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趙戴文

趙 戴文(ちょう たいぶん)は、清末民初の政治家。民国期に山西省を統治した閻錫山の腹心である。字は次隴。貧しい家庭に生まれたが、学問において次第に名を成し、1893年(光緒19年)には科試(郷試の予備試験)で列一等第一を得た。その後、山西大学堂などで教鞭をとる。1905年(光緒31年)冬、日本へ留学し、弘文学院に入学した。この時に、孫文(孫中山)の三民主義思想に傾倒し、趙戴文も中国同盟会に加入している。また、この時に閻錫山と知り合い、閻の一時帰郷に同行して帰国した。その後、閻が革命派による蜂起を企図すると、趙はこれに参画している。1912年(民国元年)3月、閻錫山が袁世凱から山西都督に任命されると、趙戴文は山西都督府秘書長に任命された。趙は、閻による山西統治に内政面で貢献した。特に地方組織や教育に取組み、閻の新政推進を支えた。1926年(民国15年)、閻の指示を受けて趙は江西省に向かい、蒋介石との交渉役を務めている。1928年(民国17年)2月、閻が国民革命軍第3集団軍総司令に就任すると、趙は同軍の総参議兼政治訓練部主任に就任した。同年6月、閻の軍が北京・天津方面へ進軍すると、趙は察哈爾都統に任命されている。その後、趙戴文は閻錫山の推薦により南京へ派遣された。国民政府中央で蒙蔵委員会副委員長、内政部次長(部長代理)、監察院長を歴任している。蒋介石と閻が対立した際には、趙がその調停役を務め、衝突を回避しようと図った。しかし、最終的に1930年(民国19年)の中原大戦に至り、閻は敗北した。閻錫山が1932年(民国21年)2月に太原綏靖公署主任として復帰すると、趙戴文も山西に戻り、公署総参議に任命された。そして、閻のために山西省政10年計画を立案し、地方建設を推進している。1935年(民国24年)に閻が反共組織である「主張公道団」を結成し、その総団長となると、趙が副総団長をつとめた。1936年(民国25年)5月、趙は山西省政府主席に任命されている(ただし、省政の事実上のトップは依然として閻であった)。さらに閻が組織した「山西自強救国同志会」で副会長をつとめた。1937年(民国26年)、日中戦争が勃発し、閻錫山が第2戦区司令長官に任命されると、趙戴文は第2戦区長官部政治部主任となり、抗戦意識の昂揚につとめた。1939年(民国28年)には、中国国民党山西省党部主任委員となる。しかし、この頃にはすでに高齢と病のため、趙は政務、党務を他の者に委ねている。1943年(民国32年)12月17日、趙戴文は、山西省吉県で病没した。享年77(満76歳)。

出典:wikipedia

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