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大野豊 (野球)

大野 豊(おおの ゆたか、1955年8月30日 - )は、島根県出雲市出身の元プロ野球選手(投手)。からまで、広島東洋カープにおいて22年間活動した。実家は海に面していたため、幼少期から砂浜で走って遊んでいたことで、足腰が鍛えられ、後年の下半身に重心を置くフォームの土台にもなった。母子家庭であり、母の苦労を見ていたので「中学を卒業したら、就職する。」と胸に秘めていたが、せめて高校だけは出て欲しいと家族が要望したため、すぐに働くための実学が商業高校であれば学べるということで出雲商業高校を選んだ。高校2年から本格的に投手として投げ、既にプロ入り後と殆ど変わらないフォームであった。高校3年の夏には島根県でも注目され、強豪社会人チームからの誘いもあり、広島のスカウト木庭教もマークしていた。しかし、当時の大野は体力的に自信がなく、また母子家庭で苦労をかけた母のため、軟式ながら地元で唯一野球部がある出雲市信用組合へ就職した。3年間窓口業務や営業活動をこなす傍ら、職場の軟式野球部で野球を続けていた。に、島根県準優勝の島根県立出雲高等学校と、練習試合を硬式野球で行ったところ、5イニングで13三振を奪い、硬式でもそれなりに投げられたことで、プロへ挑戦し、母親を楽にさせたいという気持ちを持った。その3か月後の秋、出雲市内で広島東洋カープの野球教室が開かれ、当時の山本一義打撃コーチと主戦投手池谷公二郎が講師として参加。出雲市信用組合野球部員は手伝いをすることとなり、大野の高校時代の監督が山本打撃コーチと法政大学野球部の先輩後輩の関係であったため、高校時代の監督へプロへの道を作っていただけないかと頼んだ。恩師に頼んだ経緯もあり、翌2月に特別に受験することとなり、呉市営二河野球場で行われていた二軍キャンプにおいて、山本と木庭教の立ち会いのもと一人だけの入団テストを受けて合格。3月6日、軟式野球出身という異色の経歴で、広島にドラフト外入団を果たした(契約金なし、俸給は月額12万5千円)。1年目のは9月4日の対阪神タイガース戦(広島市民球場)に1試合登板したのみだったが、この時片岡新之介に満塁本塁打を打たれるなど、掛布雅之からアウト一つを取ったのみで降板。自責点5、防御率135.00という成績を残した。この試合後、大野はあまりの悔しさに泣きながら太田川沿いを歩いて寮まで帰った。本人によれば、帰寮直後には観戦していた友人から「自殺するなよ」という電話があり、山本一義コーチから「死ぬなよ」と言われたという。大野は後年、「いくら成績が悪くとも、この時の防御率を下回ることは絶対にない。スランプの時にそう考えると、精神的に大分楽になった」と語っている。、南海ホークスから移籍してきた江夏豊に見初められ、古葉竹識監督から預けられるという形で、二人三脚でフォーム改造や変化球の習得に取り組み始める。江夏は当時の大野について「月に向かって投げるようなフォームだった。しかし、10球に1球ほど光るものを感じたから、とりあえずキャッチボールから変えてみようかということになった」と語っている。また、江夏は「俺と同じ『豊』と言う名で、俺と同じ母子家庭で育ち、俺と同じ左腕投手なのも何かの縁。俺の弟のようなもの。是非、俺の後継者にしたい!」と大野を評していた。時に鉄拳も飛ぶ厳しい指導の末、やがて大野は中継ぎの柱へと成長を遂げた。同年10月9日のヤクルトスワローズ戦(明治神宮野球場)ではプロ初完封勝利を記録したが、これはこの年の開幕から完封負けなしを続け、史上初(2015年現在でも未記録)の「シーズン完封負けゼロ」を狙ったヤクルトをシーズン最終戦で初めて完封するという快挙となった。には、トレードで日本ハムファイターズへと移籍した江夏の後を受けてリリーフに抜擢され、「気の弱い大野に抑えは無理」と非難を浴びながらも同年8勝11セーブ、翌には10勝11セーブを記録した。から先発に転向し、同年の日本シリーズ制覇、のセ・リーグ優勝に貢献。までに4度の二桁勝利を記録し、には13勝7敗、防御率1.70という好成績で最優秀防御率のタイトルを獲得、沢村賞も受賞した(現在、史上最少勝利数での沢村賞受賞である)。翌にも防御率1.92を記録し、2年連続防御率1点台という出色の成績を収める。1970年以降、2年連続防御率1点台を記録した選手は大野、ダルビッシュ有、内海哲也、田中将大の4人だけである(2014年現在)。最速150km/h近いストレートに加え、パームボール、 真っスラ(ストレートとスライダーの中間軌道の変化球)、スラーブ(スライダーとカーブの中間軌道の変化球)、シュート、ドロップ、といった様々な変化球を駆使する様は『七色の変化球』と形容され、『精密機械』北別府学、『巨人キラー』川口和久らと共に、1980年代広島投手王国を支えた。には、津田恒実とのダブルストッパー構想の下、抑えに再転向するが、病気による津田の早期戦線離脱に伴い、クローザーの責務を一人で負うことになる。しかし大野はシーズンを通して抑えとして大活躍を見せ、6勝26セーブで最優秀救援投手に輝き、また14試合連続セーブという日本記録(当時)も樹立(7月札幌市円山球場で読売ジャイアンツの主砲フィル・ブラッドリーにサヨナラ本塁打を打たれストップ。開幕からの連続セーブとしては現在も日本記録)、チーム6回目のセ・リーグ優勝に大きく貢献した。なお、この年の大野は、ペナントレース優勝試合(対阪神)での胴上げ投手となった。も、26セーブでリーグ最多セーブを記録(36歳で開幕を迎えたシーズンのセーブ王獲得は20年後に岩瀬仁紀が37歳で開幕迎えて獲得まで最年長記録)。9月16日の阪神戦において新庄剛志にサヨナラ本塁打されたパームボールについて、その打たれ方のタイミングや飛距離からもう通用しないと判断したことをきっかけに同球種の使用を封印した。シーズンオフ、アメリカMLBのカリフォルニア・エンゼルスから広島に、大野をチームに獲得したいという公式オファーがあった。年俸100万ドル、専従通訳と住宅付きで一年間のレンタル契約、代わりの外国人選手を広島に一人紹介するという破格の内容だったが、本人は翌年開幕時で38歳となる高齢などを理由にこれを固辞。当時はまだ野茂英雄がアメリカで旋風を巻き起こす前であり、メジャーリーグに挑戦する日本人選手はいても、メジャー球団から日本の現役選手に誘いが掛かることは異例中の異例であった。、開幕から調子が上がらず、佐々岡真司と入れ替わる形で再び先発に転向した。、開幕投手を務めたものの好調なチームとは裏腹に自身は調子が上がらず8月中旬から約1ヶ月間、左上腕部動脈血栓症により戦列離脱。本人によれば、「投げていてもボールに血が通っていない気がした。温かさも感じられない状態だった」という。血栓の除去手術を受けた後、再発防止のため、それまで練習中一切行わなかった水分摂取を行うようにした。当初は体が受け付けずに下痢を起こしたこともあったが次第に慣れていったという。、41歳にして開幕を迎えながら好調を持続し、防御率2.85で2回目の最優秀防御率のタイトルを獲得した(この年の防御率部門は1位から4位までが0.14差の大激戦で、特に10月10日・11日の対ヤクルト25回戦・26回戦には結果次第では防御率1位に躍り上がる田畑一也、吉井理人が登板。広島チームメイトは大野に防御率のタイトルを取らせるために果敢に両投手を攻め、チームは連敗したが田畑は4回を投げ3失点(自責点3)吉井は3回2/3を投げ3失点(自責点3)となりタイトル奪取を阻止した)。4月3日の広島市民球場での中日ドラゴンズとの開幕戦で、史上最年長となる42歳での開幕投手を務めた。同年4月12日に通算146勝目を記録。これにより記録した21年連続勝利はに山本昌に更新されるまではセ・リーグ記録であった。だが、持病となっていた血行障害が悪化し、8月4日の巨人戦において高橋由伸に逆転3ランを打たれたことをきっかけに引退を決意した。9月27日の自身の引退試合(相手球団は同年の日本シリーズを制覇する横浜ベイスターズ)は、既に消化試合であったにもかかわらず球場は満員であった。登板は中根仁に対するリリーフだけであったが、初球のストレートは146km/hを記録し、最後は142km/hのストレートで空振り三振に切って取った。中根は、引退試合の礼儀から対戦前から三振することを決めていた。しかし、初球の146km/hのストレートを見て「これは本気でぶつからないと失礼だ」と感じ、全力で向かい三振に終わった。試合後の挨拶では、大野の人徳からか対戦した横浜の選手までもがセレモニーに参加しその中で「我が選んだ道に、悔いはなし!」と答え、ファンの大歓声を受けた。引退当時の年齢は43歳、チーム在籍年数22年。通算148勝138セーブ、生涯防御率2.90。生涯防御率2.90は、投球回数2000イニング以上の投手の中では歴代30位の成績である。引退直後の、広島の一軍投手コーチを務めたが、チーム防御率は4.78(前年のチーム防御率4.01)で3年連続でチーム防御率がリーグ最下位になるなど投手陣が低迷し、同年に責任を取って退団した。退団後はNHKの解説者、スポーツニッポン(大阪本社)の野球評論家を務める傍ら、に始動したプロ野球マスターズリーグ・福岡ドンタクズに参加。村田兆治同様、引退後も現役時代と変わらぬ体格を維持し続け、マスターズリーグにおいても140km/hを超える直球を投げるなど、50歳を越えても現役時代を彷彿とさせる姿を見せた。開幕初年度、46歳ながら146km/hの投球を見せ、ファンの度肝を抜いた。これはマスターズリーグの最高球速記録である。社会人野球・鳥取キタロウズのアドバイザーも務めた。のアテネオリンピック、の北京オリンピックにおいては、星野仙一監督の下で野球日本代表の投手コーチを務め、アテネでは銅メダル獲得に貢献したものの、北京ではダルビッシュ有、涌井秀章、川上憲伸、岩瀬仁紀ら、そうそうたる選抜メンバーを擁したが、中継ぎ専門投手を1人も選考せず、代わりに先発投手に中継ぎをやらせるなどした結果、投手陣崩壊を招き、金メダルを期待されながらメダル無しに終わった。より、野村謙二郎が監督となる広島のヘッド兼投手コーチに就任したが、前監督マーティ・ブラウンが導入した練習時の投げ込み制限等を撤廃し、先発投手には1試合で7~8イニングを投げるよう求めた。さらにストライク先行を奨励していた前年までの配球を根本的に見直し、バッテリーには「ボール球を有効に使って考える」配球を求めた。このように投手陣の改革を断行した。 しかしオープン戦時点において先発投手陣の調子は全く上がらず、それをカバーするためにペナントレース開幕時には中継ぎ投手を多くブルペンに配置したが、「ブルペンでの球数制限」や「試合前にあらかじめ登板する中継ぎ投手を決めておく」等のブラウン政権時の良い点までも撤廃してしまい、代わりに「ブルペンで調子の良い投手から起用する」という方針を取った。しかし、好調な中継ぎ投手は試合展開に関わらず連投となるなど結果的にシーズン半ばにして故障者が続出。調子が上向かない投手陣については、地元マスコミなどからも、前年と同様に中継ぎ投手の役割分担を明確化するような意見も相次いだが、こうしたマスコミ・ファンの提言・疑問もあったものの、2010年シーズン中は方針を変えることはなかった。また試合後の大野のコメントからも、コーチとしてどのような指導・対策を行うのか、具体策を伺うことはできなかったことが多かったことに対してはファンやマスコミから批判や疑問の声が相次いだ。こうして、キャンプから自己流の調整法を貫いた前田健太 が投手3冠(勝利数・防御率・奪三振)のタイトルを獲得する奮闘を見せたものの、最終的なチーム防御率は前年から1.5点近く悪化させて4.80となった。以上のように大野が行おうとした投手陣の改革が全て裏目に出てしまい、また柔軟な対応もできなかったことが2010年におけるチームの低迷に直結してしまう。このような結果に終わったことで、投手陣指導の最高責任者として去就が注目されていたが、広島球団はヘッドコーチの肩書きを外し投手コーチとしての残留を発表した。Aクラスやポストシーズン再び逃した、背番号24を受け継いだ河内貴哉の2年半ぶりの支配下選手登録と5年ぶりの一軍登板を土産に同オフ退団した。にプレーヤー部門表彰で野球殿堂入りした。同年からは再びNHK野球解説者・スポーツニッポンの評論家 を務める。の秋季キャンプでは阪神タイガースの臨時コーチを務める。腰を極端に低くして、大地に踏ん張るように軸足を深く沈み込ませて溜めを作る、独特の投球フォームだった。この溜めと数々の変化球によって打者のタイミングを外すことを得意としていたが、このフォームは下半身を安定させることが難しく、真似をしようとする投手は現れなかった。また、入団当時広島のヘッドコーチだったドン・ブレイザーからは「それを直さない限り(試合で)使わない」と言われ、本人も矯正に努力していたそうだが、結局うまくいかず、かえって持ち味が無くなるということで諦めたという。巨人時代の松井秀喜は大野を大の苦手にしており、「大野さんのボールは一生打てません」「ベンチにいるだけで嫌だった」と発言していた。実際、1994年には代打を出された事もあった(起用されたのは原辰徳)。また大野が引退する報を聞いたときには「本当ですか!?」と、敬意を表するのと同時に以降対戦しなくてすむことを喜んでいた。巨人を代表する4番打者である王貞治、松井秀喜の両方と対戦したことがある投手は大野豊、北別府学、小松辰雄の3名だけである。広島のスカウトだった木庭教とは高校時代に知り合ったが、大野は高校卒業まで父方の姓を名乗っていたため、木庭は入団時に「大野豊」の名前を聞いた際、すぐには誰のことか分からず、改めて対面して初めて分かったという。最大の恩師とも言える江夏豊については「フォームや配球だけでなくロジンバッグの置き方に至るまで、本当に細かく指導された」「テスト生だった選手に、当時のスター選手がコーチをしてくださることは夢のようだった」と感謝・尊敬の念を語り、現在でも「プロ野球リリーフ大鑑」(ベースボール・マガジン社)などで対談を行っている。ただ、気難しい性格ですぐ手が出る部分(キャッチボールの仕方が悪いと殴られたこともあるという)については「ついていけないと思った」とも述べている。なお、江夏は大野の大成について「彼の努力以外の何物でもない」と語っている。結婚式に当時の球団オーナーである松田耕平を招待したが、松田は用意された上座ではなく、身内が座る末席に座った。他の出席者が「オーナー、席はあちらです」と言うと、松田は「いや、広島の選手はみんな息子みたいなもんだ」と話した。母子家庭で父親のいない大野は深く感動し、涙を流したという。親友でありチームメイトでもあった達川光男や、掛布雅之、江川卓らと同学年である。大野が現役晩年に最優秀防御率のタイトルを獲得した時は、既に引退して解説者として名を成していた彼らと比較して「現役で一軍にいることすら驚異的な年齢であるにもかかわらず」と語られることがしばしばあった。彼らの学年は多くのスター選手を輩出したことで知られ、高校3年時が昭和48年だったことから“花の48年組”とも呼ばれている。

出典:wikipedia

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