カンプチア人民共和国(カンプチアじんみんきょうわこく、People's Republic of Kampuchea (PRK))は、ベトナム軍によるカンボジア侵攻で民主カンプチア政権が崩壊した後、プノンペンに成立した国家。ベトナム軍の撤退とともにカンボジア国 (State of Cambodia (SOC)) と改称した。ポル・ポト派による都市住民の地方農村部への強制移住や大量虐殺の結果、国土は大きく疲弊し隣国ベトナムへ大量の避難民が流入した。ポル・ポト政権はベトナム領内の村へ攻撃を行い、ベトナム政府との関係が悪化した。避難民はベトナムの支援により「カンプチア救国民族統一戦線」を発足させ、1978年12月25日ベトナム軍とともにカンボジアに侵攻を開始、ポル・ポト政権は崩壊した。カンボジアの実質的な統治権を担うこととなった救国民族統一戦線はカンボジア人民革命党を再建し、1979年1月10日にヘン・サムリンを元首とする「カンプチア人民共和国」が成立した。カンボジアはベトナム軍の力によって、大量虐殺を招いたポル・ポト政権からやっと解放された。しかし、ベトナム人とカンボジア人の対立は深刻なものとなった。1982年7月25日、ポル・ポト派は同じく反政府のシハヌーク派、ソン・サン派と三派連合「民主カンプチア連合政府()」を成立させた。しかし、国連や国際社会は新政権をベトナムの傀儡政権と見なして承認せず、ゲリラである民主カンプチア連合政府が国連の議席を維持し続け、カンボジアの復興は立ち遅れた。ソ連が後ろ盾となったベトナムが支援するヘン・サムリン政権と、中国などが支援する三派連合の間で続く内戦は、国際社会の代理戦争の様相を呈した。1987年から冷戦構造が解消しソ連の崩壊が進むと、中国とベトナムとの関係も改善に向かった。1987年12月フランスでヘン・サムリンとシハヌークの個人会談、1988年7月にはジャカルタで初めてヘン・サムリン政権と三派との間での会談がもたれた。1989年、カンプチア人民共和国は「カンボジア国」と改称して国旗、国歌と軍旗を変更、9月にはベトナム軍が完全に撤退した。1990年9月には、シハヌークを議長とし、ヘン・サムリン政権6名、ソン・サン派2名、シハヌーク派1名、ポル・ポト派2名から成る「カンボジア最高国民評議会 (SNC)」の設置と国連による和平案の受諾が決まった。1991年10月23日、UNTACの設置をうたった「カンボジア紛争の包括的な政治解決に関する協定」(パリ和平協定)が紛争当事者4派と関係18ヶ国により調印された。UNTACの統治の下では、SNCはカンボジア唯一の合法機関とされたものの助言に止まり、UNTACが実質的な政府の役割を果たした。ポル・ポト派のみが武装解除に応じず武力衝突が続いたものの、1993年5月に総選挙が行われ、1993年6月にカンボジア暫定国民政府が発足、9月にはシハヌークを国王、ラナリットが第一首相、フン・センを第二首相とするカンボジア王国が正式に発足した。
出典:wikipedia
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