小里光明(おり みつあき)は、安土桃山時代の武将。土岐氏の庶流・小里氏。美濃国小里城主、小里光忠の子。通称、助右衛門。のちに和田光明と名乗る。元亀元年(1572年)12月、兄の小里光次は織田信長に従って武田家の秋山虎繁と戦い、舅の明知城主遠山景行らともども上村合戦で討死したため、光明が家督を継ぐ。天正2年(1574年)に美濃国内の武田氏の岩村城を攻める拠点として小里城を改修し、池田恒興が城の御番手となった。なお翌年岩村城が落城するとこの工事は中止された。本能寺の変ののち、美濃国主となった織田信孝に仕えた。信孝は羽柴秀吉と不和となり、多くの東美濃の国人達が降るなか、羽柴方の金山城主森長可と対峙し、翌年に信孝が自害するまで仕えたが、森長可により小里城を落とされ、同地を離れ義兄弟の三河国足助の鈴木信義を頼り、和田姓を名乗って徳川家康に仕え三河国小原に住す。天文12年、長久手の戦いで嫡男光直が負傷しのちにこれがもとで没している。天正19年(1591年)に旗本・和田光明として相模国東郡岡田郷(現・神奈川県高座郡寒川町)に領地を宛がわれている。慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いの時、光明の子・光親は小里城に入り、遠山利景・方景父子らとともに明知城を攻めてこれを陥落させ、岩村城を開城させた。この功によって光親は同年土岐郡の一部と恵那郡の大川村と水上村の旧領3,580石を再び与えられた。しかし光親の子・光重は嗣子がないまま元和9年(1623年)に亡くなったため、小里氏は断絶した。
出典:wikipedia
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