5代目桂 米團治(かつら よねだんじ、1958年12月20日 - )は、落語家。大阪府大阪市中央区出身。本名は中川 明(なかがわ あきら)。実父は落語家で人間国宝の3代目桂米朝。米朝事務所所属。上方落語協会会員。出囃子は「三下り羯鼓」。前名は3代目桂小米朝。大阪市中央区生まれ、兵庫県尼崎市武庫之荘育ち。尼崎市立武庫東小学校、尼崎市立武庫中学校、兵庫県立尼崎北高等学校出身。在学中に交換留学でドイツに行って以来ドイツ通になる。関西学院大学文学部在学中の1978年8月に父米朝に入門し、兄弟子2代目桂枝雀の命名で3代目桂小米朝を名乗る。同年10月、金比羅会館「桂米朝落語研究会」にて「東の旅・発端」で初舞台。以降、さまざまな落語会に出演。1992年には「大阪府民劇場賞」奨励賞受賞。小米朝時代は近畿地方を中心に「桂小米朝独演会」や「桂米朝・小米朝親子会」、「南光・ざこば・小米朝三人会」などを開催。各地で小講演を行うこともあった。上方落語協会では会計を務めた。2007年7月19日の記者会見で2008年10月4日に5代目桂米團治襲名することを発表した。元々桂吉朝が「米團治」を襲名し、小米朝は「米朝」を継ぐ予定で本決まりしていたが、2005年の吉朝死去により実現しなかった。その後2006年頃に米朝の俳号「八十八(やそはち)」や「米朝」「米紫」の話もあったが結局実現せず話し合いで「米團治」を襲名することで落ち着いた。2007年からは2年に渡り「小米朝十番勝負」と題し、大阪・心斎橋のそごう劇場にて落語会を開催した。米團治は普段演じないネタを2席演じ、毎回異なるゲストを招いた。出演者は立川志の輔、立川談春、柳家花緑、柳家喬太郎、9代目林家正蔵、林家たい平、春風亭小朝、春風亭昇太、桂文珍、笑福亭鶴瓶。イベントのプロデューサーは澤田隆治が務めた。2008年10月4日午前5時55分(同日の大阪での日の出時刻)に5代目桂米團治を襲名し、京都南座を皮切りに、2009年3月29日の大阪松竹座公演まで、日本全国を廻り77公演の襲名披露興行を行った。2016年6月22日、上方落語協会の副会長に就任し、若手育成の役割を担う。自宅が稽古場も兼ねている事もあり、常日頃、父と門下生の稽古に接していたために爾来、家族間での会話も敬語を使用して育つ。放送などで見られる師匠と弟子の話のやりとりは、師弟関係での会話というより中川家における日常会話の延長となっている。これについて米團治本人も「家族同士、互いに敬語で喋るのはウチと皇室くらい」と述べている。趣味は、古代史や国際経済の研究の他、クラシック音楽に造詣が深く、自称「モーツァルトの生まれ変わり」と公言し、かつらを被ってモーツァルトの扮装でタクトを振ってオケを指揮した経験もある。音楽好きで少年サッカーでドイツへの留学経験があるだけにドイツ語も堪能で一時期はドイツ語の通訳を目指したこともありNHK教育テレビのドイツ語講座にも出演をした。オペラを主題に「オペらくご」(らくごペラ)なるものを披露したこともあり、父親譲りの端正な顔立ちを生かした俳優としての経歴も持つ。また、ピアノ演奏や絵画も趣味とするなど、手先が器用であり達筆である。その一方で、生来、天然ボケや物忘れ・勘違いで誤解を与えてしまう一面もある。コーラ、カレーが好き。カレーは好きが高じて「桂米團治のこだわりオニオンカレー」をプロデュース。大学在学中、将来を決めきれないでいたままの中途半端な心境で噺家になりたい旨を父に明かすも「わしの時分は戦争で大学に行きとうても叶わなんだ。だからせめて大学は卒業して市会議員になれ」と言われ「そうか僕は市会議員に成るんや」と、引き下がった。米朝の弟子らが明の入門を後押しし、弟子らとともに再度交渉。父の「そういえば子供のマクラが無いな」の一言で再検討。入門が許され「桂小米朝」の名をもらう。しかし落語家としての「桂米朝」との葛藤、「親子鷹」として品定めする周囲の視線、自分の意思で門下生になった叩き上げの兄弟子達と主体性なく漫然と噺家になった自分、ゼロから内弟子修行する弟弟子の皮肉とやっかみ、などのコンプレックスも抱えることになるが、それを利用し、仕事を継いでしまった長所と短所を笑いに交えマクラにするスタイルが定着。なお初舞台がNHKのニュースに取り上げられるなど話題も呼ぶ。好事家からは親の七光りを「子米朝」など皮肉って揶揄されたこともあった。小米朝時代には「落語界の長嶋一茂」との愛称もあった。なお、桂小米朝の名は、兄弟子(米朝の二番弟子)月亭可朝が桂の亭号を使用していた時代に名乗ったもの。他に明治期にもこの名が確認されると出来るため、明は3代目ないし2代目(可朝を初代とした場合)とされる。可朝、枝雀、ざこばらは米朝の内弟子として生まれたばかりの明のおしめ替えや子守に従事した間柄である。「"東京は襲名続きで賑やかなのに、うちは葬式ばかりしてる"」と嘆いたざこばが(他人の)襲名披露を画策。小米朝に「桂米朝」を名乗るよう押し付け、早いうちに了解を得ようと二人で米朝の下に出向き話すも「"米朝になるって、わしは今更何になるんや"」と言われ逃げるように退散。試行錯誤の上「五代目米團治」の名を襲名することで落ち着く。出自や経歴および、米朝一門における内部事情も絡み、微妙な立場となっている。後見人的な役を請け負っているざこばから衆目の中で指差されて「こいつ嫌いですねん」と詰られたり、また、兄弟子らの難癖に反論出来ず、顔を歪めて苦りきる姿がまま見られた。米團治本人も「人間国宝の息子」なる枕が寄席の雰囲気から倦怠になっていることを悟り、桂小米朝時代から築いた芸風からの脱却と五代目としての芸風の確立を模索。本業の高座の他、TVにて上方落語のナビゲーター役、大喜利の司会などで活動。米團治を襲名してから米朝が得意とした「百年目」や先代(4代目)が創作した「代書」、2代目以降米團治が得意とした「たちぎれ線香」に力を入れている。なお襲名披露の発表の記者会見では米朝が「一文笛」、先代が「代書」と上方落語の歴史に残る名作を創作したこともあり自身も何か創作落語を作りたいと意気込みを語っている。入門当初は米朝の実子ということもあり「子米朝」と表記をよく間違えられた、特にファンレターなどでそう書かれる事が度々あって自身も悩んだ。2代目桂ざこば(入門時朝丸)にまつわるものが多い。ほかにも、天然ボケぶりを示すものがある。2代目桂春蝶の7回忌法要会場に朝10時に入ろうとしたが、目が覚めたのが当日朝10時だったり、整髪料と間違えてシェービングフォームを頭髪につけたり、天満天神繁昌亭の杮落とし公演の口上で、ゲストとして出演していた桂歌丸を誤って「三遊亭歌丸」と呼んでしまう、その上、歌丸の付き人(桂歌若)のジャケットを羽織って外出してしまい、その中には歌丸分の切符が入っていたため、困った歌丸が別に保管していた付き人用の切符で(次の仕事先である)名古屋へ向かう、という事態を招く(桂雀々曰く、その後暫く小米朝のことを楽屋では「三遊亭ジャケット」と呼んでいたとか。ちなみに二人のジャケットは似ても似つかないものであったらしい)など、物忘れ・勘違いの多さは自他共に認めるところ。米團治の襲名を客の前で発表するときも楽屋に大御所の3代目桂春團治がいて意識しすぎて間違えて「この度5代目春團治を襲名する事になりました。」と言ってしまった。その他に上方落語協会副会長に就任した笑福亭鶴瓶に間違えて『「福團治」就任おめでとうこざいます』と言った(自身の米團治の襲名の報告と鶴瓶の副会長就任とごちゃごちゃになった)。襲名披露公演初日、楽屋で桂文珍の「おめでとうございます」との挨拶に、同じく「おめでとうございます」と返し、「お前はありがとうございますと返すんや」としかられた。新橋演舞場の芝居「京紅ものがたり」に出演中、激しい目眩に襲われる。なかなか快復せず、周囲が「急病か?」と心配するも、片方にコンタクトレンズを2枚入れていたことが判明し、周囲もあきれ返った。浜松での9代目正蔵襲名公演へ体調を崩した父米朝の代演で向かう途中、名古屋駅ホームで着物を置き忘れてしまい、急遽体調不良の米朝が出演することになった。弟子ではないが長男が2010年2月に初舞台を踏んだ。米朝が自宅にいた頃、米團治は米朝宅で弟子に稽古をつけていた。米輝によると、團治郎が稽古中にセリフを間違えたところ、隣の部屋で寝ていたはずの米朝から怒鳴り声が聞こえ、弟子たちよりも米團治の方が震えてしまった。
出典:wikipedia
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