本稿の沖縄県の人口統計(おきなわけんのじんこうとうけい)では、沖縄県と本県に属する41の市町村の人口に関する統計を説明する。薩摩藩による侵攻が行われた1600年代初めの琉球王国の人口は約10万人、1700年代初頭には約15万人、1700年代中頃には約20万人と増加していた。しかし、1771年に発生した明和の大津波によって、当時の八重山列島の人口の3分の1に相当する1万人程の住民が死亡、さらにこの頃の琉球各地では台風や大雨、干ばつによる飢饉の流行が相次いだ。それらの災害が重なり、1800年代初期の人口は15万人へ減少した一因とされているが、人口減少に至った原因の詳細は不明なままである。琉球処分により日本へ併合され、沖縄県が設置された明治時代から大正にかけての約40年で約20万人増加した。機械式の製糖工場の導入によりサトウキビから砂糖への生産効率が向上し、産業の近代化が行われたことで、経済的発展に伴い人口が増加したと思われ、さらに官吏や寄留商人の転入も相次いだ。しかし大戦景気が過ぎた後は大不況に陥り、日本からの輸出が激減し沖縄県の主要産物である砂糖の供給過剰に陥った。さらに砂糖の国際市場価格の急落、関東大震災の発生、世界恐慌が追い打ちをかけ、大正末期から昭和時代初めには、ソテツの実や幹から抽出した澱粉しか食せない程で「ソテツ地獄」と呼ばれた。そのため沖縄から海外へ移住する人々が増加し、1899年から1937年までに7万人程の海外移民がいた。自然増加数と海外移民による社会減少数が同程度であったため、人口推移はほぼ横ばいとなった。また1920年以降みられた、主に大阪府や神奈川県への出稼ぎ労働者は毎年1万人以上となり、その子孫らは大阪府大阪市大正区と神奈川県横浜市鶴見区に多く暮らしている。その後太平洋戦争によって、県外や台湾へ疎開した者は約8万人に上った。沖縄戦終結直後は戦死者による減少が起きたものの、海外から帰国した移民の増加とベビーブームにより人口が増加した。本土復帰直前には転出者の増加により1968年から3年間は人口が減少したが、復帰後は県外からの転入者が増加した。それ以降、本県の人口は増加傾向にあるが、出生率の低下に加え、死亡率の増加傾向の影響により、人口増加のペースが鈍化している。国立社会保障・人口問題研究所『日本の将来推計人口 平成24年1月推計』(2010年度の国勢調査に基づいた人口を基準に算出)によると、沖縄県の将来推計人口は、2020年の約141万7千人まで一貫して増加、それ以降は減少するとされ、全都道府県で最も遅く人口減少に転ずると予測される(表2参照)。1920年の第1回国勢調査から2010年度国勢調査に基づく沖縄県の人口を表1に示したが、1945年度と1947年度の国勢調査は実施されず、12月31日現在の推計人口を掲載している(表1の緑背景)。また沖縄県は1945年から1972年にかけてアメリカ合衆国の占領下に置かれたため、1950年度は琉球列島米国軍政府、1955年度から1970年度までは当時の琉球政府が独自で調査を行い、また1950年から1960年の調査期日は12月1日、それ以降は本土と同様10月1日である(表1のピンク背景)。増減人口は該当年度の前回で調査した人口(ただし、1950年度は1940年度の調査人口)から差し引いている。また、表2に2010年度国勢調査を基にした沖縄県の将来推計人口を示した。2005年度と2010年度の国勢調査結果を比較して、人口増加率は2.3%増と前回の調査結果の3.3%増よりも下回った。しかし都道府県別では沖縄県を含む9都府県の人口が増加し、東京都 (4.6%)、神奈川県 (2.9%)、千葉県 (2.6%)に次ぐ第4位の増加率となった。1974年2月現在の推計人口は100万人、1998年12月で130万人、そして2011年8月1日には140万人を超えた。『平成22年 人口動態統計』によれば、2010年の沖縄県の自然増加率は人口千人あたり5.0人の増加で、全都道府県で最も高い。社会増加率は各年により増減が変動するが、増大する要因として、2005年頃の沖縄への移住ブーム、2008年のリーマン・ショック以降の不況による帰省客の増加が挙げられる。また2010年における沖縄県の合計特殊出生率は1.87人と全国の1.39人を上回り、1975年度以来連続で全国1位を維持している。『平成17年度版 厚生労働白書』によると、出生率が高い理由として、という2つの説を挙げている。高齢者の少ない県ほど、単に死亡数を人口で割った粗死亡率は低くなる傾向にあるため、年齢構成の異なる都道府県と一律に比較できるように、年齢調整死亡率が用いられている。2010年度における沖縄県の粗死亡率は、人口10万人当たり男性は797.4人(全国1,029.2人)、女性は671.5人(全国869.2人)であるのに対し、年齢調整死亡率は人口10万人当たり男性547.3人(全国544.3人)、女性267.0人(全国274.9人)で、特に2000年の男性15歳から50歳までの年齢調整死亡率が全国高位3位以内という結果となった。1995年までは男女ともに年齢調整死亡率は全国でも低位5位以内に位置していたが、それ以降から男性は全国平均並、女性は全国平均へと近づきつつある。沖縄県の女性の平均寿命は1975年の統計以来、2005年まで全国1位の高さを維持していたが、『平成22年 都道府県別生命表』によると女性は初めて1位から3位へ順位を下げた。また男性は1995年の全国4位から、2000年には26位、そして2010年は30位に下落した。前回の2005年調査の平均寿命から比較すると、男性0.76歳増加(全国32位)、女性は0.14歳増加と全国で2番目に低い結果となった。沖縄県によると青年・中年男女ともに生活習慣病を原因とする死亡率が全国平均より高い点を指摘している。医療分野に詳しい県内の大学教授や専門家らは、アルコールの過剰摂取と喫煙による影響、また中年者の食の欧米化による肥満やそれに伴う糖尿病患者が増加し、沖縄の伝統的な生活様式を見直すべきだと指摘されている。『平成22年度 国勢調査』によると、沖縄県の15歳未満の人口の割合が17.8%と全都道府県で最も高い。また65歳以上の人口では17.4%と最も低く、20%以下の都道府県は本県のみで、さらに15歳未満の人口が65歳以上の人口を上回った唯一の都道府県である。さらに15歳から65歳までの人口に対する65歳以上の人口の割合である「老年人口指数」は26.8と全国で最も小さい。平均年齢は40.7歳で全国平均の45.0歳を下回り、都道府県別でも最も若い結果となった。2016年の沖縄県による発表によると、2016年9月1日現在、同年9月15日時点における本県の100歳以上の高齢者は1,011人(男性130人、女性881人)で、本土復帰以降の調査で初めて千人を超えた。当発表による県内最高齢は112歳の女性1人で、長寿者上位20名のうち、男性は1人のみであった。本県の人口10万人当たりの100歳以上の高齢者数は、都道府県別で1973年から2009年まで37年連続全国1位であったが、2012年は62.88人と全国5位に後退し、2016年は15位となった。厚生労働省と沖縄県の関係者は順位が下落した理由として、沖縄県の若年層人口が増加し、さらに高齢者人口の割合も小さい事が挙げられる。また長寿研究を行っている琉球大学の教授によれば、今回の順位下落により沖縄県における長寿に影響を及ぼすものではないが、高齢者が健康的に暮らせるよう生活の質を高める努力をしなければならないと述べている。表3に沖縄県内に在住する外国人の国籍上位5位と、2005年度と2010年度の国勢調査結果と比較した増加率を示した。2010年度の国勢調査結果によると県内に居住する外国人は7,651人である。前回の2005年度国勢調査と比べて754人(10.9%)増加し、特に中国と韓国・朝鮮籍の外国人の増加が目立つ。外国人の国籍はアメリカ(27.2%)が最多で、また都道府県別の全外国人に占めるアメリカ国籍の割合でも沖縄県が最も高い。その次に中国(17.4%)、フィリピン(14.6%)と続き、他にも、、、、等の外国人も居住している。また日米地位協定により米軍関係者は「外国人の登録及び管理に関する日本国の法令の適用から除外される」と規定されているため、国勢調査には在沖米軍の軍人・軍属とその家族は含まれていない。しかし2008年に日本政府と米軍本部は米軍の不祥事対策の一環として、日本国内の各地方自治体の米軍関係者の人数が公表された。在沖米軍の関係者(軍人・軍属・家族)は44,963人で、在日米軍の約半数を占める。古琉球時代から地方の行政区分として間切が存在した。薩摩藩による琉球侵略後に行われた検地に関する資料『琉球国高究帳』によれば、沖縄本島は27の間切と約300の集落で構成されていた。また間切制度が廃止される直前の1906年は那覇区、首里区、45の間切と離島7島で、そして市町村制が導入された戦前の1940年には那覇市・首里市の2市と5町49村、当時私有地であった大東諸島(1946年に村政に施行)で構成された。戦後の市町村合併を経て、2009年現在では11市11町19村の計41市町村となっている。1890年の統計では、城下町で政治の中心地であった首里区の人口は、商業の中心として栄えた港町の那覇区の人口を下回り、那覇区が当時沖縄県で最も人口の多い自治体となった。一方、この頃の那覇・首里以外の沖縄県は農業が主な産業であったため、土壌の肥えた沖縄本島中南部や本部半島に多く人口が分布していた。しかしその後経済活動が活発になると、鉄道整備による交通の要衝として、あるいは工場の設置等による産業の中心地として各地で都市化が進行し、他の農村部との人口格差が拡大していった。戦後、軍道1号線(国道58号)の整備、それに伴って当道路に沿って建設された米軍基地に関連した雇用体制が確立したことで、戦前太平洋側に多かった人口が東シナ海側へ移ったと考えられる。本土復帰以降、沖縄本島北部と沖縄諸島の離島、石垣島を除く先島諸島の人口は減少傾向にある。それに対して、沖縄本島中南部の人口増加は顕著で、国道沿いに市街地が連続して形成するコナベーションが発達している。那覇市の人口は微増だが、その一方で南風原町や豊見城市などの周辺自治体の人口が急増するドーナツ化現象が進んでいる。『平成22年度 国勢調査』によれば、『平成17年度 国勢調査』と比較した全国市町村別の人口増減率のうち、増加率上位では北大東村(8位)、中城村(10位)、豊見城市(23位)が、また減少率では、座間味村(6位)、渡名喜村(22位)が入る。年齢構成では、全国の市町村別の15歳未満の人口の比率上位20位中14の本県に属する市町村が占め、65歳以上の人口に関しては市部別の下位10位中に浦添市(6位)と豊見城市(8位)が、町村別では西原町(5位)が順位づけされている。総人口に対する人口集中地区人口の割合で、都道府県庁所在地別では那覇市が99.7%と東京都特別区部、大阪市に次ぐ第3位となっている。沖縄県における人口重心の位置は、『平成22年度 国勢調査』によれば「豊見城市役所の西14.0kmの海上」()となり、『平成17年度 国勢調査』により算出された人口重心()から東北東方向へ552メートル移動している。沖縄県に属する面積0.01km²以上の島は160島で、そのうち有人島は49島である。さらに、有人島のうち「沖縄振興特別措置法」第3条第3号に規定する「指定離島」は39となり、残り10の有人島は沖縄本島と、この島と架橋などで連結されている離島である。以下の表は、「指定離島」における、国勢調査結果(一部例外あり)に基づく人口表である。2005年度は『第51回 沖縄県統計年鑑』(2008年)、2010年度は『平成27年1月 離島関係資料』(2015年)を出典としている。以下の表7は2000年度と2005年度の国勢調査結果に基づいた、沖縄本島と海中道路や橋などで連結された離島の人口表である。また、表8の「沖縄本島」の人口は、表7の「沖縄本島連結離島」を含む値であるため、差し引いた数値(表中の「(1) - (2)」)を掲載している。ともに出典は『第51回 沖縄県統計年鑑』(2008年)より。
出典:wikipedia
LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。