ロバート・ローズ(Robert Richard "Bobby" Rose, 1967年3月15日 - )は、アメリカ合衆国カリフォルニア州出身の元プロ野球選手。横浜史上最高の外国人選手とも称される選手。日本プロ野球歴代2位となるシーズン打点記録保持者。のMLBドラフト5巡目でカリフォルニア・エンゼルスに指名され契約。、メジャーに昇格。この頃より横浜大洋ホエールズの牛込惟浩スカウトから注目される。メジャーでも将来を嘱望される野手だったが5月、ニューヨークからボルチモアへ移動中だったバスが交通事故を起こし足首を捻挫したため、マイナーへ降格させられる。結局メジャーリーグでは通算73試合の出場にとどまった。肘の故障もありマイナーでも戦線に復帰できず、失意の中、同年オフの11月に「横浜ベイスターズ」と改称する直前の同球団と契約した。ローズ自身は、バス事故からベイスターズとの契約までの期間を、「ずっと眠っていて、起きたら日本にいたという感じだった」と表現している。助っ人外国人として26歳の若さで来日。35万ドルという1年目の契約年俸や、開幕戦でいきなり犠打のサインが出たことからもわかるように、来日当初は併殺のとれる二塁手として打撃はあまり期待されておらず、守備要員という印象すらあった。同じくに入団したグレン・ブラッグスの方が大リーグでの実績が格上で注目度も高かったが、オープン戦から確実性の高い打撃を見せつけ、開幕すると勝負強さも発揮し、来日1年目から首位打者と打点王の二冠王争いをした。オフにはベストナインを獲得する活躍で、長年チームの正二塁手であった高木豊は三塁にコンバートされしばし守った後、最終的には一塁手に追いやられた。1993年4月10日の開幕戦から4月23日まで、4月24日に風邪で欠場するまで405試合連続出場を果たすなど、体も丈夫な選手であった。入団時約3600万円だった年俸は、1995年のオフに1億円を超えた。1994年の後半戦に3番打者や1番打者として多く出場したり、ブラッグスが欠場した際は4番を打つこともあったが、基本的には4番ブラッグスの後ろの5番バッターを多く務めていた。大矢明彦新監督の構想により3番打者として開幕を迎えた来日4年目のも、序盤こそ三塁手への守備位置のコンバートの影響もあったためか絶好調ではなかったが、最終的には打率を3割に乗せ及第点の成績を残す。しかし、球団はローズのパワー面を物足りないと考えていて、オフの契約も微妙な状況であったと言われる。しかし翌ブラッグスが退団し、前年の終盤4番打者として育てていた鈴木尚典も怪我で開幕を出遅れると、半ば消去法的に4番打者に収まる。ローズ自身、自分は4番バッタータイプではないと考えていたというが、前年から一転し開幕から絶好調で、シーズンを通し4番打者として十分すぎる活躍を見せる。3番鈴木、4番ローズを中心としたいわゆる「マシンガン打線」もこのころ完成した。日本での活躍が認められ、オフには新設された大リーグ・ダイヤモンドバックスから獲得オファーが来るも、断っている。翌は開幕から不調と怪我が重なり4番を外れることも多かったが、7月の末より猛打を取戻し、シーズン終盤、優勝争いに入り疲れと固さの見えていた打線のポイントゲッターとして、リーグ優勝、日本一に大きく貢献した。翌は、開幕から例年にないハイペースで打ちまくり、6月30日にはプロ野球史上初となる自身3度目のサイクル安打を記録。特に打点はシーズン記録(161打点)の更新が期待される程で、7月22日のヤクルト戦(横浜スタジアム)では1試合10打点のセ・リーグタイ記録を達成した。前半戦を打率.388、27本塁打、100打点という成績で折り返し、史上初めて前半戦(81試合目)で自身初の100打点に到達した。ユニフォーム姿の息子も一緒にベンチ入りした7月25日のオールスター第2戦では2度の満塁でのタイムリーヒットに加えソロ本塁打を放ち、オールスタータイ記録となる6打点を挙げてMVPに選出されている。チームは3位に終わったものの、同年の153打点は小鶴誠(松竹)の161打点()に次ぐプロ野球歴代2位の記録となり打点王を獲得、同年のリーグ2位のヤクルトのロベルト・ペタジーニとは41点差を付け、1963年に野村克也(南海)が記録した39点差を上回る新記録となった。更に右打者では当時史上最高の打率.369を記録し首位打者を獲得、また192安打は当時セ・リーグ歴代1位の記録となり最多安打も獲得、本塁打もリーグ3位の37本を記録するなど、いずれも驚異的な打撃成績を残した。この年のセ・リーグMVPは優勝した中日の野口茂樹だったが、ローズも3位チームの選手であるにも関わらず、MVPの投票で5位につけた。このように大活躍をしたシーズンであったが、6月8日に突如引退宣言をしている。その後妻の希望もあって引退を撤回した。もリーグ2位の打率.332を記録し、2年連続でリーグ最多安打を記録するが、ローズは年俸5億円超を要求したと言われ、交渉は決裂。横浜を退団したが、いずれの球団もローズの獲得には乗り出さなかったためアメリカに帰国した。2年間のブランクの後、シーズンオフに千葉ロッテマリーンズと契約。この2年間実戦経験はなかったが、トレーニングは続けていたという。しかし春季キャンプ中の紅白戦3試合で8打席安打が出ず、2月19日には「野球に対する情熱がなくなった」との言葉を残して退団となった。引退後はアメリカ・コロラド州の、自身の子供が通う高校で野球のコーチをしていたという。2012年4月4日、横浜スタジアムでの新球団・横浜DeNAベイスターズ開幕戦の試合前のイベントで、1998年の横浜優勝時の監督である権藤博、当時の同僚である佐々木主浩、谷繁元信(中日)とともに登場。佐々木から「ヒット」を打った。2013年よりテキサス・レンジャース1Aのコーチを務めている。NPB通算打率は.325。生涯通算打率ランキングの条件となる4000打数まで71打数足りないが、仮にこの71打数全て凡退したとしても打率.319であり、ランキング1位のレロン・リーの打率.320に肉薄する。横浜時代に記録した1275安打は、外国人選手が一球団で放った安打数としてはレロン・リーについで史上2位である。巨人のバッテリーミーティングにおいて、長打はともかく単打を打たれる分には投手能力をマイナスに査定しない、とされるほど恐れられていたという。鹿取義隆は「投手から見ると、どこに投げても打たれそうな雰囲気のあるバッターでした」と語っている。横浜時代同僚だった駒田徳広は「同じチームでやっていて、本当に心強かった。どんな球がきてもヒットにしてしまいましたから。やや差し込まれても、右中間に打球が飛んでいく。その技術は凄かったですね」と語っている。横浜時代に二塁手としてゴールデングラブ賞を獲得している。NPB、MLBでは二塁手、マイナーリーグでは三塁手としての出場試合が最も多かった。ロッテ時代は前述の通りキャンプ途中で退団してしまったが、キャンプ初日からチーム練習が始まる前に一人でウエートトレーニングを行う熱心さや頭脳的な打撃練習を首脳陣からは絶賛され、チームメートは尊敬の眼差しで見つめていたという。横浜退団後の2年間何をしていたのかについて「コロラドで家族と一緒に過ごしていた。フットボールを観戦したりウインタースポーツをしたり、また娘の通っている高校で野球を教えていた」と語っている。ロッテ退団時には日本へまた来るかとの問いに「もちろん家族も自分も日本は大好き。野球をするためではないけれど、必ず帰ってきたい。その時はソフトボール(選手)かもね」と語っている。
出典:wikipedia
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