足摺(あしずり)は、日本海軍の給油艦。軽質油運搬艦である足摺型給油艦の1番艦。艦名は高知県にある足摺岬による。仮称艦名第219号艦。1941年(昭和16年)度マル臨計画2次計画により三菱重工業長崎造船所で建造され、1943年(昭和18年)1月30日に竣工。横須賀鎮守府籍となり、同日連合艦隊付属となる。足摺の竣工後の行動は断片的にしか判明していないが、まず4月10日に佐伯を出港して横浜に向かっている。6月15日には、特務艦の洲崎、陸軍タンカーの黒潮丸(中外海運、10,518トン)、タンカーのあまつ丸(石原汽船、10,567トン)とともに船団を構成して佐世保を出港して南方へ向かう。時はヒ船団開設前夜、まず敷設艇の平島の護衛で高雄に向かい、高雄ではあまつ丸と別れ、また護衛艦が平島から駆逐艦若竹に代わり、Z船団を名乗って6月21日に高雄を出港。サンジャックを経由し、6月28日に昭南(シンガポール)に到着した。9月22日には、サ12船団に加入して門司に向かう。船団は9月25日にアメリカの潜水艦ボーフィン("USS Bowfin, SS-287") の雷撃で特設運送船の(給油・応急タンカー)霧島丸(国際汽船、8,267トン)が沈没。足摺および中型タンカーの誠心丸に対しても魚雷が発射されたが回避した。11月10日にはサ17船団に加入して昭南との間を往復。1944年(昭和19年)に入り、1月6日に特務艦の塩屋、特設運送船(給油)の興川丸(川崎汽船、10,043トン)とともに臨時M船団を編成し、第36号哨戒艇の護衛を得て高雄を出港。マニラまではヒ29船団と同行し、1月9日にマニラに到着後分離してタラカン島経由、1月15日にバリクパパンに到着した。以後、バリクパパンとダバオ、サイパン島間の軽質油輸送などに従事。4月29日から5月1日にかけては、第30号掃海艇の護衛を得てタラカン島からバリクパパンへ航行。6月1日時点ではヤップ島に在った。6月5日、足摺は高崎とともに海防艦干珠の護衛でスールー海を航行中、のクラシアン島近海でアメリカの潜水艦パファー("USS Puffer, SS-268") から発見された。パファーの発射した魚雷が7本全て命中したと判断され、足摺と高崎はこのパファーの雷撃によって沈没した。7月10日除籍。
出典:wikipedia
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