佐藤 寿人(さとう ひさと、1982年3月12日 - )は、日本のプロサッカー選手。埼玉県春日部市出身。Jリーグのサンフレッチェ広島所属。元日本代表。ポジションはフォワード。千葉県立市川南高等学校卒業。元日本代表MFの佐藤勇人は二卵性双生児の実兄であり、森崎和幸/森崎浩司兄弟と共にJリーグ史上初の双子選手。2012年に JリーグMVPとJリーグ得点王を獲得。歴代通算J1リーグ得点数2位。瞬間的なスピードに長け、ディフェンスラインの一瞬の隙をついて裏に抜け出しワンタッチでゴールを決めるフィニッシャータイプのストライカー。ルーズボールや裏に出されたパスへの嗅覚もさることながら、ポジショニングの上手さで相手ディフェンダーとの駆け引きに打ち勝って供給されるクロスボールをゴールに結びつける実力は日本人随一とも言われる。2004年から現在(2015年)まで、Jリーグ史上初となる12年連続2ケタ得点を達成している。このスタイルに加え、身長は高くないが足元でのポストプレイも器用にこなすようになり、チームでは1トップのセンターフォワードとして起用されることもある。前線からの献身的な守備 や、サイドに開いてからのチャンスメイクも行う。またラストパスも得意としており、アシスト数も多い。しかし小柄な故に、日本代表ではセンターフォワードに長身の選手が好まれる傾向もあってか、FWではなくアウトサイドで起用されることが多く、本来の能力を発揮する環境には恵まれていない。また、警告を受けることが非常に少なく、J1リーグ戦において2009年第30節以来、2015年2ndステージ第15節までの193試合に亘り、無警告・無退場を続けていた。JリーグアウォーズにおいてJリーグフェアプレー個人賞を3度受賞している。真面目で、人の悪口を言わない、誰に対しても優しい性格。また、非常に礼儀正しく、常にクラブやサポーターへの感謝の心を忘れず、現所属の広島だけでなく、過去に所属した千葉、C大阪、仙台への感謝の念もしばしば口にする。尊敬する選手はフィリッポ・インザーギ。そのプレースタイルもインザーギを模範としている。実兄は佐藤勇人。21歳で結婚、現在は3人の子を持つ父親でもある。また犬好きで、ピッポ、ゴン、ムサシという3匹の犬を飼っている。ピッポはインザーギの愛称から、ゴンはインザーギと同じく尊敬するFWである中山雅史、ムサシは好きな漫画である『バガボンド』の主人公、宮本武蔵からの命名。ちなみに千葉の実家、兄の勇人も犬を飼っている。中学世代からより高いレベルで指導を受けるため、兄弟揃ってジェフユナイテッド市原ジュニアユースに入団する。実家は春日部市でラーメン屋を営業していたが、これに伴い店を畳み、家族そろって千葉県八千代市に引っ越してきた。その後、ジェフ市原ユースに昇格、河内勝幸率いるU-16日本代表に選ばれ、U-16アジアユースに出場、レギュラーとして飯尾一慶と2トップを組んだ。2000年、勇人と共にトップに昇格、同年にプロデビューを果たす。同年西村昭宏率いるU-20代表に選ばれアジアユースおよび翌2001年ワールドユースに出場した。出場機会を求めて、西村昭宏率いるJ2のセレッソ大阪に移籍。春先にギラン・バレー症候群を発症した ため出遅れ、西澤明訓の復帰、大久保嘉人の成長などでまたしても出場機会を得ることはできなかった。しかし、天皇杯で4試合3得点を挙げそれを目にした当時J1のベガルタ仙台がオファーを出し、レンタル移籍する。仙台移籍初年度で才能が開花し、公式戦34試合で13得点を記録。この時のチームのボランチは森保一。仙台はJ2降格が決定したが、J1チームからのオファーを全て蹴り、仙台へ完全移籍した。44試合で20得点を記録し、J2の得点ランク4位。日本人としては3位の成績を挙げる。名実共に「ベガルタの象徴」となり、サポーターから「Mr.仙台」と呼ばれた。しかし、チームは大量失点を繰り返すなど勝ちきれない試合が続き、6位で終わる。シーズン終了後、サンフレッチェ広島から獲得のオファーを受ける。その一方で、仙台からも残留を要請され、悩んだ末、広島への移籍を決断。移籍金1億6千万円(推定) で広島に移籍する。浦和戦、神戸戦の2試合でハットトリックを記録。得点ランク3位、日本人得点王となる18得点を挙げ、広島を一時は2位まで躍進させる原動力となり、2005年度Jリーグベストイレブンにも選出。その活躍が認められジーコ時代のA代表に初招集された。2月11日のアメリカ戦で代表初出場、アジアカップ最終予選のインド戦で代表初得点を決める。リーグ戦では川崎フロンターレ戦でハットトリックを達成するなど好調を維持しており、18得点を挙げ2年連続日本人得点王となった。日本代表でもエクアドル戦で決勝点を決めるなど短い出場時間で結果を残したが、ドイツW杯本大会のメンバーからは漏れた。下田崇に代わって選手会長に就任。イビチャ・オシム就任後も引き続きA代表に招集され、アジアカップに出場。J1第5節の名古屋グランパスエイト戦において史上45人目のJ1通算50得点を達成した。しかし佐藤自身は12試合連続無得点など調子が安定せずシーズン12得点にとどまると、さらにチームは入れ替え戦の末J2へ降格。入れ替え戦終了直後にスタジアムのファンに対して涙を流しながら「絶対に1年で(J1に)戻ろう」と叫び、事実上の残留宣言。オフには他チームからの移籍交渉を全て断り、広島に残留した。開幕直後こそ平繁龍一との2トップだったが、間もなく1トップ2シャドーのトップにポジションを変更、守備やポストプレーにも奮闘しながら得点を量産し、28得点を挙げてJ2得点王を獲得。チームの圧倒的な成績でのJ1復帰に貢献した。その活躍から、J2カテゴリ所属の選手にもかかわらず、引き続き岡田監督の率いる日本代表に選ばれた。J1復帰初戦となる開幕戦で技ありのゴールを決めるなど、リーグ戦では15得点を挙げ、一時は優勝争いにも絡み最終的にJ2からの昇格チームとしては当時最高の順位記録である4位躍進に大きく貢献する。リーグで好調を維持していたが、南アフリカワールドカップ本戦のメンバーからは外れた。9月8日に行われたナビスコカップ・ガンバ大阪戦で右肩鎖関節脱臼という重傷を負い、約2ヶ月離脱したが、復帰初戦となった11月7日の浦和戦で後半アディショナルタイムに決勝点を挙げ7年連続 2桁得点を達成した。東日本大震災の影響によりリーグ戦が中断されたが、その後のリーグ再開初戦となった4月24日のホームでのG大阪戦で後半にシーズン初ゴールを記録。巧みにDFラインの裏を取り、ムジリからのスルーパスを受けて倒れこみながら左足でシュートを放つと、ボールはゴールの右ポストに当たりながらもネットの中に吸い込まれた。11月26日に行われたJ1第33節の大宮戦でPKを決めて8年連続2桁得点を達成。李忠成のバックアップをしながらも随所に得点能力の高さを見せ、最終的に11得点を記録した。J1第5節・対G大阪戦において2ゴールを決め、史上10人目、左利きの選手としては初のJ1リーグ通算100得点を達成。同時に史上4人目となるJ1・J2通算150得点も達成した。J1第13節・対コンサドーレ札幌戦で、Jリーグ史上初の9年連続 2桁得点を達成。6月には、藤田俊哉に代わり日本プロサッカー選手会の5代目会長に就任した。J1第27節・対サガン鳥栖で2ゴールを挙げてシーズンのゴール数が20となり、1994年にイワン・ハシェックが記録したサンフレッチェの1シーズン得点記録である19ゴールを18年ぶりに更新した。11月24日、ホームで自らゴールを決めC大阪に大勝し、仙台時代のチームメイトである森保一監督の下、Jリーグ年間初優勝。個人としては得点ランキングにおいて序盤から2位以下を大差で引き離して22得点を記録して初の得点王のタイトルを獲得。Jリーグアウォーズでは、得点王に加え、MVP、ベストイレブン、フェアプレー賞を受賞し史上初の四冠を達成した。12月に開催されたFIFAクラブワールドカップ2012では3得点を挙げ、セサル・デルガドと共に大会得点王を獲得した。翌年1月28日、全国のサッカー担当記者の投票により決められる2012年度の日本年間最優秀選手賞に選出された。10月、前田遼一の負傷離脱に伴い、アルベルト・ザッケローニ率いる日本代表に2年ぶりに招集される も出場機会はなかった。ちなみにこの時点で佐藤は代表通算で31試合出場4得点であるが、残り時間少ない状況での途中出場が多かったため、出場時間は約658分しかなかった。つまり出場時間をフルタイム(90分)に換算すると、わずか7試合+34分間の出場で4ゴールを決めたことになる。さらにオシム監督時代にはMFとして出場しており、また岡田監督時代にはウイングとして出場していたことも考慮すると、非常に高い得点率である。ヴァンフォーレ甲府戦で7年ぶりのハットトリックを達成。さらに川崎戦でもハットトリックを達成。この川崎戦の1点目で、Jリーグ史上初の10年連続 2桁得点を達成した。3月8日のJ1第2節・川崎フロンターレ戦のボレーシュートで決めたゴールが、国際サッカー連盟(FIFA)が発表した、2014年最優秀ゴール賞(FIFAプスカシュ賞)の候補に選ばれた。7月19日のJ1第15節・大宮戦でJ1通算140得点目のゴールを挙げ三浦知良の記録を上回った。11月8日のナビスコ杯決勝・G大阪戦でナビスコ杯通算28得点目のゴールを記録し、同杯の通算最多得点記録者となった他、11年連続の2桁得点も達成。6月20日のモンテディオ山形戦で2年ぶりとなるハットトリックを達成。また、この試合の1点目で史上初となるJ1・J2通算200得点を達成した。11月7日のガンバ大阪戦で6年ぶりにイエローカードを貰い、連続無警告記録が193試合でストップした。11月22日の湘南ベルマーレ戦で中山雅史の持つJ1通算記録157ゴールに並び、歴代トップタイとなった。3月6日の名古屋グランパス戦でJ1通算158得点目のゴールを挙げ中山の記録を上回った。376||157||52||28||27||10||455||19597||50||colspan="2"|-||8||5||105||55473||207||52||28||35||15||560||250その他の公式戦|2010||rowspan="6"|広島||rowspan="6"|11||6||1||colspan="2"|-!通算!!colspan="2"|AFC!通算
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