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多気氏

多気氏(たけし)は、常陸平氏・大掾氏の惣領家に当たる氏。多気大掾家とも。通字は常陸平氏のそれである「幹」(もと)。平繁盛の息子で貞盛の養子となった維幹が、常陸国筑波郡多気にて多気権大夫と称したのに始まる。維幹の孫・重幹の息子の代に常陸平氏の諸氏が形成される。多気の姓は長男の致幹が継承するが、実際に多気の地に定着したのは致幹の時代であったと考えられ、彼が実質的な多気氏の祖であるとする見方がある。致幹は『後三年合戦記』等で「多気権守宗基」という名で登場する。致幹の娘は河内源氏の源頼義と一夜を共にし、娘を儲けたとされる。彼女は出羽清原氏の家督を継いだ成衡の妻になるが、その婚姻の席が切っ掛けで後三年の役が勃発したことは有名である。致幹の嫡子・直幹は房総平氏の千葉介常胤の娘と結婚して、多気義幹、下妻弘幹、東条忠幹、真壁長幹を儲けている。1180年に源頼朝が挙兵すると、多気氏を始めとする常陸平氏の諸氏は同族の越後平氏や姻戚関係のあった佐竹氏と共に敵対する構えを見せた。しかし、佐竹征伐以降は頼朝に帰順した。鎌倉幕府成立後、建久4年5月の富士の巻狩の直後にあたる同6月に義幹は八田知家の讒言に拠り失脚し(『吾妻鏡』)、常陸平氏の惣領家・大掾氏の座は同族の吉田氏の分家である馬場資幹が継承する(この一門を馬場大掾家と呼ぶ)。他方、下妻、東條(東条)、真壁の分家は佐竹氏の家臣として存続した。なお、近年の研究では馬場資幹が世襲による常陸大掾氏の祖であり、それ以前の常陸平氏が大掾の地位を継承したとする事実はなく(常陸国府が出した文書に当然あるべき大掾の署判が資幹以前には確認できない)、更に常陸平氏そのものが12世紀の段階で一旦解体されており(常陸平氏の再建は鎌倉幕府の成立頃でそれ以前に惣領は存在しなかった)、この時期の多気氏は常陸平氏系の武士では最有力な家ではあったものの、常陸平氏の惣領でも大掾の地位にあった訳でもないとされている。この考え方に従えば、常陸大掾に任じられたことが無い致幹以降の多気氏を「多気大掾家」と呼ぶことは正しくはないということになる。 平国香

出典:wikipedia

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