LINEスタンプ制作代行サービス・LINEスタンプの作り方!

お電話でのお問い合わせ:03-6869-8600

stampfactory大百科事典

足利成氏

足利 成氏(あしかが しげうじ)は、室町時代から戦国時代の武将。第5代鎌倉公方(1449年 - 1455年)、初代古河公方(1455年 - 1497年)。父は永享の乱で敗死した第4代鎌倉公方足利持氏。鎌倉公方就任時期は文安4年(1447年)とする説も有力。父持氏と同様、鎌倉公方の補佐役である関東管領及び室町幕府と対立したが、持氏と異なり、約30年間の享徳の乱を最後まで戦い抜き、関東における戦国時代の幕を開ける役割を担った。幼少期には曖昧な点が多い。幼名は永寿王丸(永寿丸)とする解説が多いが、万寿王丸とする百瀬今朝雄の説が近年は支持されている。生年に関しても、永享6年(1434年)あるいは永享10年(1438年)とする解説が混在する。現在広く用いられている解説を整理すると、主に次の2つになる。一つ目の説では、嘉吉元年(1441年)の結城合戦にて、安王丸・春王丸の他にも持氏遺児の4歳の童が捕えられたが、京都への連行中に第6代将軍足利義教が暗殺された(嘉吉の乱)ため、処分が実行されず、幸運にも生き延びた(『建内記』)。この4歳の童を成氏とみなす。逆算すると生年は永享10年となる。その後、宝徳元年(1449年)8月に、京都の土岐持益邸にいた持氏の遺児が鎌倉に向け出立(『草根集』)し、鎌倉公方となったとする。百瀬今朝雄は以上の通説を再検証し、宝徳元年8月に京都から鎌倉に向けて発った人は、成氏ではなく弟の尊敒であるとした。佐藤博信も、尊敒を定尊と見直しているが、成氏の弟とする点では同様の見解である。成氏本人は京都ではなく信濃から、文安2年(1445年)あるいは3年(1446年)に鎌倉に還御して鎌倉公方となり、宝徳元年6月から8月に元服したとする。佐藤はさらに、鎌倉公方就任を文安4年(1447年)3月、鎌倉帰還を同年8月27日と特定した。百瀬以降の研究成果に従えば、幼年期の経歴は次の通り。成氏は第4代鎌倉公方足利持氏の男子として、永享6年頃に生まれた。成氏がまだ幼い永享11年(1439年)に、父持氏は関東管領上杉憲実・6代将軍足利義教と対立した結果、兄の義久と共に敗死(永享の乱)し、鎌倉公方は廃止された。その後、成氏は信濃佐久郡の大井持光の元で養われる。同12年(1440年)3月に結城合戦が始まり、嘉吉元年4月に下総結城城が陥落した時に、持氏遺児の安王丸・春王丸・成氏の弟の3人が捕えられたが、成氏本人は戦場にはいなかった。この時、兄の安王丸・春王丸は殺された。やがて、成氏は文安4年3月に鎌倉公方となり、8月に信濃から鎌倉に帰還した。後に宝徳元年に元服、すなわち、6月頃に8代将軍足利義成(後の義政)の偏諱(「成」の一字)を与えられて「成氏」という名が決まり、8月27日に左馬頭に任じられ、同時に従五位下に叙された。永享の乱の際に鎌倉府は滅亡したが、嘉吉元年に将軍足利義教が暗殺された(嘉吉の乱)後、鎌倉府再興の運動が開始された。越後守護の上杉房朝や関東諸士から室町幕府への働きかけ(『鎌倉大草紙』)、あるいは上杉氏一門、家老から幕府への働きかけ(『永享記』)、幕府管領の畠山持国の支持などの結果、文安6年(または宝徳元年)に鎌倉府再興が承認される。持氏の遺児の成氏は信濃の大井持光(または京都の土岐持益)の元から、新たな鎌倉公方として鎌倉に帰還した。まだ年若い成氏は、鎌倉府再興のために運動した持氏旧臣や持氏方諸豪族、及び結果的には持氏を殺した上杉氏など、利害が相反する人々の間に置かれることになった。新しい鎌倉府では、鎌倉公方に成氏、その補佐役の関東管領に山内上杉家の上杉憲忠(上杉憲実の嫡男)が就任した。鎌倉府再興後も、成氏の元に集まった旧持氏方の武将・豪族等と、山内・扇谷上杉家の両上杉氏との緊張関係は改善されなかった。宝徳2年(1450年)4月には、山内上杉家家宰の長尾景仲及び景仲の婿で扇谷上杉家家宰の太田資清が成氏を襲撃する事件(江の島合戦)が発生する。成氏は鎌倉から江の島に避難し、小山持政・千葉胤将・小田持家・宇都宮等綱らの活躍により、長尾・太田連合軍を退けた。なお、この時上杉方の一部も成氏に加勢している。従って、この襲撃は長尾・太田両氏が主導したが、上杉氏の本意ではなかったと考えられる。難を逃れた成氏は、上杉憲実の弟である重方(道悦)の調停により、合戦に参加した扇谷上杉持朝らを宥免したが、長尾景仲・太田資清との対決姿勢は崩さず、両者の処分を幕府に訴えた。幕府管領畠山持国は成氏の求めに応じて、上杉憲実・憲忠に対して、鎌倉帰参を命じ、関東諸士及び山内上杉家分国の武蔵・上野の中小武士に対して成氏への忠節を命じた。また、江の島合戦の成氏側戦功者への感状を取り計らうなどしたが、長尾・太田両氏への処罰はあいまいにされた。結局、成氏自身は8月4日に鎌倉へ戻り(『喜連川判鑑』)、上杉憲忠は10月頃に関東管領として鎌倉に帰参した(『鎌倉大草紙』)。同じ宝徳2年、成氏は鎌倉に戻った後に代始めの徳政を行った。例えば、9月と10月に鶴岡八幡宮寺少別当が売却した土地を返却させている。関東諸国に向けて、新しい鎌倉公方の権威を誇示する目的であったと考えられる。宝徳3年(1451年)、成氏は従四位下左兵衛督に昇進した(『喜連川判鑑』など)。享徳元年(1452年)、室町幕府の管領が畠山持国から細川勝元に替わった。勝元は鎌倉公方に対して厳しい姿勢をとり、関東管領の取次がない書状は受け取らないと言い渡した。関東管領を通じて、再び幕府が関東を直接統治する意思を示したものである。享徳3年(1454年)12月27日に、成氏は関東管領上杉憲忠を御所に呼び寄せて謀殺した。京都では東国から事件の報せが届いた時、父を死に追いやった上杉氏への恨みが原因とみなされた(『康富記』)が、実際には鎌倉府内部の対立が大きな要因と考えられる。明応6年(1497年)9月晦日(30日)死去。64歳であったとされる。法名は「乾享院殿久山道昌」である。(『古河公方系図(続群書類従)』)  臨終の際には嫡子の政氏を呼び、「再び鎌倉に環住し、関八州を取り戻すことが孝行である。何にも勝る弔いになる。」と言い残したとされる。(『鎌倉公方九代記』)江戸時代の曲亭馬琴(滝沢馬琴)による読本南総里見八犬伝に、滸河公方足利成氏(なりうじ)として登場する。八犬士たちの主君・里見義実は、もと結城合戦の落武者で、八犬士の一人犬塚信乃の父・犬塚番作は、結城落城ののち、足利春王、安王が京へ護送される際、美濃垂井の金蓮寺で討たれた際にそれを救おうとして果たさず、足利家に伝わる宝刀・村雨丸を預かり、のち信乃はこれを足利成氏に献上するべく古河(『八犬伝』では滸我)へ赴くが、ニセ刀とすり返られており、管領扇谷定正の密偵と疑われて逃れる。のち成氏は、両上杉と連合して里見軍と戦い敗れて捕えられ、信乃は成氏を滸我まで送っていき、途中で村雨丸を返し、成氏は信乃に謝罪する。

出典:wikipedia

LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。