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桜田元親

桜田 元親(さくらだ もとちか)は、安土桃山時代から江戸時代初期の武将。伊達氏の家臣。天正17年(1589年)、伊達政宗に従って摺上原の戦いで戦う。慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いでは政宗の命により刈田郡白石城攻めに参加して武功を挙げた。慶長7年(1602年)、仙台城の築城に伴って賦役している百姓らが暴動を起こしたことがあったが、鬼庭綱元とともにこれを鎮圧した。元和元年(1615年)、政宗の命を受けてその庶長子である伊達秀宗の家臣となり、伊予宇和島藩の藩政を担った。この時の地位は侍大将で禄高は1900石であった。宇和島藩は秀宗入部まで頻繁に藩主が代わったために荒れており、藩政は前途多難だった。そのため政宗の仙台藩から黄金3万両(6万両説あり)を借用していたが、この返済問題が起こり、惣奉行の山家公頼は宇和島藩10万石から3万石を割いて政宗への返済に充てたが、このため家臣の多くが減俸を余儀なくされて反対派が桜田を中心にして山家と対立した。もともと山家は山形藩最上氏の家臣で、伊達家譜代の桜田とは折り合いも悪かった。元和6年(1620年)1月、幕府から大坂城石垣修築を命じられた秀宗は山家と桜田を奉行として派遣する。しかし工事の進捗状況に関しての秀宗に対する報告で桜田は秀宗に山家が不正をしていると讒言し、疑われた山家は秀宗に弁明して帰国し謹慎した(実際は山家が正当であり、面目を失った桜田が逆恨みしたとされる)。そして同年6月29日、山家清兵衛一族は桜田一派により襲撃されて殺害された。この殺害事件に関しては秀宗から「山家の事は沙汰の限り」と書状にあり、秀宗の命令で桜田と一派が動いたと見られている。通常、私怨による暗殺ならば桜田家も断絶は免れないはずだが、桜田家は無事に安泰で存続し、江戸時代末期まで家老として存続しているからである。また、桜田は事件当時に大坂に滞在していたため、少なくとも直接手を下したとは思えない。山家が死んで宇和島藩の最有力家臣になった桜田だったが、栄華は長く続かなかった。寛永9年(1632年)、桂林院殿(秀宗の正室の亀)の3回忌法要の時、大風が吹いて金剛山正眼院の本堂の梁が落ちた事により、桜田は圧死した。桜田の死後、山家殺害事件の関係者らが次々と変死を遂げたため、これは山家の祟りと言われた。

出典:wikipedia

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