ピーター・ファーディナンド・ドラッカー(Peter Ferdinand Drucker、ドイツ語名:ペーター・フェルディナント・ドルッカー 、1909年11月19日 - 2005年11月11日)は、オーストリア・ウィーン生まれのユダヤ系オーストリア人経営学者。「現代経営学」あるいは「マネジメント」(management) の発明者。他人からは未来学者(フューチャリスト)と呼ばれたこともあったが、自分では「社会生態学者」を名乗った。父・アドルフ・ドルッカー(ウィーン大学教授)と母・ボンディの間の子で、義理の叔父に公法学者・国際法学者のハンス・ケルゼン(母方の叔母・マルガレーテ・ボンディの夫)がいる。ドラッカーの自著によれば、父親はフリーメイソンのグランド・マスターだった。ウィーンで裕福なドイツ系ユダヤ人の家庭に生まれる。1917年に両親の紹介で、同じユダヤ人の精神科医ジークムント・フロイトに会う。1929年、ドイツ・フランクフルト・アム・マインの『フランクフルター・ゲネラル・アンツァイガー』紙の記者になる。1931年にフランクフルト大学にて法学博士号を取得。このころ、国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)のアドルフ・ヒトラーやヨーゼフ・ゲッベルスからたびたびインタビューが許可された。1933年、自ら発表した論文がユダヤ人を嫌うナチ党の怒りを買うことを確信し、退職して急遽ウィーンに戻り、イギリスのロンドンに移住。ジョン・メイナード・ケインズの講義を直接受ける傍ら、イギリスの投資銀行に勤める。1937年、同じドイツ系ユダヤ人のドリス・シュミットと結婚、1939年、アメリカ合衆国に移住し、処女作『経済人の終わり』を上梓。1942年にバーモント州ベニントンのベニントン大学教授となった。1943年にアメリカ合衆国国籍を取得。1950年から1971年までの約20年間、ニューヨーク大学(現在のスターン経営大学院)の教授を務めた。1959年に初来日し、以降たびたび来日。日本古美術のコレクションを始める(後述)。1966年には「産業経営の近代化および日米親善への寄与」が認められ勲三等瑞宝章を受勲。1971年にカリフォルニア州クレアモントのクレアモント大学院大学教授となり、以後2003年まで務める。1979年に自伝『傍観者の時代』を、1982年には初めての小説『最後の四重奏』を著す。2002年、アメリカ政府から大統領自由勲章を授与される。2005年にクレアモントの自宅にて老衰のため死去。。ユダヤ系だったドラッカーは、ナチスの勃興に直面し、古い19世紀的ヨーロッパ社会の原理が崩壊するのを目撃し、危険を悟りイギリスを経てアメリカに家族とともに逃れた。そこで彼が目にしたのは20世紀の新しい社会原理として登場した組織、巨大企業だった。彼はその社会的使命を解明すべく、研究対象となるアメリカ大企業に協力を呼び掛けていた。その中で「ゼネラルモーターズ」が、彼に声をかけた。彼は「同社の経営方針、経営組織を社外の立場から研究報告するように依頼された」。彼は、この依頼によって報酬の支払いを受ける一方で彼自身の研究をすることを許された。そして書かれたのが『会社の概念|en|Concept of the Corporation}}』(1946年)だった。それは、当時の副社長だったが、『産業人の未来』(原題:"The Future of Industrial Man")を読み、それに触発されてドラッカーに声をかけたことが発端である。『会社の概念』は政治学者ドラッカーの立場で書かれたもので、のちの一連のマネジメント書とは違うものである。フォード再建の教科書として使われたといわれているが、それは本人の意図した結果ではなかった。彼は「分権化」などの多くの重要な経営コンセプトを考案したが、その興味・関心は企業の世界にとどまることを知らず、社会一般の動向にまで及んだ。「民営化」や「知識労働者」は彼の造語で、後に世界中に広まる。特に非営利企業の経営には大きなエネルギーを費やした。1990年には、『非営利組織の経営』(原題:"Managing the Nonprofit Organization: Principles and Practices")を著している。またフレデリック・テイラーの『科学的管理法』やアブラハム・マズローの『欲求の5段階説』、にも多大な影響を受けた。彼の著作には大きく分けて組織のマネジメントを取り上げたものと、社会や政治などを取り上げたものがある。本人によれば彼のもっとも基本的な関心は「人を幸福にすること」にあった。そのためには個人としての人間と社会(組織)の中の人間のどちらかのアプローチをする必要があるが、ドラッカー自身が選択したのは後者だった。ドラッカーは著書『マネジメント』で、従来の全体主義的な組織の手法を改め、自律した組織を論じ、前書きにおいて「成果をあげる責任あるマネジメントこそ全体主義に代わるものであり、われわれを全体主義から守る唯一の手立てである」と述べている。また、著書の『すでに起こった未来』(原題:"The Ecological Vision")では、みずからを生物環境を研究する自然生態学者とは異なり人間によってつくられた人間環境に関心を持つ「社会生態学者」と規定している。ドラッカーの思想は、組織や企業経営の分野にとどまらず、個人のプロフェッショナル成長の分野にも及んでいた。いわゆるナレッジワーカーが21世紀のビジネス環境で生き残り、成功するためには、「自己の長所(強み)」や「自分がいつ変化すべきか」を知ること、そして、「自分が成長できない環境から迅速に抜け出すこと」を勧めていた。新しい挑戦こそが、プロフェッショナルの成功に貢献すると主張していた。ドラッカーの著書の日本での売り上げはダイヤモンド社刊行分だけで累計400万部余り(ドラッカー博士を悼んで)。『産業人の未来』『傍観者の時代』などによると、エドマンド・バークの保守思想の影響があるとされる。大学入試のために書いた論文「パナマ運河と世界貿易におけるその役割」がオーストリアの経済誌の目にとまり、その編集部から招待され編集会議に参加する。そこで、当時の副編集長で後の経済人類学者カール・ポランニーと出会い、以後長い交友関係を結ぶ。ドラッカーの記述によれば、アメリカのベニントン大学の教授職をポランニーに紹介し、彼の『大転換』執筆のきっかけともなったとあるが、後の検証によればその記述は誇張や誤りだらけであり信憑性に欠ける。二大政党制を高評価し、多党制に否定的である。岩崎夏海の小説『もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら』(通称『もしドラ』)は、高校の野球部の女子マネージャーが、偶然に入手したドラッカーの『マネジメント』の内容を、部の改革に活かす内容で、日本でのドラッカーのブームに一役買った。その著書が2010年3月17日放送のNHKクローズアップ現代『よみがえる“経営の神様”ドラッカー』(出演:上田惇生、糸井重里)で紹介された時に、ドラッカーブームに火がついた。NHK総合テレビジョンでアニメ化(2011年4月)、映画化(同年6月)もされている。コピアポ鉱山落盤事故に遭遇した作業員たちのリーダーであるルイス・アルベルト・ウルスアは、ドラッカーの愛読者である。ドラッカーには、日本の古美術コレクターとしての側面もあり、自身により「山荘コレクション」と名付けられている。ドラッカーと日本美術との出会いは、1934年(1933年説もある)6月ロンドンのバーリアントン・アーケードで催されていたロイヤル・アカデミー会員の夏季展示会に行こうとして迷い込んだ、日本政府主催の日本美術展覧会を見た経験による。その後、第二次大戦ワシントンに滞在すると、国外有数の日本美術コレクションがあるフリーア美術館で昼休みを過ごした。この時ドラッカーは書庫の一隅を与えられ、資料写真から選んだ数点の絵画をそこで見ることを許された。そんなある日、学芸員から「いつも日本の絵画、特に室町水墨画を請求されているのに気がついていましたか」と語りかけられ、ドラッカーはこの時初めて自分の好みを理解したという。こうして日本美術を勉強したドラッカーは1959年に初来日し、式部輝忠の扇面画と清原雪信の芙蓉図を購入、これらが最初のコレクションとなった。コレクションは室町水墨画と、近世の禅画や南画が主で、特に南画はコレクションの3分の1を占める。逆に国外のコレクターに人気が高い浮世絵は、肉筆浮世絵を含めて全くない。室町水墨画には、日本国内の美術館やコレクターでも所蔵していない遺品が極めて少ない画家や、伝記が殆ど知られていない画家が何人もおり、コレクションの特筆すべき特徴と言える。人から「コレクションを作るために、最も大切なことは何か」と問われると、「良い先生を見つけること」だと言う。ドラッカーは自身の先生として、日本有数の古美術商だった瀬津伊之助や藪本宗四郎や、美術史家の田中一松や松下隆章、島田修二郎、ジョン・マックス・ローゼンフィールドらを挙げている。
出典:wikipedia
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