽船、6,534トン)、特設水雷母艦神風丸(山下汽船、4,918トン)とトラックからパラオまで船団を組んで護衛中、アメリカ潜水艦サーゴ ("USS Sargo, SS-188") の雷撃により日朗丸が沈没して佐多が航行不能となり、浜波は対潜掃討を行った。4月15日、第32駆逐隊司令は中原義一郎大佐から折田常雄大佐(秋月型2番艦照月沈没時艦長)に交代。中原大佐は5月8日附で長良型1番艦長良艦長となるが、8月7日の同艦沈没時に戦死した(中原は海軍中将へ特進)。その後、第32駆逐隊はリンガ泊地に進出。5月14日からは前進根拠地のタウイタウイ方面で対潜警戒に従事。6月7日昼頃、第32駆逐隊司令駆逐艦「早波」がアメリカの潜水艦ハーダー("USS Harder, SS-257")の雷撃で沈没。第32駆逐隊は2隻編制(藤波、浜波)となった。また早波沈没時に、早波艦長清水逸郎中佐と折田大佐(第32駆逐隊司令)が戦死した(折田は海軍少将に進級)。第32駆逐隊は、一時駆逐隊司令不在となる。そこで玉波艦長青木久治中佐(海兵50期)が6月15日附で第32駆逐隊司令に転任、早波艦長として着任予定だった千本木十三四中佐(海兵52期)が玉波艦長となった。6月19日のマリアナ沖海戦では、丙部隊(第三航空戦隊、第二艦隊主力)に所属して第二艦隊司令長官栗田健男中将(愛宕座乗)直率の第四戦隊(愛宕《第二艦隊旗艦》、高雄、摩耶、鳥海)、第三航空戦隊(司令官大林末雄少将:千歳、千代田、瑞鳳)、第一戦隊(司令官宇垣纏中将:大和、武蔵)、第三戦隊(司令官鈴木義尾少将:金剛、榛名)、第七戦隊(司令官白石万隆少将:熊野、鈴谷、利根、筑摩)、第二水雷戦隊(司令官早川幹夫少将:旗艦《能代》、第31駆逐隊《長波、岸波、朝霜、沖波》、第32駆逐隊《藤波、玉波、浜波》、附属《島風》)と行動を共にする。前衛部隊では、6月20日の戦闘で3隻(千代田、榛名、摩耶)に爆弾命中や至近弾による損害があった。日本艦隊は6月22日に中城湾に入港。6月24日、柱島泊地に帰投した。7月7日未明、米潜水艦ミンゴ ("USS Mingo, SS-261")の雷撃で「玉波」が沈没。第32駆逐隊司令青木中佐と千本木(玉波艦長)が戦死。第32駆逐隊は夕雲型2隻(藤波、浜波)となった。7月9日、第一戦隊(大和、武蔵)、第四戦隊など第二艦隊(栗田健男中将)の中枢を護衛して臼杵湾を出撃。途中、沖縄の第三十二軍(渡辺正夫中将)に対する輸送任務を行い、任務終了後はリンガ泊地に直接向かって7月16日に到着。訓練に励んだ。8月25日、白露型駆逐艦6番艦「五月雨」の座礁沈没により白露型2番艦「時雨」1隻となった第27駆逐隊より、同駆逐隊司令大島一太郎大佐(海兵50期)が第32駆逐隊司令に任命される。当時の第32駆逐隊は前述のように消耗を続け、夕雲型2隻(浜波、藤波)だけになっていた。10月18日、捷一号作戦発動に伴って、第二艦隊司令長官栗田健男中将(旗艦愛宕)を指揮官とする第一遊撃部隊はリンガ泊地から出動し、で補給の後、10月22日に出撃した。レイテ沖海戦における本艦は、第一遊撃部隊第一部隊(第四戦隊《愛宕〔第二艦隊旗艦〕、高雄、鳥海、摩耶》、第一戦隊《大和、武蔵、長門》、第五戦隊《妙高、羽黒》、第二水雷戦隊《能代、島風、第2駆逐隊〔早霜、秋霜〕、第31駆逐隊〔岸波、沖波、朝霜、長波〕、第32駆逐隊〔藤波、浜波〕)に属して戦闘に参加した。10月23日、米潜水艦2隻(ダーター、デ―ス)の襲撃により第四戦隊の高雄型重巡洋艦3隻は大打撃を受けた(沈没《愛宕、摩耶》、大破《高雄》)。「高雄」および護衛の31駆2隻(朝霜、長波)はブルネイに向け撤退。残存した「鳥海」は第五戦隊(司令官橋本信太郎少将)の指揮下に入った。また愛宕脱出後の栗田艦隊司令部(栗田長官、小柳冨次参謀長等)は「岸波」を経て「大和」(第一戦隊旗艦)に移乗、同艦より指揮をとる。10月24日のレイテ沖海戦・シブヤン海空襲では栗田長官(大和座乗)の第一部隊(第一戦隊《大和、武蔵、長門》、第五戦隊《妙高、羽黒、鳥海〔臨時編入〕》、第二水雷戦隊《能代〔旗艦〕、第2駆逐隊〔早霜、秋霜〕、第31駆逐隊〔岸波、沖波〕、第32駆逐隊〔浜波、藤波〕、島風型〔島風〕》)としてアメリカ軍機と交戦、「武蔵」が沈没、3隻損傷離脱(妙高、浜風、清霜)という損害を受けた。10月25日のサマール沖海戦における第二水雷戦隊は、米護衛空母部隊に肉薄できず大きな戦果はなかった。10月26日朝、第二水雷戦隊旗艦の阿賀野型軽巡洋艦2番艦「能代」が第38任務部隊(マーク・ミッチャー中将)の艦載機の空襲を受けて沈没。夕雲型2隻(浜波、秋霜)は早川幹夫少将・能代艦長梶原季義大佐以下第二水雷戦隊司令部や能代乗員の大部分を救助した。一方、沈没した重巡「鳥海」より乗組員を救助して退避中の姉妹艦「藤波」は撤退中に空襲を受け撃沈され、藤波・鳥海乗組員総員が戦死した。海戦後の駆逐艦5隻(島風、浜波、秋霜、岸波、浦風)は燃料が切れかかったため先行してコロン島で補給、栗田艦隊主隊は戦艦4隻(大和、長門、金剛、榛名)、巡洋艦3隻(羽黒、利根、矢矧)、駆逐艦2隻(磯風、雪風)に減少した。続いてブルネイ湾に帰投。ブルネイに退却後の10月30日、第二水雷戦隊司令部は「浜波」から「大和」に移動。11月1日、「浜波」はマニラ到着した。11月上旬、浜波以下第二水雷戦隊はレイテ島への日本陸軍輸送作戦(多号作戦)に従事することになり、「浜波」は第三次輸送部隊に所属して11月9日午前3時にマニラを出撃。第三次輸送部隊(指揮官早川幹夫第二水雷戦隊司令官)の編制は、輸送船5隻(せれべす丸、泰山丸、三笠丸、谷豊丸、天照丸)、護衛艦艇(島風〔第二水雷戦隊旗艦〕、浜波、初春、竹、掃海艇30号、駆潜艇46号)である。途中「せれべす丸」が座礁、護衛のため駆潜艇が分離した。11月10日21時、第三次輸送部隊はマスバテ島東方のブラックロック水道で、先にオルモック湾への輸送を行った第四次輸送部隊(第一水雷戦隊司令官木村昌福少将、海兵41期:旗艦「霞」)とすれ違い、第三次輸送部隊の駆逐艦2隻(初春型1番艦《初春》、松型2番艦《竹》)をマニラに帰投する第四次輸送部隊に移した上で、第四次部隊の駆逐艦3隻(朝霜、長波、若月)を第三次輸送部隊に加入させた。第三次輸送部隊は11月11日の正午ごろにオルモック湾に到着する予定であったが、その直前に第38任務部隊(ジョン・S・マケイン・シニア中将)の艦載機347機による空襲を受けた。大島大佐(第32駆逐隊司令)の回想によれば、当時の陣形は浜波(先頭艦)・若月・島風・長波・掃海艇30号・朝霜だったという。「浜波」は戦闘中に舵故障となり、続いて艦首に被弾して艦首を損傷。他に三発被弾して舵も損傷。また機銃掃射により戦死者・負傷者が続出した。浸水が始まり退艦準備中、零式艦上戦闘機5機が出現したため米軍機の注意が分散した隙を見て健在の夕雲型16番艦「朝霜」が「浜波」に接舷。大島大佐(32駆司令)と本倉中佐(浜波艦長)以下約200名が横付けした「朝霜」に救助された後、「浜波」は放棄された。この第三次多号作戦では本艦以外にも「島風」(第二水雷戦隊司令官早川幹夫少将戦死)、「若月」、「長波」と輸送船4隻が沈没した。この後、先に沈没した長波駆逐艦長飛田清少佐(海兵56期)が生き残った長波乗員数十名を引き連れて、いまだ浮いていた「浜波」に乗り移った。飛田少佐は乗員を各部署に配置させて機関の再始動にも成功したが、マニラ帰投に必要な缶用の真水が欠乏していたので浜波を陸上砲台にしようと決心した。しかし、潮流に流されて擱座に失敗し、浜波に残っていた糧食で夕食をとった後就寝。翌12日、飛田少佐以下の長波乗員は浜波を離れ、陸上から迎えに来た大発に移ってレイテ島に上陸した。「浜波」の船体がその後どうなったのかは定かではない。また浜波生存者153名が現地の海軍陸戦隊に編入され、マニラ市街戦やフィリピン地上戦に投入された。11月15日、第32駆逐隊は解隊。書類上在籍していた「浜波」は第31駆逐隊に転出、同隊は夕雲型駆逐艦4隻(長波《11月11日オルモック湾で沈没》、岸波《12月4日米潜水艦の雷撃で沈没》、沖波《11月13日マニラ湾で大破着底》、浜波《11月11日オルモック湾で沈没》)編制となった。11月22日、本倉正義大佐は浜波駆逐艦長の職務を解かれ、呉鎮守府附となる。1945年(昭和20年)1月10日、夕雲型6隻(長波、浜波、沖波、岸波、早霜、秋霜)は夕雲型駆逐艦より削除。また他艦と共に帝国駆逐艦籍から除籍。所属していた第31駆逐隊も解隊された。

出典:wikipedia

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