森山 良二(もりやま りょうじ、1963年7月20日 - )は、福岡県北九州市出身の元プロ野球選手(投手)、プロ野球コーチ。から東北楽天ゴールデンイーグルス一軍投手コーチとしてブルペンを担当する。福岡大附属大濠高校では入学時からずば抜けた球威を誇り、3年夏のにエースとして夏の甲子園大会に出場。初戦の2回戦で函館有斗を5安打2失点に抑えて完投勝利を収めたが、3回戦で鎮西高校に敗れている。早稲田大学を目指して2年間浪人した後、北九州大学に進学した。2年秋のにはエースとして九州六大学リーグで3位に入る原動力となったが、高校時代から注目していた西武の球団管理部長・根本陸夫が接触、入団を打診されて同年で大学を中退。野球部のないONOフーヅに入社してレストランでレジ打ちなどを行ない、11月のドラフト会議では全くといっていいほどのノーマークの中で西武から単独で1位指名を受けた。担当スカウトは楠城徹で、契約金と年俸それぞれ5,000万円、480万円(いずれも推定)で入団している。打者としての素質にも定評があったが投手となり、1年目のの自主トレーニングの段階から優れた身体能力を発揮し、森祇晶監督にはバランス能力の高さを評価されている。9月10日に一軍初登板を果たすと10月13日にはプロ初先発で初勝利を挙げた。同年の日本シリーズでは第1戦でリリーフとして登板し、1イニングを1安打無失点に抑えている。2年目のは東尾修の出場停止や小野和幸の移籍もあって先発ローテーションに入り、パームボールを武器に前半戦だけで8勝を挙げてローテーションに定着した。後半戦はパームの制球に苦しんだがシーズン通算で10勝し、同年の日本シリーズでは、第4戦で最少被安打のシリーズタイ記録となる2安打完封勝利を収めて優秀選手賞を受賞した。これらの活躍が評価されて新人王を獲得し、オフには1,000万円増の年俸1,500万円(推定)で契約を更改している。しかしはひじと肩の故障から2試合のみの登板に終わり、はオープン戦で好投して先発復帰を目指したものの未勝利となった。頃から軟投派への転向を目指し、開幕直前の3月24日に清水義之との交換トレードで中村日出夫と共に横浜に移籍した。横浜では中継ぎやローテーションの谷間の先発を任され、6月6日の対中日戦で5年ぶりに先発勝利を挙げている。その後、限りで現役を引退した。古巣の西武に戻りからとから、からまで2軍投手兼トレーニングコーチ、は2軍投手コーチ、とからにかけて1軍投手(ブルペン担当)兼トレーニングコーチを務めた。2007年10月7日に球団側から来季は契約しないことを通告された。2007年でコーチの契約が終わり他球団への移籍も白紙になっていたところ、四国・九州アイランドリーグの福岡レッドワーブラーズから監督就任のオファーを受けてこれを受諾。地元での人望が厚く、かつプロでの実績がある点を評価されたという。プロ入りする選手が生まれる事を目標にからまで監督を務めて、球団がリーグ戦参加を休止したのにともない退団。に東北楽天ゴールデンイーグルスの一軍投手コーチ(ブルペン担当)に就任。最速143km/hの速球やパームボールに加え、カーブやスライダーを駆使した。また制球が良く速球が低目に決まり、マウンド度胸の良さにも定評があった。プロでは新人王を獲得するなど活躍したが故障などの苦労も経験し、高圧的にならず後輩に好かれる性格だったと言う。1988年のオープン戦で中日相手に好投した時、星野仙一監督が試合後のインタビューで「何であんなわけ分からんピッチャーに抑えられるんや」とボヤいた。この事が同年日本シリーズ第4戦の完封へと繋がった。試合中ベンチに戻る度に中日ベンチを睨み付けていたと言う。その後、2011年には、コーチを務める楽天の監督に星野が就任することになる。
出典:wikipedia
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