狩野 典信(かのう みちのぶ、享保15年11月11日(1730年12月20日) - 寛政2年8月16日(1790年9月24日))は江戸時代中期の竹川町家、後に木挽町家狩野派6代目の絵師である。父は狩野古信で、子に狩野惟信がいる。幼名庄三郎、号は栄川、栄川院、白玉斎。白玉斎の号は一羽の雀が典信の部屋に飛び込み、置いてあった白玉を硯の中に落として飛び去ったという逸話に由来するという。僅か2歳で父・古信と浜町狩野家から養子入りし養父となっていた受川玄信(はるのぶ)を相次いで亡くし、以後母に育てられる。母妙性尼は水戸藩家臣・岡部忠平以直の娘で、この母が幼少の典信の代わりに公務を勤めたようだ。寛保元年(1741年)12歳の時、同朋格奥詰の岡本善悦を介して将軍徳川吉宗にお目見えし、画巻を献上する。吉宗は「栄川幼しといえども、はや衆人を越たり」と賞した上で、自身が名手と慕う狩野探幽を超えたければ探幽が学んだ古画に学べ、と指示した。宝暦12年(1762年)33歳で法眼中務卿、翌年奥絵師を仰せつけられ、安永2年(1773年)には表御医師並となって、竹川町家は典信の代で初めて奥絵師となった。典信は絵を好んだ徳川家治の寵愛深く、子の惟信や中橋狩野家の永徳高信と共に日々傍らに仕えたという。安永6年(1777年)、通常新たな屋敷を拝領すれば旧来の家屋敷は返却するのが習わしであるのに、従来の竹川町の屋敷はそのままに木挽町に新たな土地を拝領した。以後、時代を遡って狩野尚信の家系は、木挽町狩野家と呼ばれる。木挽町の屋敷は田沼意次の旧邸を分与されたものであり、ここから典信と意次は互いに裏門から往来し、意次の密議は常に典信の屋敷で計られたという伝承が生まれた。ただその一方で、『よしの冊子』では松平定信とも「御懇意にて」と記されている。新宅には他の狩野家より大きな画塾が設けられ、塾生の数も常に5、60人を下らなかったという。安永9年(1780年)に法印となり栄川院を名乗る。同年11月、翌年の日蓮五百遠忌と母への報恩のため「日蓮聖人縁起絵巻」を、木挽町狩野家の菩提寺である池上本門寺に奉納した(戦災で消失)。寛政2年(1790年)新造御所の障壁画制作を主導するさなか、賢聖障子の下絵を完成させた直後亡くなった。この賢聖障子絵は典信と住吉廣行の共同制作として記録された(『禁裏寛政御造営記』)。法名は法壽院殿典信日妙大居士。池上本門寺に残る顕彰筆塚には、寡黙、真面目、清廉な人柄だったと記されている。門人に鈴木鄰松や、津山藩御用絵師の狩野如水由信、後に浮世絵師になった鳥文斎栄之などがいる。また、弟子に狩野白珪斎という絵師がおり、この白珪斎の弟子が渓斎英泉だったという。18世紀半ば、南蘋派の流入が契機に本格的な民間画壇が育ち始めると、形骸化が進んでいた狩野派は飽きられ顧客が奪われ始めた。これに危機感をもった典信は、漢画の力強い描線を復活させることにより弱体化した狩野派の再建を目指した。こうした試みが将軍の好みと合致したのが、典信が寵愛を受けた理由であろう。絵画表現においてはやや戯画にはしり、典信の意図は完全に成功したとは言い難い面があるけれども、その意欲や地歩は後の木挽町家の絵師に引き継がれ、木挽町家が幕末まで奥絵師4家の中で最も繁栄することとなる。
出典:wikipedia
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