中尾 孝義(なかお たかよし、1956年2月16日 - )は、兵庫県加西郡北条町(現:加西市)出身の元プロ野球選手(捕手)・コーチ・監督。愛称は「一休さん」。現在は、阪神タイガース東日本担当スカウト。滝川高では、捕手・三番として夏の甲子園県予選決勝に進出するが、東洋大姫路に惜敗し甲子園出場を逸する。2年下のチームメートに中堅手の島田芳明がいた。中尾と同学年のエース・江川卓を擁する作新学院高と練習試合をおこなった際、練習試合ということもあって江川は直球しか投げず、三振の山を築く。しかし中尾だけはファウルで何球も粘り、ついに根負けした江川がカーブを投じ、タイミングを外された中尾は三振した。この事により、中尾は「江川にカーブを投げさせた男」として同校で語り継がれた。同校卒業時の1974年、江川らと共に慶應義塾大学を受験したが、不合格となった。一浪して翌1975年にも慶應義塾大学を受験したが、再度不合格となった。結局、進路変更して専修大学へ入学する。東都大学リーグ通算97試合出場、353打数106安打、打率.300、13本塁打、59打点、ベストナイン4回選出。春季リーグでは、同期の堀田一彦や1年生の山沖之彦ら強力投手陣とバッテリーを組み、チーム25季ぶりの優勝に貢献、最高殊勲選手に選ばれた。同年の全日本大学野球選手権大会では、決勝で明大に敗れ準優勝。から2年連続で日米大学野球選手権大会日本代表に選出された。卒業後は堀田や大学受験の仲間だった堀場秀孝とともに社会人野球のプリンスホテルに入社。の都市対抗に熊谷組の補強選手として出場する。中心打者として勝ち進み、決勝では三菱重工広島と対戦。2打席連続本塁打を放つが9回に逆転され準優勝にとどまる。この大会の久慈賞を獲得した。翌にはプリンスホテルを悲願の都市対抗初出場に導くが、2回戦で新日鐵釜石に延長13回の熱戦の末に敗退した。プリンスホテルのチームメートには住友一哉、石毛宏典、金森栄治などがいる。同年のドラフト1位で中日ドラゴンズへ入団。当時は木俣達彦との正捕手争いが注目されたが、走攻守に高い能力を見せ、1年目から正捕手となる。にはリーグ優勝に貢献。突出した数字ではなかったが、シーズンMVPに選出される。「鈍足」「ずんぐり体型」という捕手のイメージを変えたと言われた。一方どんな試合展開でも手を抜かず全力でプレーした中尾は、ホームでの接触プレーも多く、故障も多かった。同時代にプレーした「無事これ名馬」を地で行く巨人の山倉和博とは対照的であった。リード面などでも評論家時代の野村克也から認められており、「あいつはセ・リーグナンバーワンの捕手」と高く評価されていた。1982年以後は故障が多くなり(1982年が最後のシーズン100試合以上出場であり、唯一の規定打席達成。)シーズンフル出場をすることが出来なかった。1984年のオールスターゲーム・ナゴヤ球場での第3戦で前出の江川とバッテリーを組み8連続奪三振をアシスト。「一休さん」という愛称は守備の際にヘルメットをかぶることからついたものだが、「(中尾は)試合を休むから、一休さんだ」と揶揄されるほどであった。に監督に就任した星野仙一は、ケガの多い中尾の捕手能力に疑問を感じ、中尾にかわって中村武志を正捕手に起用、中尾を外野手にコンバートした。しかし中尾は捕手にこだわり続け、オフに捕手の強化を目指す読売ジャイアンツが獲得を希望し、西本聖・加茂川重治との交換トレードで巨人に移籍した。、捕手に復帰した中尾は新天地で同い年で同じセ・リーグMVP経験者の山倉和博から正捕手の座を奪い、強気のリードで斎藤雅樹をエースとして一本立ちさせ、古巣・中日戦では小松辰雄をカモにするなど巨人の日本一に貢献。この1989年には20勝したトレード相手の西本とともにカムバック賞を受賞した。しかし、その後は再び故障がちで出番は減り続け、途中、大久保博元との交換トレードで西武ライオンズに移籍し、再び外野も守るようになったが目立った働きはなく、オフに現役引退。所属した3球団すべてで日本シリーズ出場を果たした。3球団からの出場は若生智男(大毎・阪神・広島)、永尾泰憲(ヤクルト・近鉄・阪神)、大宮龍男(日本ハム・中日・西武)、阿波野秀幸(近鉄・巨人・横浜)、工藤公康(西武・ダイエー・巨人)、中嶋聡(オリックス・西武・日本ハム)らと並ぶ最多タイ。このうち、大宮とは1988年に同チームで出場、阿波野とは1989年に対戦している。最後に所属した西武では伊東勤が正捕手として君臨しており、ほとんど出番はなかったが、1993年第2戦で伊東に代打が送られたため、控え捕手として出場を果たした。これが西武時代唯一の日本シリーズ出場で、この出場によって3球団からのシリーズ出場を達成できた。引退後は、西武(編成担当, - 二軍打撃兼バッテリーコーチ, は一軍バッテリーコーチ, 二軍バッテリーコーチ)、台湾プロ野球・三商(監督)、横浜ベイスターズ二軍・湘南シーレックス( - バッテリーコーチ、オリックス・ブルーウェーブ二軍・サーパス神戸→オリックス(監督兼打撃コーチ, 一軍ヘッド兼バッテリーコーチ)、阪神(二軍打撃コーチ, - 二軍バッテリーコーチ, - 編成部イースタン・リーグ担当, - 関東地区担当スカウト)で監督・コーチ・フロントを歴任中。1997年、西武コーチ時代監督の東尾修がプロ野球脱税事件で解雇された大石友好を猛プッシュでコーチに復帰させた為、二軍に再び配置転換された。オリックスコーチ時代の2003年、同年6月8日にシーズン途中で解任される。解任理由として当時の球団本部長・矢野清は「成績不振が直接の原因ではなく、ヘッドコーチとしての役割を果たしていなかった」と話した。阪神コーチ就任時にタテジマのユニフォームを初めて着た際、「憧れだった。一度、このユニフォームを着てみたかったんだ」と感激した。スカウトとしては原口文仁、岩崎優らを発掘した。
出典:wikipedia
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