阿児町鵜方(あごちょううがた)は、三重県志摩市の地名。郵便番号は〒517-0501、市外局番は0599、市内局番は43、44、46である。住民基本台帳による2016年5月31日現在の人口は9,292人で、志摩市内では最多である。志摩市の中心街を成し、市の政治、経済、文化など幅広く影響を与えている。面積は14.55kmである。地形的には志摩丘陵の南、鵜方盆地の中央部にある。英虞湾の最も奥部は鵜方浦と呼ばれ、南岸がそれに面している。鵜方中心街には、最大5mの津波による浸水の被害が懸念されている。北は磯部町穴川・磯部町坂崎、東は阿児町国府(こう)、南は阿児町神明、西は浜島町迫子(はざこ)と接する。公立の小・中学校に通学する場合、阿児町鵜方全域が、地区内にある鵜方小学校・文岡中学校の学区となる。鵜方では多数の先史時代の遺跡が発見されている。縄文時代のものは小字かんの畑や松本(松本遺跡)、弥生時代のものは小字金谷、古墳時代のものは小字福河原といった具合である。「鵜方」の地名の初出は、治承5年2月(ユリウス暦1181年2月頃)の『皇太神宮神主牒案』で、伊勢神宮の御厨であった「鵜方御厨」に熊野山逆賊等が乱入して資財を奪取したとある。同史料によると、神宮に侵入し追討されたが、後に伊勢志摩近隣の村々を襲撃したという。時代は下って中世には小字屋敷垣内(やしきがいと)に鵜方 縫殿之介(森 縫殿之介)を城主とする鵜方城(鵜方砦とも称す)が築かれた。跡地は1975年(昭和50年)に整地され、志摩市立鵜方小学校および宅地になっている。永禄年間(1558年 - 1570年)には九鬼氏の領地に変わり、その後文禄の役で武功を挙げた越賀村(現在の志摩市志摩町越賀)の越賀隆政の領地となる。江戸時代には鵜方村として英虞郡鵜方組に属し、鳥羽藩の配下にあった。天和元年(1681年)の『御公儀差出目録控』によれば、領主に献上したものには糠・藁・柿渋・マテ貝などがあり、半農半漁の村であったことが分かる。当時の鵜方村は西の尾・中の尾・庵の尾・大矢村・東村の5つの村落からなっていた。鵜方の語源から推測されるように、水鳥が多数取れたようで、山田(現在の伊勢市)の商人に売ったと記されている。しかし、18世紀には新田開発の影響で水鳥があまり取れなくなったようである江戸時代から明治時代の中期頃まで、前川では石灰船や樽肥船が英虞湾から遡上してきていた。明治時代になると隣接する神明浦村(しめのうらむら)と合併して鵜方村となるが、8年後の1897年(明治30年)に神明浦が神明村(しんめいむら)として独立したため鵜方単独の村となり、1951年(昭和26年)に鵜方町に昇格する。鵜方は英虞湾沿岸町村の物資集散地として機能するようになり、次第に志摩郡南部の中心として発展していくこととなる。鵜方に集まる物資の代表的なものに沿岸町村から集められた肥料の「鵜方荷」がある。1929年(昭和4年)7月23日の鵜方駅開業(当時の運営者は志摩電気鉄道)も追い風となり、鵜方駅の北口に道路が建設され、商店街が誕生した。ただし駅の南側は水田の広がるのどかな風景が広がっており、町の規模や活気は浜島や和具に劣っていた。その後、2度の合併を経て志摩市の1大字となる。1948年(昭和23年)に三重県鵜方高等学校が創立されるも1955年(昭和30年)に三重県立志摩高等学校に統合され、廃校になっている。1950年代から観光客が増加し始め鵜方駅の利用者も増えた。1956年(昭和31年)、前川河口に樋門が完成し水田の塩害が防止されることとなった一方で、完全に舟運が不可能になった。1965年(昭和40年)には前川で護岸工事と浚渫(しゅんせつ)が行われた。1960年代から鵜方駅北側の混雑対策として南側の開発が行われることとなり、1966年(昭和41年)には鵜方駅前土地区画整理事業が完工、志摩の中心としての基盤が整った。開発されたのは、江戸時代の元禄年間(1688年〜1703年)に干潟を埋め立てて開いた新田(前田沖と呼ばれる)であった。約6haの水田が埋め立てられ、東西300mに及ぶ近代的なビル街が出現した。国道も鵜方駅の南側に通された。1970年(昭和45年)には近鉄特急が名古屋・大阪方面から直接乗り入れるようになり、鵜方駅を利用する観光客とサーファーが増加した。さらに1990年(平成2年)5月22日に小向土地区画整理事業が認可を受け、前川沿いの水田を30.6haを埋め立てて1996年(平成8年)12月に700戸分が造成された。1980年(昭和55年)7月17日、鵜方駅前に私立の志摩民俗資料館が開館した。しかし開館から数年で閉館が取り沙汰されるほど経営は厳しく、1998年(平成10年)1月31日に閉館した。2000年代以降、郊外型ショッピングセンターの進出や旅行者の自家用自動車利用の増加により、鵜方駅前は空き店舗が目立つようになっている。諸説ある。鵜方は農村から徐々に開発が進み、1965年(昭和35年)に約5,600人、1975年(昭和45年)に約6,300人、1985年(昭和55年)に約7,550人と順調に人口を伸ばしている。総数 [戸数または世帯数: 、人口: ]しょいめし(しょい飯)とは「しょうゆ飯」の縮まった名前であり、炊き上がったご飯に醤油をかけ、煮込んだ鶏肉・ニンジン・ちくわなどの具材を加え混ぜて作る、混ぜご飯である。なお、具材は鶏肉が主であるが、必ずしも鶏肉である必要はなく、カキやウナギ、シーチキンなどを用いることがある。しょいめしは、法事や誕生日祝い、祭りなどの際に調理されることが多い。また各家庭で味や作り方に違いがある。滋賀県高島市新旭地域にも同名の郷土料理があるが、こちらは醤油やだしで煮込んだ具材を米と一緒に炊き上げるなど、鵜方のしょいめしとは異なる。アンピンは、湯で煮た餅で器に入れた小豆あんを挟むようにして食べる、雑煮の一種である。小豆入りの雑煮は出雲地方から中国地方・新潟県まで広がり、デザートとして喜ばれたといわれ、ぜんざいは正月の特別な食べ物であったが、鵜方のアンピンは起源が不明である。アンピンは鵜方独自の料理であるが、近隣では鳥羽市で小豆入りの雑煮を食べる習慣がある。鵜方駅は市内交通の拠点となっている。
出典:wikipedia
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