前田 勝宏(まえだ かつひろ、1971年6月23日 - )は、兵庫県神戸市垂水区出身の元プロ野球選手(投手)。神戸弘陵学園高等学校からプリンスホテル硬式野球部を経て、1992年のドラフト2位で西武ライオンズに入団。150km/hを超えるストレートを武器に即戦力を期待されたが、西武での3年間は満足な成績を挙げられなかった。シーズンオフ、ハワイ・ウィンターリーグで非公式ながら100マイル(約161km/h)を出し、幻の日本人100マイル投手として知られるようになる。その後、突如任意引退も辞さない構えでメジャーリーグ挑戦を直訴。シーズン開幕直前まで騒動は続いたが、最終的には「ごねてチームの和を乱す選手は不要」と激怒した当時のオーナー・堤義明の「行かせてあげれば」の鶴の一声で実現した。西武退団後、野茂英雄に続く日本人として鳴り物入りでニューヨーク・ヤンキースと契約し、傘下のマイナーリーグのチームに所属した。ヤンキース入団会見では金髪にし、その理由を現地の記者にインタビューされると「アメリカが好きだから」とジョークを交えて発表していた。タンパの教育リーグ施設で、ヤンキース巡回投手コーチのビリー・コナーズ(カブス時代、グレッグ・マダックスを育てるなど実績がある)の下で、チェンジアップの習得やフォーム改造に取り組んだあと、A+級タンパでアメリカデビュー。約1か月後、AA級ノーウィッチ(コネチカット州)に昇格し、そのシーズンをAA級で過ごした。翌からはトレイ・ヒルマンの下でプレーするが、好結果は残せなかった。3年目のにはAAA級コロンバスに昇格するが、レベルの高い打者との対戦で結果は出せずAA級に降格。アメリカでまで5年間プレーしたが、その間に腕に異常を来すなど、過酷なマイナー契約だった事もあり、メジャー昇格を果たせないまま、日本の野球界へ戻ることになる(マイナー時代、伊良部秀輝とチームメイトだったこともある)。、中日ドラゴンズにテスト入団。NPB復帰を果たしたものの、一軍登板はなくわずか1年で戦力外となった。には中華職業棒球大聯盟(CPBL)の興農ブルズ(登録名は前田克拓)、はイタリア・セリエAのフォルティトゥード・ベースボール・ボローニャ、は中国野球リーグの上海ゴールデンイーグルスで再び海外に活躍の場を求めた。からは専門学校であるアスピア学園の野球部にコーチ兼任投手としてアマ復帰し、第76回都市対抗野球大会に三菱重工神戸の補強選手として出場したが、この年限りでアスピア学園は休部。チームを率いていた木立章成が新クラブチーム「岩手21赤べこ野球軍団」の監督に招聘されたことから木立と行動を共にしてから岩手21赤べこ野球軍団に移籍。同僚の関連太郎と共に、エースとしてチームを牽引していた。岩手21赤べこ野球軍団はの第78回都市対抗野球大会に初出場を果たしたが、1回戦で敗戦(前田は登板機会なし)、チームも資金難からこのシーズン限りで解散した。、四国・九州アイランドリーグの長崎セインツに入団。本人は「NPB復帰を目指す」とコメントしていた。同年4月5日、NHK総合テレビジョンで放映された『スポーツタイム』でセインツに入団するまでの経緯と野球に対する思いが家族との団欒を交えて紹介された。6月28日、チームのスタッフ交代に伴い、投手コーチを兼任することが発表された。さらに7月5日には、スケジュールの都合で臨時監督の島田誠が全試合のベンチ入りが不可能なため総監督に退き、その後任として現役選手のまま監督代行に就任した。同年7月21日の対愛媛マンダリンパイレーツ戦において、相手選手に対する暴力行為により退場処分を受ける。リーグは後日、前田に対して1試合の出場停止と球団からの指導という処分を下した。2008年シーズンは33試合に登板、9勝5敗で防御率1.90という成績であった。監督代行となってからは文字通りチームを引っ張り、前期最下位であったチームを5位に浮上させた。シーズン終了後に退団。、関西独立リーグの明石レッドソルジャーズに入団。よりコーチ兼任となる。同年8月19日、自身の申し出により退団し、引退することを決意。ホームページに退団コメントが掲載された。引退後、2010年9月よりスポーツDEPO学園南インター店でベースボールアドバイザーとして勤務中。
出典:wikipedia
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