高木 宣宏(たかぎ のぶひろ、1963年5月20日 - )は、大阪府出身の元プロ野球選手(投手)。北陽高校時代の1981年、夏の甲子園で背番号10のリリーフ投手として出場。北陽高校はこの夏の甲子園で3回戦まで進んだが、その3試合すべて試合の前半からリリーフしマウンドに立った。3回戦での名古屋電気高・工藤公康との延長12回の投げ合いはつとに有名(12回裏、名電・中村稔=現パ・リーグ審判=にサヨナラ本塁打を打たれ2対1で惜しくも敗れる)。同年のドラフトで西武、ヤクルト、広島の3球団が指名し抽選で広島が交渉権を獲得して入団。スカウト担当は球界を代表する名スカウトのひとり木庭教で、甲子園での投球を観戦していた当時広島の監督であった古葉竹識が入れ込み、是非欲しいと木庭に指示していたという。細身の童顔であるため「坊ちゃん」というニックネームが付き、女性ファンの人気も高かった。1年目から同期ドラフト1位の津田恒実よりも先にプロ初登板を果たす。頭角を現したのは22歳になったプロ4年目の1985年、ワインドアップで全身のバネを大きく使ったフォームと度胸のいいピッチングでMAX147km/hのストレート(1985年当時)と切れのいいカーブを武器に、左腕王国の先発の一翼を担い前半戦だけで9勝を挙げ、ハーラーダービートップと防御率1位を争う大活躍。同年のオールスターゲームにも出場した。しかし夏バテからか、後半は全く勝ち星を重ねることが出来なかった。高木自身も後年のインタビューで「投げるたびに疲れがたまっていくのが分かった」と語っている。この年、阪神が21年ぶりに優勝したが、主軸打者にバースや掛布雅之といった左打者が多かったことから、左腕の高木が後半も活躍していれば、と関係者やファンは残念がった。輝いたのはこの年だけでその後は左肩痛に苦しみ、1988年春には任意引退選手となり練習生扱いとなる。9月には再度現役選手登録されるも故障が続いた。肩痛や腰痛の痛みが癒えた1990年には一軍のマウンドに戻り、中継ぎで復帰後は先発ローテーションに入り26試合に登板、防御率2.67を記録。直球のスピードは落ちたが、チェンジアップなどを交えた低め中心の投球で4年ぶりの勝ち星、5年ぶりの完封も記録し、本格復調の兆しを見せ来期への期待を抱かせたが、翌1991年キャンプイン直前に左腕を必要としていた西武のオファーで高山郁夫との交換トレードで移籍。その後は故障も再発し肘痛も併発、2軍での登板も少ないまま1度も1軍のマウンドを踏むこと無く1993年限りで引退。その後は石材会社で墓石のセールスマンや保険代理店などを営んでいた。引退後暫くはテレビの野球中継さえも観る気になれず、野球を遠ざけていた時期があったという。また、現役時代は、家計を助けるため毎月実家に仕送りを行っていた親孝行振りも有名であった。2008年10月28日、西武時代の縁で森繁和バッテリーチーフコーチから要請を受けて、中日ドラゴンズの投手コーチ就任が決定した。極めて異例な16年振りのプロ球界復帰となった。ファームの投手コーチを務めていたが、2011年に落合監督の退任に伴い退団した。現在は夢グループ野球塾でコーチをしている。
出典:wikipedia
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