拓跋 沙漠汗(呉音:たくばつ しゃまくがん、漢音:たくばつ さばくかん、音:、? - 277年)は、鮮卑族拓跋部の太子。大人(たいじん:部族長)である拓跋力微の子。兄弟には拓跋悉鹿、拓跋綽、拓跋禄官がいる。子には拓跋猗、拓跋猗盧、拓跋弗がいる。たびたび魏や西晋への遣使を務めた。拓跋珪が北魏を建てると、偉業を称えて、文皇帝と追尊された。神元帝42年(261年)、魏と和親を結ぶことにした拓跋力微は、子の沙漠汗を魏に赴かせる。沙漠汗は、太子として洛陽に留まり、拓跋部と魏の和親に努めた。神元帝48年(267年)、沙漠汗は晋から帰ると、晋との通商を親密におこなった。神元帝56年(275年)、沙漠汗は再び晋に赴くが、その年の冬に、国へ帰ることとなり。晋の武帝は沙漠汗に牛車百乗にもなる錦、(けい:毛織物)、絵(真綿)、彩、綿、絹諸物を送った。しかし、征北将軍の衛は、後に患いとなるとし、沙漠汗を洛陽に留めておくよう上奏し、沙漠汗を留めさせた。ここにおいて国の執事及び外部大人は皆衛の賄賂を受けるようになる。神元帝58年(277年)、沙漠汗が帰国すると、父の力微は大喜びで出迎えさせた。その際、沙漠汗が空を飛んでいる鳥を見て「あの鳥を捕って見せよう」と言い、弾き弓で石弾を飛ばし、見事に鳥を撃ち落した。当時の鮮卑族には弾き弓の技術は伝わっておらず、諸大人は皆驚いた。諸大人が先に帰ると、力微は「わが子の晋にいた成果はどうだった?」と聞いた。すると諸大人は、「太子は才芸が非常で、空に弓を引いて飛ぶ鳥を落とします。これは晋人の異法怪術を得ており、国を乱し民を害する兆しであります」とし、沙漠汗に謀反の疑いをかけた。沙漠汗は長らく晋にいて、その間兄弟たちは、日々力微の寵愛を受けており、力微は百歳を超える高齢で、正しい判断ができないので、「その者を受け入れることはできない、まさにこれを排除すべきだ」として、諸大人は力微の命だと偽り沙漠汗を殺した。その後、力微はこのことを甚だ悔んだという。身長は8尺、雄姿はすばらしくて、容姿はハンサムであった。
出典:wikipedia
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