槇(まき)は日本海軍の駆逐艦。一等駆逐艦「槇」は、松型駆逐艦の8番艦。艦名は楢型駆逐艦の1艦に続いて2代目。1944年(昭和19年)8月10日に竣工。訓練部隊の第十一水雷戦隊に所属したのち、第43駆逐隊に編入。捷号作戦にともなう10月下旬のレイテ沖海戦では、小沢機動部隊所属艦として参加、小破した。修理後、第41駆逐隊(涼月、冬月)と共に空母「隼鷹」を護衛してマニラ輸送作戦を実施、帰路に米潜水艦の雷撃で損傷した。戦後は復員輸送に従事、のちにイギリスに引き渡されたが解体された。1944年(昭和19年)2月19日、本艦は仮称第5484号艦として舞鶴海軍工廠で起工。後日、行動を共にする秋月型駆逐艦8番艦「冬月」も舞鶴で建造中だった。6月5日、建造中の駆逐艦や海防艦と共に命名される。同日附で駆逐艦3隻(杉、槇、樅)は松型駆逐艦に類別される。6月10日、「槇」は進水。同日、松型4番艦「桃」も舞鶴で竣工した。7月1日、日本海軍は、白露型駆逐艦4番艦「村雨」水雷長、球磨型軽巡洋艦3番艦「北上」水雷長等を歴任した阿賀野型軽巡洋艦3番艦「矢矧」水雷長石塚栄少佐(海軍兵学校63期)を槇艤装員長に任命する。同日附で、舞鶴海軍工廠の槇艤装員事務所は事務を開始。8月10日、就役。艤装員事務所を撤去。石塚少佐も制式に槇駆逐艦長(初代)となる。主な初代幹部は、航海長大山雅清中尉、砲術長宇田広美大尉、水雷長芦田森一大尉。1944年(昭和19年)8月10日の竣工と共に、訓練部隊の第十一水雷戦隊(司令官高間完少将・海軍兵学校41期)に編入。瀬戸内海に回航され訓練に従事する。9月30日付で第三十一戦隊(司令官江戸兵太郎少将・海兵40期)麾下の第43駆逐隊(駆逐隊司令菅間良吉大佐《海兵50期》)に編入。既に松型1番艦「松」は沈没しており、第43駆逐隊は本艦の編入で4隻編制(竹、梅、桃、槇)となった。当時の航海長が病気で退艦し、後藤英一郎中尉(槇乗組)が10月7日附で槇航海長に任命されるまで本艦は航海長欠員だったが、任務は続行された。10月10日、第43駆逐隊から「松」が除籍され、松型6番艦「桐」が編入される。10月17日、アメリカ軍がフィリピン、レイテ湾のに上陸し、日本軍は捷一号作戦を発動した。この作戦は第一機動艦隊司令長官小沢治三郎中将(海兵37期)が率いる機動部隊(第三艦隊)が囮となって第38任務部隊(マーク・ミッチャー中将)をひきつけ、その隙に栗田健男中将(海兵38期)率いる第二艦隊主力がレイテ湾に突入しアメリカ軍の上陸部隊を撃破するというものであった。10月20日夕刻、小沢機動部隊(空母4隻《瑞鶴、瑞鳳、千代田、千歳》、航空戦艦2隻《日向、伊勢》、巡洋艦3隻《大淀、五十鈴、多摩》、秋月型駆逐艦4隻《初月、秋月、若月、霜月》、松型駆逐艦4隻《桑、槇、杉、桐》)は豊後水道を出撃。10月22日、「槇」は空母「千代田」から重油の洋上補給を行う。10月24日、松型2隻(桐、杉)は小沢機動部隊から分離、沖縄に退避した。10月25日のエンガノ岬沖海戦における「槇」は、空母2隻(千代田、千歳)および航空戦艦「日向」を中心とする第二群(千歳、千代田、日向、五十鈴、霜月、槇)の護衛を担当。朝8時からの空襲第一波で、8時56分に秋月型1番艦「秋月」が轟沈。「槇」は『我レ、秋月ノ救助ニ向フ』を打電して救助活動を行う。第二群の指揮を執る第四航空戦隊司令官松田千秋少将・海兵44期)の命により救援を行った。9時37分、「千歳」が沈没。続く10時ごろからの空襲第二波で「千代田」が航行不能となり、3隻(日向、霜月、槇)が掩護をおこなう。午後1時50分、日向指揮下各艦は「槇」を残して北方へ向かった。つづいて本艦は長良型軽巡洋艦2番艦「五十鈴」とともに「千代田」の救援にあたる。「槇」は総員退艦準備中の「千代田」に接近する。しかし「五十鈴」も空襲を受けて後退。これを見て「千代田」に接近しようと速度を落としたところ、3発の爆弾が一番砲付近、第一缶室および魚雷発射管付近に命中し、戦死者31名と負傷者35名を出した。「槇」に救助されていた秋月乗組員も多数戦死した。機関故障と舵故障により、「千代田」乗員の救助は結局出来ずに待避した。槇側は、この間の戦闘で敵機5機を撃墜したと主張している。被弾後、松型5番艦「桑」が接近して同艦駆逐艦長山下正倫中佐(海兵53期)から「大丈夫か?」(いかがなりや)と声をかけられる一幕もあった。また単艦で引き返す秋月型4番艦「初月」(第61駆逐隊司令天野重隆大佐座乗)と遭遇、信号を交わしてすれ違うが、このあと「初月」は米軍水上艦部隊に撃沈された。「槇」は「初月」の奮戦により助かったと言える。海戦後は10月26日16時に中城湾に帰投。ここで「槇」は「桑」から瑞鳳生存者を受け入れ、桑指揮下で奄美大島に向かう。補給部隊のタンカー「たかね丸」(日本海運、10,021トン)から240トンの重油を補給してもらった。フィリピンへむかった2隻(大淀、若月)を除く機動部隊残存艦(日向、伊勢、五十鈴、霜月、桑、槇)は10月29日に呉へ帰投。約20日間、呉海軍工廠で修理を実施した。レイテ沖海戦で第二艦隊は、戦果のほどはさておいて多数の弾薬を消費した。レイテ決戦の夢を捨てきれない連合艦隊では、航空隊を陸揚げして「失業」状態の隼鷹型航空母艦1番艦「隼鷹」を活用して弾薬や軍需品の緊急輸送を行う事となった。空母の格納庫と高速力は、輸送艦としても適していた。同艦は第30駆逐隊(秋風、卯月、夕月)に護衛されて10月27日から11月18日までの第一回輸送を終え、11月23日に瀬戸内海を出撃して第二回輸送を行う事となり、この第二回輸送に「槇」は加わる。「槇」は第41駆逐隊(冬月、涼月)とともに「隼鷹」を護衛してフィリピンに向かう。11月30日にマニラ到着。同地で軍需品を陸揚げしたあと、12月1日出発。12月3日に馬公に到着。日本に戻る途中の金剛型戦艦3番艦「榛名」(初霜、霞護衛)と合流する。12月6日、5隻(榛名、隼鷹、冬月、涼月、槇)は馬公を出港して日本本土に向かう。しかし、12月9日未明の佐世保に入港直前、悪天候の中を航行する日本艦隊は野母崎沖でアメリカ潜水艦のウルフパックに発見される。「榛名」より『槇は隼鷹の後につけ』の命令があり、本艦は2隻(榛名、隼鷹)右側を反航して南下、「隼鷹」の後方につく直前に雷撃を受けた。「隼鷹」は米潜水艦レッドフィッシュ ("USS Redfish, SS-395") の魚雷が2本命中。中破したが佐世保に帰投することが出来た。続いて潜水艦シーデビル ("USS Seadevil, SS-400") と潜水艦プライス ("USS Plaice, SS-390") が攻撃を行い、シーデビルは0時28分に魚雷を4本発射して、それは戦艦か空母に命中したと判断された。プライスは1時28分と31分に魚雷3本と4本をそれぞれ発射して、3本のうちの2本と4本のうちの2本の計4本が照月型駆逐艦に命中して撃破したと判断された。いずれかの攻撃にせよ艦首に魚雷が1本命中して艦首を喪失。戦死者4名。長崎港に回航して調査の後、佐世保に帰投した。他艦(隼鷹、榛名、冬月、涼月)は被害なく佐世保に到着した。槇駆逐艦長石塚栄少佐(海兵63期)の証言によると、回避運動を取るとその魚雷が「隼鷹」に向かってしまうため、回避運動をとらずにわざと艦首すれすれに魚雷を当てたともいう。後藤英一郎(槇航海長)の証言によると、左前方から魚雷が接近したため右旋回をやめて直進したという。「榛名」は『五島沖にて敵潜水艦の攻撃を受け、槇、轟沈』と発信した。その後、三菱長崎造船所で1945年(昭和20年)3月15日まで修理に当たった。またこの時大型水中聴音機も装備した。修理完了後は呉に回航された。4月6日から7日の大和特攻(坊ノ岬沖海戦)では、「花月」(第三十一戦隊旗艦)および「榧」とともに、前路掃討隊として豊後水道出口まで艦隊に随伴した。以後は瀬戸内海で数回の対空戦闘を行ったが無傷で、終戦時は呉に在泊していたとも、「榧」「竹」とともに山口県屋代島の日見海岸に疎開し、そのまま終戦を迎えたともされる。10月5日に除籍。12月1日に特別輸送艦に指定され、復員輸送に従事。1947年(昭和22年)8月14日、賠償艦としてシンガポールでイギリスに引渡された。その後、「槇」は解体された。
出典:wikipedia
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