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尾崎城

尾崎城(おさきじょう)は青森県平川市尾崎にあった日本の城(平城)。尾崎城は、周辺の城郭同様集落のほぼ全体が城址である。戦国時代には、大光寺城の支城として機能していた。平城ではあるが堅固である為、隣村の新屋城と共に、浅瀬石城、浪岡城など諸城と協力する事によって、本城、大光寺城を守るのに力を発揮する。現在はほとんど宅地化しているが、堀や切岸が比較的良好に残されている。城は本郭(大館)と外郭(小館、尾崎出丸、勘助出丸、木戸口出丸)で構成されている。築城年は不明。暦応2年(1339年)尾崎合戦があり、曽我貞光の属館尾崎館が攻撃されたことから、この時既に尾崎城はあったものと思われる。室町時代・戦国時代は、大浦元信の舎弟、尾崎三郎左衛門を祖とする尾崎氏が拠っていた。尾崎氏は、初期は浪岡北畠氏の配下だったが、後に大光寺城南部氏の支配下となったという。隣村の新屋氏と同盟し、浅瀬石千徳氏とも婚姻関係を結んで、日和見状態だったが、天正4年(1576年)、前年の本城、大光寺城落城につき、城主尾崎喜蔵は新屋城主新屋源次郎と共に降伏、臣従した(藩史)。降伏を天正2年(一統志)、11年(津軽年代記)とする資料もある。降伏後も、尾崎城周辺1800石(1300石とも)、領内50戸の旧領と尾崎城を安堵された。慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いのときには、喜蔵以下、板垣将兼、多田玄蕃、松野久七の3将に津軽為信は増援を求めた。しかし、松野以外の将は、500人で堀越城を武力占拠。しかし、3将は、金小三郎らに鎮圧され、板垣兵部将兼、尾崎喜蔵は堀越城内で討たれ、多田玄蕃は居城三ッ目内館で爆死した(喜蔵は、側近福王寺与十郎と尾崎で討たれたとも)。これにより、尾崎城は主を失い、一族など残党が尾崎城に籠城したが、田中惣右衛門、奥村民部らに鎮圧された。一族は妻子13歳以上打ち首、その他12歳以下・70歳以上は領外追放され、盛岡藩に逃れたという。

出典:wikipedia

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