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九州王朝説

九州王朝説(きゅうしゅうおうちょうせつ)は、古田武彦によって提唱された、7世紀末まで九州に日本を代表する王朝があり、太宰府(だざいふ、「大宰府」とも表記する。)がその首都であったとする説である。邪馬台国から5世紀の「倭の五王」までを九州に比定する論者は、古くは鶴峰戊申から戦後では長沼賢海らがいるが、本説はこれらを7世紀まで敷衍した点に特徴がある。当初古田は九州倭国は白村江の敗戦により滅亡したと考えていたが、近年の九州王朝説では7世紀末まで存在したとする見方をとっている。近年、古田以外の多くの研究者から多くの発表がなされ、古田の同説に対する影響力は低下してきている。本説は古田の「多元的古代史観」の主要な部分を占める。古田は、「倭」とは九州のことであり「邪馬壹國(邪馬臺國)」は倭国の前身であるとし、その後、九州に倭国が成立したが、663年(天智3年)「白村江の戦い」の敗北により滅亡にむかったとしている。現在、本説は、井上光貞、榎一雄、山尾幸久を始めとする複数の東洋史・日本史学者等から批判されており、主要な百科事典や邪馬台国論争史を著述した研究書においては記載されていないことに留意する必要がある(後述)。「九州」の呼称は9国(豊前、豊後、筑前、筑後、肥前、肥後、日向、大隅、薩摩)からなっていたことに由来すると俗に言われるが、「九州」という用語は本来古代では天子(天皇)の直轄統治領域を意味するもので、9つの国の意味ではなく天下のことである(周代以前、全土を9つの州に分けて治める習慣から九州=天下(参考:九州 (中国)))。また新羅の九州の実例もある。古代において津軽海峡は蝦夷国(『新唐書』における、「都加留(つがる)」、「麁蝦夷(あらえみし)」、「熟蝦夷(にきえみし)」)にあり、倭人および漢人にとって本州が島であるか半島であるかは長い間不明であった。津軽海峡が現われる正史は、元の脱脱(トクト)の著わした『宋史』からで、紀元前から島と認識されていたのは九州や四国だけである。漢代から隋代までの正史によれば、倭・は「山島」と明記されているので、倭・とは、明確に島であると認識されていた九州の他にはない。(参考:Harris, 1748 本州が大陸と地続きの18世紀の地図)以下のことから博多湾の志賀島で発見された「漢委奴國王の金印」は、「漢」の「倭奴国」の「王」と読み、漢の家臣の倭国王(倭奴国王)の印綬であり、金印が発見された場所から遠くない場所に金印の所有者である「倭国王」の居城「倭奴国」があった。つまり博多湾の近くに倭国の首都があったと考えられる。参考→魏志倭人伝イメージ図解説以下のことから、「倭の五王」は畿内ではなく九州の大王であったと考えられる。以下のことから、漢代から代々に朝貢していたのは九州の大王であり、日本列島を代表して大陸と交流・交戦していたのも九州倭国だったと考えられる。以下のことから磐井の乱とは継体が武烈天皇を武力討伐して政権を奪った九州内の王朝交代の記事であると考えられる。継体は南九州の豪族継体は新王朝の祖「磐井の乱」は継体が、武烈朝を武力討伐した記事と考えられる。以下のことから厩戸王子と「日出處天子」は別人であり、「日出處天子」は九州倭国の人物で、冠位十二階、遣隋使派遣、仏教に深く帰依した。厩戸王子は畿内日本の人物で、これといった実績はないと考えられる。「評」を制定していたのはヤマト王権に先行した九州倭国である。九州年号では大化元年は695年であり、大化の改新の政変により九州倭国に代わり畿内日本が政権を握り「評」に代わり「郡」が使われるようになったと考えられる。以下のことから壬申の乱とは、白村江の戦いで捕虜になり8年間の唐の捕虜から解放され帰国した九州倭国の天皇の薩夜麻こと高市皇子と、留守政権で実権を握っていた大友皇子と十市皇女(中宮天皇)の争いに、畿内地方の豪族・大海人皇子(天武)が介入し日本列島の覇権を得た事件であり、主な戦場は九州であったと考えられる。以下のことから壬申の乱の戦闘があった地域は、九州であったと考えられる。以下のことから壬申の乱により、王朝交代(易姓革命)があったと考えられる。以下のことから高市皇子=薩夜麻であったと考えられる。次のことから薩夜麻が天皇であったと考えられる。次のことから高市皇子が天皇であったと考えられる。次のことから天武は天皇ではなく畿内地方の一豪族に過ぎなかったと考えられる。次のことから天武と高市皇子は実の親子ではない。666年ヤマト王権の正史にはない「中宮天皇」という天皇がいたと考えられる。以下のことから「大化の改新」は、695年に藤原京で軽皇子と中臣鎌足こと藤原不比等が中大兄皇子を鉄砲玉として使って九州倭国の天皇(高市皇子)を暗殺し皇権を簒奪した下克上のクーデターであり、一方では藤原氏の政権掌握の功績は記述したいが、他方では皇権簒奪の事実は隠匿したいという欲求から生まれた年代・背景を改竄した記事であると考えられる。『日本書紀』の「大化の改新」に関する記事からは、新興勢力の豪族を誅した程度で、何故、政権を改新したり、改革したりすることができたのか全く不明である。もし既存の権力を倒して政治の大改革を行ったのであれば、倒された権力は、それ以前長期に亘り権力を掌握し、政治体制を維持してきた者であり、倒した側はそれまでの権力者とは全く違わなければならない。しかし『日本書紀』の記述では、倒された蘇我氏の歴史は100年にも満たない新興勢力であり、倒した側は代々の天皇であり最高権力者である。『日本書紀』の記述には明らかにこのような矛盾がある。下記のように「大化の改新」は7世紀末の出来事であると考えられる。畿内地方初の本格的都城である藤原京が建設されたのは694年であるので、ヤマト王権の成立はこの頃である。以下のことから「乙巳の変」の功績で中臣鎌足が藤原の姓と不比等(他に比べることができる者がいないくらい優れている)の名を賜り、自分の功績と姓を賜った時期を50年前の父の代のこととしたと考えられる。以下のことから蘇我氏とは九州倭国の天皇家のことであったと考えられる。以下のことからヤマト王権が皇権を九州倭国から継承した方法は、ヤマト王権の「天武」と九州倭国の姫「持統」との婚姻と宇佐神宮(八幡大菩薩)の神託を利用したと考えられる。704年に文武天皇が、藤原宮に住んでいた九州倭国の天子を故郷九州へ戻らせて、自ら藤原宮の主人となったと考えられる。神護景雲4年(770年)称徳天皇暗殺により天武朝が断絶、藤原氏は滅亡した九州倭国の末裔(光仁天皇)を天皇に擁立したと考えられる。神武が東征し畿内に侵入したのは6世紀で、神武より先に九州から畿内に植民していた長髄彦(ながすねひこ)等の国である日下(日本)を征服した。『日本書紀』においてヤマト王権(天武朝)の系譜の天皇は、初代の神武天皇とそれに続く欠史八代の天皇(第2代綏靖天皇、第3代安寧天皇、第4代懿徳天皇、第5代孝昭天皇、第6代孝安天皇、第7代孝霊天皇、第8代孝元天皇、第9代開化天皇)の9代と第40代天武天皇、第41代持統天皇の2代を加えた計11代であり、間の第10代(崇神)から第39代(弘文)までの30代の天皇は九州倭国の系譜を挿入したものと考えられる。つまり、天武の父はヒコオオビビ(第9代とされる開化天皇・彦大日日・日子大毘毘)、祖父はヒコクニクル(第8代とされる孝元天皇・彦国牽・日子国玖琉)、曾祖父はヒコフトニ(第7代とされる孝霊天皇・彦太瓊・日子賦斗邇)である。以下のことから九州から王権が移動しヤマト王権が確立したのは7世紀末であると考えられる。次のことから、記紀の編纂時にヤマト王権以前の都合の悪い記録を意図的に消しさった(徹底した焚書があった)と考えられる。8世紀は異常に多くの反乱やクーデターが発生しており、ヤマト王権は政権が安定していない。以下のことから、九州倭国の抵抗は723年頃まで続いていたと推測される。防人の配置は、九州倭国制圧のために東国の蝦夷を利用したヤマト王権による「夷を持って夷を制する」政策であったと考えられる。以下のことから太宰府は、九州倭国の首都(倭京)であったと考えられる。7世紀末に突如として畿内地方に出現した官僚集団は、九州の太宰府(倭京)から連れて来られたものである。ヤマト王権は九州倭国の官僚機構を引き継ぐことにより、政権に必要な人材を確保することができたと考えられる。伊勢神宮の興りは福岡県糟屋郡久山町猪野の天照皇大神宮である。倭姫命の定めた伊勢とは熊本県八代地方のことで、現在の伊勢に移る前の伊勢神宮は全て九州内だった。万葉集などの淡海とは八代海であり、後世に、淡海と近江が混同されたのである。日本書紀には、第10代崇神天皇の6年、宮中にあった天照大神を皇女・豊鍬入姫命に託して笠縫邑に移したとある。一方、第14代仲哀天皇は筑紫で神のお告げを受けたが、これを信じず非難したので神の怒りに触れ亡くなったとある。以下の事からこれらの記事は順序を入れ替えられたもので、仲哀天皇の話が先で伊勢神宮の始まりの物語であり、神功皇后が初代の斎宮である。崇神天皇の宮も福岡の近くにあったと考えられる。姫戸は元伊勢である。伊勢神宮が現在の伊勢に移ったのは、第3回神宮式年遷宮(729年-732年)であると考えられる。次のことから、7世紀以前に無文銀銭や富本銭などの貨幣が発行されこれらの貨幣が流通していたのは九州であり、8世紀以後、ヤマト王権は九州の富本銭等を参考にして和開同珎(和同開珎)等の貨幣を発行したと考えられる。景行天皇の九州大遠征説話は「筑前」を拠点として「九州統一」を成し遂げた九州倭国の史書からの盗用である。神功皇后の筑後平定説話は九州倭国の史書からの盗用である。『日本書紀』によれば持統天皇は、持統3年(689年)1月から持統11年(697年)4月までの間に、31回も吉野に行幸している。これは、34年前の白村江の戦直前の九州倭国の天子の軍事的目的を持った佐賀県吉野への視察記事から盗用されたものである(部隊は機密保持のため有明海に集結し、有明海→五島列島→韓のコースを辿ったと考えられる)。「遣隋使」はもちろん、「遣唐使」も7回目(669年)までは九州倭国が派遣したものであり、小野妹子らの畿内日本の者は九州倭国の遣隋使に同伴させてもらったのである。奈良正倉院の宝物の殆どは天平10年(738年)に九州筑後の正倉院から献上されたものであり、元は九州倭国の宝物である。法隆寺西院伽藍は筑紫の寺院(太宰府都城の観世音寺又は福岡市難波池の難波天王寺又は筑後国放光寺)が移築されたものである。「君が代」は九州倭国の春の祭礼の歌である。2004年秋に中華人民共和国陝西省西安市の西北大学が西安市内から日本人遣唐使「井真成」の墓誌を発見した。以下のことから、この「井真成」は、九州倭国の皇族であると考えられる。『万葉集』に、九州・山陰山陽・四国の人の歌が無いのは、皇権簒奪の事実を隠すためであり、また解釈が皇国史観で歪曲されているからである。日本各地の寺社の縁起や地方の地誌・歴史書等には私年号(逸年号。朝廷が定めた元号以外の年号)が多数散見される。九州年号は鶴峰戊申が、邪馬台国=熊襲説(倭の五王も熊襲の王とする)を述べた著書『襲国偽僣考』のなかで、それらを熊襲の年号として考証したものである。古田武彦の『失われた九州王朝』で再評価された。史料はこのほかに『二中歴』『海東諸国記』などがある。九州年号が制定された理由としては、南朝との交流が502年の梁への朝貢で最後となり、冊封体制から外れた為に自前の年号が必要になったからと考えられる。また倭のライバル高句麗では391年に好太王(永楽太王)が永楽の年号を用いており、倭や高句麗に従属させられていた新羅でさえ536年には建元という年号を建元している。554年には、百済より暦博士が来日しており、隋・唐代には天子を自称していた倭の大王が通説のように701年まで年号を定めなかったことは考えられない。次に挙げるのは『襲国偽僣考』の考証を修正したものである。九州王朝説の提唱者である古田は親鸞研究での堅実な実績で知られ、当初は『史学雑誌』78-9や『史林』55-6、56-1など、権威あるとされる研究誌での公表を行い、一定の評価を得ていた。九州王朝説に関しても、一時期は高等学校日本史教科書の脚注で「邪馬台国(邪馬壱国とする説もある)」と言及されたこともある。しかしその後、勤務校の紀要を除けば、学術雑誌や学会発表などの手段によって自己の主張を公表する過程を踏むことが少なくなり、学界からの反応がなくなった。歴史学、考古学等の研究者は、本説の内容に関して、考古学の資料解釈の成果とそぐわないこと等をもって、検証に耐えうる内容ではないとしており、当初古田が権威あるとされる研究誌での公表を行っていた頃には評価とあわせ批判をしていたものの、主要な百科事典や邪馬台国論争史を著述した研究書においても記載されていない。その一方で、一般市民や在野の研究者の中には熱心な支持者が存在し、従来の古代日本史学をいまだ皇国史観の影響下にあるものと見て、本説はそれに代わる新しい史観であり、「日本古代史の謎や矛盾を無理なく説明できる」と主張している。また本説からは多くの亜流が生まれている。九州王朝説は根拠に示すとおり多くの証拠があるにも拘らず日本古代史学界からは黙殺されている。それは以下のような理由による。飛鳥時代以前を記録した一次史料は金石文や発掘された木簡など僅かしか存在しない、従って説の論拠となる史料は、この僅かな一次資料と記紀や万葉集、漢-唐、朝鮮の歴史書等に散見される間接的な記事、九州年号や大宰府、那珂遺跡群、金印、神籠石などである。この資料の少なさが、九州倭国否定論の論拠の一つとなっており、また多くの亜流を生む原因ともなっている。通説側から九州倭国の存在を仮定しての日本書紀等の既存資料の解釈が恣意的であると問題視されているが、九州王朝説からすると「古代ヤマト王権の存在を裏付ける都城などの遺跡、官僚機構の存在を示す木簡などの一次資料は全く存在せず、通説は二次資料・三次資料である記紀を鵜呑みにしたヤマト王権一元論を前提にその他の資料を無視したり曲解しており、資料の扱いが恣意的である」となる。『日本書紀』の神代巻に「筑紫」は14回出現するが「大和」は1回も出現しないことなどから、神代の舞台は九州であるとする意見は九州王朝説に限らず多いが、九州王朝説では上記のように「壬申の乱」の舞台までも九州であるとして、記紀の殆どは「九州倭国」の史書からの盗用であり、「古代ヤマト王権」の文献資料など存在しないとする見方もある。九州王朝説は九州王朝一元論に陥り易いが、これは記紀の基になった九州王朝の史書が九州王朝一元論によって書かれていたためにそう観えるのであり、現実を正確に反映しているわけではない。また、九州王朝説の支持研究者間でも、白村江の戦いまでを九州倭国の歴史と見る、壬申の乱までを九州倭国の歴史と見る、大化の改新まで九州倭国の歴史と見る等考え方は様々であり定まっていない。かつて古田の弟子であり今は袂を分かった原田実のように、九州王朝は磐井の乱で大和朝廷に屈したと考える論者もいる。中小路駿逸(元追手門学院大学教授)は、雑誌「市民の古代」への投稿について「控え目に言って玉石混淆」と評しており、一部の支持者の主張が突拍子もないと言う類であることを認めている。古事記研究家の竹田恒泰は、八代市で行った講演で上記「八代伊勢説」を紹介等したにもかかわらずテレビ番組「そこまで言って委員会NP」の中では「記紀は我々日本人にとって真実なのであり、海外の文献と比較して事実を暴く様な事をしてはいけない。」「日本史の教科書に魏志倭人伝等載せるべきではない。」等と発言し通説側の苦悩を現している。

出典:wikipedia

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