筑波 久子(つくば ひさこ、1937年11月6日 - )は、日本の元女優で、アメリカ合衆国の映画プロデューサーである。米国での別名はチャコ・ヴァン・リューウェン (Chako van Leeuwen)。本名、村田敏子。茨城県多賀郡大津町(現・北茨城市大津町)五浦出身。父・弥一郎、母・ハツの間に4人兄妹の末っ子として生まれる。両親は地元大手の旅館「五浦観光ホテル」を経営。旅館の女将だった母親に溺愛され、母を憧れにして育つ。中学時代は生徒会長を務め、トップ成績で慶應義塾女子高等学校に進学。慶応義塾女子高では演劇部に所属、幼いころに映画関係者にスカウトされたこともあり、両親に無断で日活のオーディションを受けトップ合格。娘の芸能界入りに、母親は賛成したが厳格な父親は猛反対。「駄目なら高校もやめる」としてついに父親が根負け、日活第3期ニューフェイスとして日活に入社。同期に二谷英明、小林旭がいる。続いて慶應義塾大学法学部政治学科に進学するが仕事が忙しくなり中退。1957年(昭和32年)、『肉体の反抗』が大ヒット、筑波の身体を張った演技が話題となり、筑波主演の「肉体シリーズ」が日活のドル箱となる。新人賞を受賞し、仕事には恵まれたが、もともと体があまり丈夫でなく、一本撮り終えるごとに2週間の入院静養を余儀なくされ、初恋の男性の急逝もあって酒浸りとなる。また「肉体派女優」というレッテルを私生活にまで貼られ、心身疲労。ついに虫垂破裂で横浜のレストランで倒れ、緊急入院。きわどい瀬戸際だったといい、「救われた命だから生活を一から変えよう」と決意、これを機に渡米を考える。1963年(昭和38年)、人気絶頂の中、24歳で突如芸能界を引退、渡米してコロンビア大学に語学入学。27歳の時に、遠距離恋愛を経て3歳年下のマシュー・ヴァン・リューエンと結婚。カリフォルニアに新居を構えるが、映画への思いは捨てられず、カリフォルニア大学の脚本コースに進む。1967年(昭和42年)、長男キースを出産。1966年(昭和41年)及び1968年(昭和43年)に一時帰国し、東映の映画などに出演。その後はアメリカに定住。当時米国は泥沼化するベトナム戦争のさなかにあり、知人にも戦死者がいた。筑波は退廃的な生活を送る若者たちを題材にしたドキュメンタリー映画『若いアメリカ人たち』を撮る。1973年(昭和48年)、第2作目作品『Tender Loving Care』が大物プロデューサーロジャー・コーマンに認められ、「チャコ・ヴァン・リューウェン」名義で全米配給。「彼女の作品を試写室で見てショックを受けた。キャリアの浅いチャコが作ったのが信じられなかった、それくらいクオリティの高い作品に仕上がっていた」(コーマン談)1978年(昭和53年)、ジョー・ダンテを監督に抜擢して、1億円の低予算で製作したパニック映画『ピラニア』が、興収40億円の大ヒット。ハリウッドの大物プロデューサーとなった。1981年(昭和56年)、『ピラニア』のリメイク作品『殺人魚フライングキラー』の監督に、当時無名で駆け出しの28歳、ジェームズ・キャメロンを抜擢。1986年(昭和61年)、旧ソ連でチェルノブイリ原発事故が起こり、感受性の強い一人息子のキースが世を儚んで拳銃自殺してしまう。筑波は一時このショックから精神不安定となり、自殺を試みたこともあったという。2013年(平成24年)春、息子の思いを支えに、東日本大震災からの復興、自殺防止、高齢者・若者の支援を目的とする団体「ファミリー・グループ」を日本で組織。政治活動も行っている。チャコ・ヴァン・リューウェン名義で活動。筑波久子「わが青春に悔あり 悩殺女優の自分史『罪と愛の告解室』」(『新潮45』1992年9~11月号、1993年8~11月号)
出典:wikipedia
LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。