『仁義なき戦い』(じんぎなきたたかい)は、日本のドキュメンタリー。作者は飯干晃一。本作は戦後の広島県で実際に起こった広島抗争を、当事者の1人である美能幸三の手記に飯干が解説を加えた作品。映画化されたシリーズは実在の人物でなく、登場人物の名を変えて脚本家の笠原和夫が脚色しているが、広島抗争を題材にした内容はそのままで全5作が製作され、日本で大ヒットした。演劇にもなっている。キネマ旬報が2009年(平成21年)に実施した<日本映画史上ベストテン>「オールタイム・ベスト映画遺産200 (日本映画編)」では、本作を歴代第5位に選出した。美能幸三が獄中で書き綴った手記をベースに、飯干晃一が1972年(昭和47年)「週刊サンケイ」5月26日号から連載したノンフィクション。原作は半分近くを美能の手記を引用しており、週刊文春は"実録小説"と称しているが、戦後の実際に起こった広島抗争で、当事者の1人である美能の手記をベースに、飯干が補筆し当時の状況を解説した内容が掲載されており、出版し続けている会社もドキュメントとして本書を紹介している。団体・人名・地名も全て実名で載っており、手記と解説が一対になり、事件や行事ごと、広島抗争が時系列に沿って進む。「週刊サンケイ」で連載が開始されると圧倒的な人気で、印刷所ではゲラの奪い合いになったという。獄中手記を美能幸三が執筆した原動力は、1965年(昭和40年)に中国新聞報道部記者である今中瓦が『文藝春秋』四月号に執筆した「暴力と戦った中国新聞 ― 菊池寛賞に輝く新聞記者魂 "勝利の記録"」という記事への反論からであった。網走刑務所で服役中だった美能が、たまたま雑誌でこの記事を見つけた。なつかしくて飛びついて読んだというが、読むと10日間メシが食えない程腹が立った。ケンカの張本人が自分と決めつけられている上、身に覚えのないことまで書かれている。"美能が他の組幹部の意向を無視して山口組と勝手に盃を交わした"、"破門された美能が山口組と打越会に助けを求めた"という記述など。特に美能は "打越会に助けを求めた"という部分にプライドを傷つけられた。「助けを求めたなどと書かれては、ヤクザとして生きていく以上、黙ってはいられない。ウソを書かれて悔しい」と翌日から舎房の机にかじり付いた美能は、こみ上げてくる怒りを抑えながら、マスコミに対する怨念を込め、7年間にわたり総計700枚の手記を書き上げた。手記は汚名返上の執念が書かせたものであった。このため廻りまわって「週刊サンケイ」から連載が決定した時、"登場人物を全て実名で掲載すること" を連載の条件に付けた。実名を出せばトラブルになることは分かっていたが、あくまで名誉回復のためなので「実名でなければ断る」と頑なであったという。「週刊サンケイ」の矢村隆編集部次長が、掲載許可を取り付けるため、美能と会ったのは、1971年の秋、東京のホテル。手記には所々『幸三、お前の意志が弱いからだ』といったような注釈が書き込まれていた。美能が母親に読んでもらった時のもので、それから考えても美能は無関係の第三者に読ませるつもりはなかったが、五度目の交渉で首を縦に振った。この時の条件が前記の登場人物の実名掲載であった。「『中国新聞』も『文藝春秋』もみんな実名で書いている」というもので、矢村が編集長と相談し、条件を飲んで正式に打診した。現在とは社会背景も大きく違うとはいえ、当時『仁義なき戦い』が実名のまま世に出たことは、まさに驚愕に値する。「週刊サンケイ」の担当者は、数多くの恫喝をヤクザから受けたといわれる。なお前記、「中国新聞」の記事は、広島抗争時に「中国新聞」が「暴力追放キャンペーン」と銘打ち、ペンの力で暴力団に立ち向かった成果を『ある勇気の記録』として出版。これは1965年(昭和40年)亀井勝一郎や大宅壮一らと並んで第13回菊池寛賞を受賞、また同名タイトルでテレビドラマ(NET、1966年10月〜1967年1月)にもなり、これを見てジャーナリストを志した者も多い(池上彰等)と言われる名作だが今日『仁義なき戦い』の原作・映画に比べると比較にならないほど知名度が低い。また『仁義なき戦い』の映画化にあたり「ある勇気の記録」のテレビ化と同様に、暴力団追放のキャンペーンにもなると考えていた広島県警が当初、協力をしてくれたという話がある。1973年(昭和48年)1月13日に東映配給網により正月映画第2弾として公開されたヤクザ映画。監督深作欣二。シリーズを通しての主演は菅原文太。製作は東映京都撮影所(以下、京撮)。公開時の併映は『女番長 スケバン』。シネマスコープ。99分。やくざ同士の抗争を題材にしながら仲間を裏切り、裏切られることでしか生きられない若者たちが描かれている。この映画が登場するまでのヤクザ映画の多くはいわゆる、チョンマゲを取った時代劇と言われる虚構性の強い仁侠映画であり、義理人情に厚く正しい任侠道を歩むヒーローが描かれていた。1969年(昭和44年)から始まる菅原文太主演の『現代やくざ』シリーズで既にヤクザを美化した従来の任侠映画の常識を覆す現実的なワルを主人公にしたが、本作では様式美をまったく無視して、殺伐とした暴力描写を展開させた点、ヤクザを現実的に暴力団としてとらえた点、手記→実話小説→脚本→映画という道筋、実在のヤクザの抗争を実録路線として、リアリティを表現させたところ等が新しい。本作は実録物の先駆けとなった。登場するヤクザの大半は金にがめつく、弱者に強い社会悪としての姿が大いに描かれており、仁侠映画のようにヤクザを美化することはない。一時英雄的に表現されるキャラクターも最後には無残に殺される場面が多い。本作はヤクザを主人公にはしているが、優れた群集活劇でもあり、暗黒社会の一戦後史でもあり、青春映画であり、自己啓発としての側面もある。基本的に娯楽映画/エンターテイメントであるため、登場人物に感情移入させるためにもヤクザを魅力的な存在であるかのように描いており、犯罪者を美化するのかという批判もつきまとうことになる。シリーズ全作の冒頭や中間部などで印象的に使われる“やくざ映画中のナレーション”という手法は、笠原が1968年(昭和43年)の『博奕打ち 総長賭博』で、初めてシナリオの段階から導入したもので、「アル・カポネは19××年……」のナレーターから始まる『』を真似たという。敗戦直後の広島県呉市。闇市の食堂でレコードを聞いていた広能昌三のもとへ、友人が怪我をして駆け込んでくる。刀を振り回している暴漢に襲われたと言い、山守組へ連絡を頼まれた広能は事務所におもむき大勢で現場にかけつける。そこで広能は暴漢を射殺するが、逮捕され刑務所に収監される。そこで土居組若衆頭の若杉寛と知り合い義兄弟になる。まもなく保釈され山守組組員になったが、市議選に絡んで土居組と山守組は敵対するようになる。自ら土居組組長暗殺を引き受け成功させるが、逮捕され刑務所で服役する。その間、呉では土居組は壊滅し山守組は大組織になるが、若衆頭の坂井鉄也一派と幹部の新開宇市一派が対立し衝突する。新開宇市一派が壊滅し坂井鉄也一派が勝利するが、そこへ講和条約の恩赦で仮釈放された広能昌三が戻ってくる。さっそく組長の山守義雄が接近し、反逆の意を表す坂井鉄也暗殺を頼み込む。しかし偶然出会った坂井にそれを知らせ和解を説くが、坂井はその夜自分を亡き者にしようとした山守宅に乗り込み引退を迫る。そして反対派の幹部の矢野修司も暗殺する。それを広能は旅先で槙原政吉から電話で知らされ呼び出されるがそこには山守がいた。責められ再び協力を迫られるが両方を非難して縁を切る。しかし、けじめをつけるために単身、坂井の元へ乗り込むが待ちかまえていた子分たちに取り押さえられてしまう。車に乗せられ本心では弱気になっている坂井の告白を聞き解放されるが、その後坂井は殺されてしまった。広能は大規模な坂井の葬儀に平服姿で式場を訪れるが、敵対した山守たちによって営まれていることへの坂井の無念さを代弁するかのように、銃を供物に向かって乱射する。もともとは闇市の土建屋だったが若者たちを集めて博徒「山守組」となる。土居組壊滅後、呉の覇権を握り大組織となるが統制がとれず内部抗争がおきる。※ ナレーター…小池朝雄映画化されるまでの経緯は諸説あり、すでに故人となった当事者も多く、真相は不明である。広島県呉市美能組の元組長・美能幸三が1970年(昭和45年)9月、網走刑務所から出所。再会した美能の知人が獄中で書いた手記の存在を知り、手記を美能から預かりいくつかの出版社に持ち込む。これが編集者から編集者へ渡った後、「週刊サンケイ」が「これは面白いから是非連載をやらせて欲しい」ということになり「週刊サンケイ」は、その解説者として飯干晃一を選定することになった。なぜ飯干だったのかというと「週刊サンケイ」は手記を入手した時点で、既に岡田茂東映社長(当時)に映画化の話を打診しており、ゲラ刷りの内容を岡田は持っていた。岡田は著書で「『週刊サンケイ』の小野田政編集長がおもしろい獄中記があると美能の獄中記を持ち込んできた」、立松和平とのインタビューでは「ある日『週刊サンケイ』の編集長が『岡ちゃん、いい素材が入ったぞ。ともかく来いよ』と電話してきたんです。さっそく編集部へ行って『どんな素材だ?』と聞いたら『仁義なき戦い』だった。いいタイトルだ。編集長は「こんどうちの雑誌で連載する。飯干晃一に書かせようと思っている。美能幸三が書いた手記はこれだ』と分厚い原稿を見せてくれたんだ。『これは面白い。のった。ぜひ映画化したいから頼む』といいました。それから脚本を笠原に頼んだ。笠原は、脚本家にしては珍しく実証派のシナリオライター。広島へ行って徹底的に調べました。おかげで私もずいぶん迷惑したんです。親分のところに行って『あんたら、帰れないぞ』と脅されるぐらい笠原は調べまわり『これは絶対自信ある。面白いのが書ける』といって書き上げた。ところが、いよいよ監督を決めようという段になったら、笠原が『深作なら私を下ろしてくれ』という。『なんでだ?』ときいたら『あいつはすぐ本を直すんだ。これは俺の一生をかけた自信作だから直されるのはいやだ。顔も見たくねえ』というんです。深作を呼んで『この本、おまえ読んでみろ』とぽんと渡しました。読んだ深作は『ぜひやらしてください』といいました。『おまえは直すから嫌だと笠原がいってんだ』と、と今度は笠原を呼んで『絶対直さんといってるがどうだ』といったら、深作は『直しません』『それじゃ、しょうがない』と一杯飲んで手打ちをやらせたことを昨日のように覚えています。なぜ深作かというと、こういうものを撮るのは、任侠物を撮りつけた監督では難しいと思ったんだ。その頃、深作が監督して当たったためしがなかった。実録、実証的な映画のほうがいいと思ったんです。(中略)深作には力がある。それは見抜いておった。深作が『仁義なき戦い』に飛びついたからやろうとなった」などと話している。岡田は映画化に興味を示すが、手記をそのまま映画化した場合、多々、困難な問題が生じてしまう。そこで、岡田が「週刊サンケイ」に出したのが原作者を立てるという提案だった。そして、このプランにふさわしい人物として東映と「週刊サンケイ」が選んだのが、飯干晃一だったのである。美能の手記が直接掲載されなかったのはこうした理由から。「週刊サンケイ」での連載が始まる前に、同誌編集部から岡田に映画化の打診があったことは、高岩淡の著書にも書かれている。『仁義なき戦い』が世に出ることによって噴出する誤解や非難は、すべて最終的には美能に被せることができる。このドキュメントに於ける原作者・飯干は単なるアンカーで、文責を負うことはない。飯干は「美能さんが獄中で何かを書いたということは、検察庁のある検事から聞いて知っていた。僕らはそれを"幻の文書"と呼んでいたが、あっちこっち捜し歩いたが発掘できなかったんです。見せられたときはこりゃ凄い。大変なものが出てきたなと思いました」と話している。美能幸三という告白者ーたとえそれが一方的な視点であっても、我々は彼のおかげでヤクザの本当の壮絶さを知ることができた。これだと映画化は既定路線ということになるが、これ以前1971年春、或いは1971年(昭和46年)暮、京撮の日下部五郎と笠原和夫が飯干の長編2作目「やくざ対Gメン」(1973年夏映画化)の映画化権取得交渉のため飯干の自宅を訪問時に、飯干から美能の手記を見せられて当時の日下部は俊藤浩滋プロデューサーの下にいたが、映画化に意欲を燃やしたという説もある。日下部は飯干にその場で映画化権を申し出たと話している。矢村隆「週刊サンケイ」編集部次長(当時)の証言では、飯干は手記の入手と同時に、日下部に相談したと証言している。また飯干が手記を見たのは「週刊サンケイ」が美能と5回の掲載交渉した後、「週刊サンケイ」を通じてと証言しているため、1971年(昭和46年)秋以降ということになり日下部は上層部に映画化を聞いたところ、岡田社長から「絶対にやれ」と檄を飛ばされ、すぐに呉の美能に会いに行ったと証言している。岡田は1971年、担がれて社長に就任するが、この数年の間、興収の低迷や社長の世襲問題に端を発する大川家と組合の激しい対立など問題が噴出、旧体制派との確執に直面していた。特に自身が手掛けた"任侠映画路線"がマンネリ化し、その刷新が緊急の課題であったが、1972年公開された『ゴッドファーザー』が大ヒットし、"マフィア映画ブーム"が到来すると、岡田はこのマフィア映画的世界観を邦画で再現できないかと思案していた。広島出身の岡田は広島抗争についてよく知っていて、前述の「ある勇気の記録」を過去に映画化しようとしたこともあった。岡田は『キネマ旬報』1972年9月号で「事実を避けて通らず、克明に描いたところに大衆を引きつける魅力がある。便乗企画といわれればそれまでだが、東映でも日本版マフィア映画を作るべきだ」と話しており、実録路線への転換を構想していた。実録路線への転換は、即ち俊藤浩滋の推し進めてきた任侠映画の否定、及び終了を意味する。全国直営感の館主も新しい路線の転換を支持した。岡田の側近・渡邊達人は岡田に不良性感度路線から善良性への転換を進言したが、岡田は実録路線へ舵を切る。岡田がいなければ、一連の「実録やくざ映画」は製作できなかった、と笠原和夫や高岩淡、日下部五朗ら、多くの関係者が話している。岡田と俊藤の間には当時路線変更を巡る確執があり、『仁義なき戦い』が大ヒットしたことで、後ろに館主が付く岡田茂―高岩淡―日下部五朗のラインが強くなって俊藤は二作目以降は本シリーズから外れる。俊藤は一作目の撮影の途中から顔を出さなくなったという。実際に東映と映画化の契約を結んだのは原作者の飯干で、美能は飯干から全く相談を受けなかった。しかし映画化にあたって契約はなくても、承認は必要だろうということで、最初に俊藤が美能の元を訪ねた。美能は「『週刊サンケイ』ですべて終わらせたい」と断ったため、もう俊藤は行かなかった。しかし高岩淡と京都撮影所の畑利明が再び訪ねてきて「どうしても映画にさせてくれ」と何日も泊まり込みで執拗に頼むので、美能は根負けして映画化を承知したという。俊藤浩滋・藤純子・菅原文太・若山富三郎・鶴田浩二が対談したテレビ番組『すばらしき仲間』「任侠」(1982年10月24日放送)では、菅原が「京都へ撮影で行くとき、自身が週刊誌の表紙に初めてなった『週刊サンケイ』(1972年5月26日号)を東京駅の売店で喜んで買ったら、それに『仁義なき戦い』の連載第1回が載っていた。とても面白いので京都の岡田社長を尋ねて『これをやらせてくれ』と直談判したが、岡田は麻雀中で『そこ置いとけ』と、まともに相手してもらえなかった」と話した。この菅原の話に俊藤は「それは遅い。オレは東京に行くおり『週刊サンケイ』を買って『仁義なき戦い』を読んだら凄く面白くてもう抑えた」と話した。俊藤が「週刊サンケイ」の連載を見て「仁義なき戦い」を知ったということであれば、「週刊サンケイ」の連載開始は1972年(昭和47年)5月なので、俊藤が「仁義なき戦い」を知った時期がかなり遅い。菅原は2013年『週刊朝日』の林真理子との対談で、「『週刊サンケイ』を東京駅の売店で買った」までは『すばらしき仲間』での話と同じなのだが、その後、岡田社長ではなく、すぐに俊藤のところに行って原作を渡し「絶対読んで下さいと念を押し、翌日、俊藤が『あれ、おもしろいな』というので、菅原が『おもしろいじゃなくておれにやらせて下さい』と頼み、俊藤が日下部五朗をすぐに呼んで、日下部に『おい、この原作取らんかあ』と命じて、日下部が『わかりました』と言い、そこからスタートとした」「いろんな説が飛びかっていて、『俺がやった』というのが3人も4人もいるんだけど、本人が言うんだから間違いない」などと主張している。菅原が2014年11月に亡くなった際に『仁義なき戦い』が菅原の持ち込み企画のような報道が多数なされたが、前述の『すばらしき仲間』での、菅原と俊藤のやりとりでは、俊藤から"菅原からの映画化の話は聞いてない"と言われている上、31年も経って持ち込んだ相手も記憶がごちゃ混ぜになっており、菅原からの企画持ち込み説は誤りである。前述のように岡田社長は著書や立松和平とのインタビューで「『週刊サンケイ』の小野田政編集長が美能の獄中記を持ち込んできて、すぐ映画化を頼んだ」、矢村隆「週刊サンケイ」編集部次長(当時)は、飯干は美能の手記の入手(1971年暮)と同時に、日下部に相談したと証言しており、菅原が「週刊サンケイ」の連載を読んで会社に企画を持ち込んだという話は遅過ぎる。根本的に当初予定されていた主演は渡哲也であり、代役の、それもまだ実績のない菅原が会社に企画を持ち込んだからといって映画化が決まるような題材ではないのではないかと思われる。菅原は先の『週刊朝日』の対談で他に「そのあと3日ぐらいして、東宝が映画化の権利を取りに行ったという話を聞いた。真実かどうか確認できないけど、一歩俺のほうが早かったんだ。東宝は佐藤允で『仁義なき戦い』をやろうとしてたらしいよ」「敵の撮影所でありながら彼とも知り合いで、彼がやったらそれはそれでおもしろかったろうね」などと話している。日下部は米原尚志とのインタビューで、飯干宅で『仁義なき戦い』の原稿を見たのだが、すぐ企画を進めた訳ではなく、「麻薬Gメンの話が潰れて『仁義なき戦い』の原稿のことを思い出した。そのときはすでに『週刊サンケイ』の連載が始まっていた」と証言している。これまで日下部が「週刊サンケイ」の連載よりも半年、或いは一年も前に飯干宅で美能の手記を見たというから、その後『仁義なき戦い』の企画を水面下で進めていたものと思い込んでいた、或いはそう書かれた文献が多いようであるが、先の日下部の証言通り、美能の手記を見ただけで企画を進めていなかったのならば、岡田ー日下部ラインで企画はスタートさせていたが、題材が題材だけに思うように進んでいなかったのかもしれない。『仁義なき戦い』というタイトルを考えたのは「週刊サンケイ」編集部である。美能は「仁義なき戦いではない。わしは仁義を求めて生きてきた」と揉めたが、同誌・矢村隆編集部次長が「あなたはそうしたはずだが、ボタンの掛け違いが重なって結局は仁義がなくなったんじゃないか」と美能を説得したという。1972年(昭和47年)5月に「週刊サンケイ」に連載が開始される。本連載は「ゴッドファーザー日本版」と銘打たれていた。同年9月に東映はシナリオ作成を笠原和夫に指示。笠原の『ノート「仁義なき戦い」の三百日』によると、実在する登場人物や組関係者がどのように反応するか憶測もつかないため、笠原も映画化は実現不可能と二の足を踏んだが、岡田社長の強い指示で取材に着手。実際に美能に面会した結果、「呉での抗争事件だけならなんとかまとめられる」と引き受けた。笠原は獄中手記を書いた美能幸三にも人を介して会いに行った。1968年の『人間魚雷 あゝ回天特別攻撃隊』で、江田島ロケをした際に、日下部がよく通った呉のスナックが美能も常連客でママが会う段取りをつけたくれた。最初の訪問は1972年9月30日。この前々日の9月28日に俊藤のツテを使い、当時共政会二代目会長だった服部武と会い事件のアウトラインを取材していた。当時の美能は8年の刑期を終え、出所してきたばかりで、現役バリバリの殺気に笠原は縮み上がり「映画なんか信用できん!」と美能の一言にその場を一目散に逃げ出した。ところが美能が追いかけて来て「せっかく来たのだから呉駅まで送ってやる」と言われ、道中の世間話で色々話をしているうち、戦中共に海軍の大竹海兵団にいたことが分かって美能は喜び自宅にまで招かれた。手記を書いただけに脚本家という仕事に興味を持ったようで「絶対に映画には使わない」という条件でたっぷり広島抗争の真実を聞くことが出来た。別れ際、美能に「絶対に映画にしないんだな」と念を押されたので「しません!」と答え帰京、さっそく脚本に取りかかった。日下部が「美能さん、あなた、恨みを晴らすために書いたんでしょう。じゃあ、とことんやりましょう!映画ならもっと効果があがりますよ」とけしかけ、美能は映画化を承諾した。美能から言わせれば、笠原と日下部が初めて訪ねてきたときは、二人をどこかの〈組〉の者ではないかと疑ったという。映画が製作された1970年代の始めは広島抗争がまだ燻っており、いささか危険な状況下にあった。この題材は過去にも東映をはじめ各社が映画化に取り掛かっては頓挫する、という折り紙付きの難物であった。このため当初は広島ヤクザをあまり刺激しないよう当事者には取材せず、短期間の撮影で正月第二週あたりの併映作(添え物)、ノン・スター、1時間10分程度の白黒作品で制作する予定であった。それが普通サイズのカラー作品での制作という事に変わり、東映内部でも後難を恐れ映画化に消極的な声があった中、広島出身の岡田社長のみが一人やる気満々で実現に至った。日下部は広島出身の岡田社長の人脈をフルに使いながら、映画化実現に向けて関係者の説得に当たった。また俊藤浩滋は、広島の組織関係者との橋渡しとしてゼネラルマネージャーに就いた。共政会サイドや菅谷政雄の舎弟・波谷守之などと調整し筋を通す役割を果たす。映画化実現に於いて、諸問題をクリアーしてくれたのは波谷であった。波谷は「美能にもし危害を加えるヤツがいたら、オレが相手になる」と言っていたという。深作欣二の監督起用について菅原は従来とは違うものにしたいと俊藤に「『現代やくざ 人斬り与太』『人斬り与太 狂犬三兄弟』を見ましたか?」と聞いたら「見てない」というので、「見てください」と頼み、何日か経って「オモシロイなぁ」と言うから深作の監督起用が決まった、「その時以外には誰を監督になんていったことがないんだ」などと話している。深作は10月半ば、『人斬り与太 狂犬三兄弟』の編集中に俊藤から京撮で製作するやくざ映画の監督をする気があるか打診され「つぎに何か決まっているのか」深作「いや、決まっていません」「知ってるかな、週刊サンケイに『仁義なき戦い』というのが連載されてるの」「はい読んでますよ。あれは面白いですねえ」「京都でやろうと思ってるんだ。やる気があるか」「そりゃまあ、京都はまだ行ったことがないけれど、私で良かったらやらしてください」というやりとりがなされた。しかし、笠原が「あいつはシナリオをいじりまくる」と難色を示し、笠原と岡田社長は共に京撮の若手エース監督・中島貞夫を推していて、中島は内々の監督の打診を受けていた。俊藤が深作の起用を強引にすすめ深作も笠原の脚本には一切、手を入れないことを約束し最終的には岡田社長が笠原の説得にあたり深作起用が決定した。日下部プロデューサーは「深作さんが脚本に文句をつけたら、中島さんか誰か知らんけど、違った『仁義』になっていたのは確か」と述べている。深作の起用の決定はスタッフも決まった後でギリギリ。顔合わせをしたのは撮影開始3日前で、ディスカッションも何もする暇がないまま、ぶっつけで撮影に入った。深作は当時一般にはあまり知られておらず、"映研派"監督などといわれ、大学生の間では熱狂的に人気があったが自分の撮りたいものを撮るという姿勢を崩さなかったため、撮っちゃ干され、撮っちゃ干されの時期が長く続いていた。菅原は「俊藤に深作を推薦したのは自分」「深作と一緒に撮った映画を俊藤に見せたら、おもしろいやないか。あれで行こう、と深作に決まった」と話している。深作自身は当時日本で最も評判の悪かったスタジオである京撮に対して幾許かの先入観があったとされるが現場に入ってからは深作組の名の下、縦横無尽の活躍を見せる。プロデューサーの日下部五郎は当初、渡哲也の東映主演第1作として考えており、松方弘樹も候補にあがった。しかし渡は熱海で病気療養中の身で「1年くらいかかる」と断わられたため、以前から出演を希望していた菅原に主演が決まった。菅原は本作の映画化を聞く前から『週刊サンケイ』の連載を読み、その魅力に圧倒され、東映に「映画化するなら俺を出せ」と言っていたという。このため渡の東映出演は『仁義の墓場』まで延期となっている。当初の予定では佐々木哲彦(劇中では坂井鉄也)を主人公にし、この役を菅原にあてる予定だったが、シリーズ化を考えた東映によって急遽、美能を主人公のモデルにさしかえた。山守義雄役は深作が三國連太郎を推したが「三國では客が入らん!」「三國の広島弁は考えられない。広島弁の明るさがでなければだめだ」という岡田社長の一声で金子信雄が抜擢された。深作がなお三國でと固執するので「お前降りろ、もういいよ」というところまでいったという。『なぜ金子が選ばれたかについては、これまであまり語られたことがないが、岡田が著書で「金子は岡山の出身だから広島弁もいける」と述べており金子は東京の出身で岡山とは縁がなく、岡田の勘違いで抜擢されたのか、或いは金子が岡山出身と言っていたのか不明である。また、金子がクランクイン直前に病気で倒れ出演が危ぶまれ、代役に西村晃が候補に挙がった。しかし話を耳にした金子が病床から這い出てきて「この役を降ろされたら生きていけない。死んでもやるからやらせてくれ!」と出演を熱望したため、西村の代役話は流れた。深作は初めのうちは、金子の親分役に「こういう親分って本当にいるのかいな」という不安がたえず付きまとっていて、三國さんの方がいいんじゃないかな」と思っていたという。笠原も「金子の芝居は相当のデフォルメ、やりすぎだ」と試写で見て「あんなアホな親分いませんよ。こんな親分に子分がつくはずないじゃないか」と言ったら、岡田がノッて「あれは絶対におもしろい」と言って結局その後も、ずっとあれで押し通されてしまったと述べている。金子の怪演なくして本作は語れない。その他『代理戦争』で川谷拓三を世に出した西条勝治役は、最初荒木一郎が予定されていたが「広島ロケが恐い」という理由で降板したため、川谷拓三の大抜擢となった。映画のポスターに初めて名前が載った川谷は「今、ここで死んでもええわ」と名言を吐き、生涯、そのポスターを大事にした。この抜擢は川谷だけでなく、大部屋俳優が集まった「ピラニア軍団」をも注目されるきっかけとなった。第一作の撮影中に岡田社長は『仁義なき戦い』のシリーズ化を決定。岡田に呼び出された笠原は「第二部で、何をやりますかね」と聞くと岡田は「広島事件!」と即答。「冗談じゃないですよ、まだ広島じゃ山口組と揉めてるし、原作もまだ完成してないし、第一、複雑怪奇で作りようがないですよ、あれ」「お前ね、そこを考えるのがライターじゃないの」「広島事件はまあ待って下さい、もっと面白くなりそうなのがあるから」と、何とか山口組から逃げた。笠原は「広島事件を描くと当然神戸の山口組が登場することになり、かなり慎重な配慮と手続きをしなければ」と苦悶。その結果、第一次広島抗争を実際の時代設定より後にずらし、原作でチラッと出てくる24歳で自決する殺し屋山上光治(演者・北大路欣也)を軸に脚本を書いたのが第二部『仁義なき戦い 広島死闘篇』となる。結局、二作目も大ヒットして、東映は「私がいやだいやだと逃げ回っている広島事件をとうとうやれと言い出した」という笠原を説得、本人も開き直った。後日、笠原が小林信彦に語ったところでは、代理戦争における合田一家(劇中では豊田会:笠原は合田一家の東進が広島戦争の原因としている)の評価も難しかったという。前述のように当初の予定では佐々木哲彦(劇中では坂井鉄也)を主人公にし、この役を菅原文太にあて一作だけで終える予定だったが、シリーズ化を考えた東映によって急遽、美能を主人公モデルにさしかえた。元々、一作で終わらせようとしたのは俊藤で、これがシリーズ化されるようなことがあると鶴田浩二や高倉健など、俊藤が抱えている役者が使えないためである。さらに今まで大人しかった大部屋俳優も表に出始め都合が悪い。第二部は菅原の出番が少ないことは笠原は菅原から了解を得ていたが、1週間たったら菅原が「出番が少ないなら出られない」などと言い出した。菅原も俊藤の息がかかっていたからである。大喧嘩となって笠原は菅原に「お前、表に出てやるか!」と言うと「そっちがやる気なら、やってもいいです」と菅原は言うので、笠原は「ふざけるんじゃない。俺がガラスの瓶、パンと割ってお前の顔を傷つけたら、もう役者としてやっていけないんだぞ。それでもやる気があるのか!」と言うと、深作が間に入ってその場は収まり、二部以降は菅原なしでやると決まっていた。そうしたら菅原が「出させていただきたい」と侘びを入れ続投となった。菅原はこれを機に俊藤と別れたというが、菅原のいないシリーズになっていた可能性もあったわけである。第一部の大ヒットで第三部『仁義なき戦い 代理戦争』の製作が決定(第二作の公開前)。決死の取材で広島事件をまとめて、第四部『仁義なき戦い 頂上作戦』と合わせて物語を終結させ笠原もようやく安堵した。ところが、笠原が岡田社長と深作、日下部五朗の四人で夜の京都に繰り出したおり、四条大橋の上で岡田が笠原の肩に手を掛け「お前なァ、悪いけど『仁義なき戦い』をもう一本書いてくれないか」と囁いた。笠原は「あれはもう文太と旭の別れも書いて、二人とも刑務所に入れたし、もう書きようがない」と断った。バーに入って岡田に聞こえないように笠原が深作に相談すると、深作は「笠原さんがホン書くならやるよ」と言う。笠原は「よし。なんぼなんでもギャラが安すぎるから(一本120万円だった)ギャラを上げるなら受けることにしよう。おれが交渉するから、それまでお前は引き受けるな」「わかった。おれのぶんの交渉もよろしくな」と深作と打ち合わせをしていたが、正月に東映本社に挨拶に行った深作は、岡田から「今年はまず第五部だな、君、頼むよ」「はいっ」と二つ返事で引き受けてしまった。第五部『仁義なき戦い 完結篇』以降、笠原が脚本を降り、深作が監督を続けたのはこうした経緯から。『完結篇』以降もさらに三本が製作されたのは勿論、岡田の指令によるもの。第一作の制作前にシリーズ化が決定されていたが、予想以上の大ヒットとなり配給収入は邦画の中で年間第2位となった。めまいを覚えるような荒々しい手持ちカメラによる映像が、ドキュメンタリーを見ているかのような生々しさで迫り、聞き慣れない広島弁のリアリティと津島利章の古典的ともいえる主題曲の単調な繰り返しが、独特のリズムとバイブレーションを生んで中枢神経を揺さぶる、画期的な暴力映画とも評された。助監督をつとめた土橋亨はインタビューで以下の点を指摘している。『仁義なき戦い』の成功は深作欣二のダイナミックな演出、斬新なカメラワーク、絶頂期に向かう役者たちの演技、実録ならではのリアリティ、終戦直後の広島や呉という舞台設定の妙戦国時代の"国盗り物語"的なスリルなど、多くの複合要因から成り立ち、それらの幸福な出会いともいえるがやはり原作にはない膨大な資料を掻き集めてシナリオにまとめた笠原和夫の巧みな脚本、"脳天唐竹割りな広島弁の応酬"、"広島弁のシェークスピア"とも"血風ヤクザオペラ"とも称された広島弁の珠玉の名セリフの数々によるところが大きい。プロデューサーの日下部五郎は「笠原さんが『仁義なき戦い』シリーズで残した最も大きな功績は、広島の方言、やくざ言葉を巧みに拾い上げて、映画の名ゼリフと言われるまでにしたことでしょう」と述べている。鴨下信一は「『仁義なき戦い』は、日本映画のマイルストーンになった。出演者は各々のベスト・パフォーマンスを見せているが、これらの誰よりも大スターがいて、その魅力が全編を支えている。それは広島弁である」と論じている。『仁義なき戦い』で重要な演出効果となるのが、何といっても広島弁。現役の関西系の組関係者が不気味でドスが利いていると評価する。播磨弁では汚くて、博多弁では可愛らしくて、鹿児島弁では意味不明というところで堂々の極道方言ベスト1とも評される。広島弁は、この映画をきっかけに良くも悪くも全国に広まった。公開当時は聞き慣れない広島弁のオンパレードに戸惑った映画ファンも多かったが、何度となく鑑賞する度にどこかの英語教材のように精通していき、"仁義ファン"はみな広島弁のバイリンガルとなった。深作は「"仁義なき戦い"に一番興味を感じたのは焼け跡であり、それがしかも地方都市、広島、呉だったということ」「それと前に『ジャコ萬と鉄』で少しありましたけど、地方弁を本格的な形で使ったのは初めてだったんですよ。京都で映画を撮ったこともないから、地方弁を使いたくてしょうがなかった。自分の中に地方人としての意識があったんでしょうね」などと話している。第五話『仁義なき戦い 完結篇』で、笠原和夫から脚本を交代した高田宏治は、第四部までの笠原脚本について、「実際のモデルを検証することによって、あれだけシビアに料理できるという勇気。人間関係の整理の仕方だとか、チンピラの書き方、山守親分の描き方とか、やっぱりすごい。実録からくるリアリティ、リアリズムの持つ迫力、これを映画というエンターテインメントに仕立て上げた手腕ですね。うまく戯画化してね。あれは勇気がいりますよ。実在の親分をあれほどボロクソに書くのは、なかなかできることじゃないですよ。いろいろ問題はあったようだけど、よく文句がでなかったと思うぐらい、むちゃくちゃに扱ってますよね。実録の世界になって、たんなるギャグを通り越して、実在のやくざの赤裸々な人間の滑稽さを笠原さんがつかんだんです。僕とは違う人間のコミックな裏の部分をあの人が厳しく書いた。そこで越えられたなというのがすごいショックだった。いろんな障害を突き抜けてやったという勇気から、ああいうおもしろいのが出てくるんです。そういうところに東映的なエンターテインメントの拠って立つ意味合いというか、ステータス、エスタブリッシュメントがあったわけでね。それはやっぱり飯干晃一さんが書いた原作があったから。モデルをあれだけ率直に扱う勇気のある作家・ジャーナリストがいたから、それにのっとってやれた。原作がなくて、そのまま映画人が取材に行って、現実にいる人を戯画化して踏みつけにするような形で映画化するのは普通できないですよ。原作がちょっとでもあったら『原作があるから』とか言って逃げられるんですよ」などと話している。1960年代後半から1970年代初期にかけて、日本はひとつの転換点を迎える。高度経済成長政策が行き詰まりをみせ、各種公害の発生や大学紛争の波及にみられるように、これまで抑え込まれていた政治社会の歪みが至るところで噴き出し始めていたからである。それは経済至上主義できた戦後の路線に対し、深い内省を迫る動きであった。「仁義なき戦いシリーズ」は、こうした世相の中で登場してくる。第一部は終戦直後、第二部は昭和27年頃、第三部と第四部は昭和30年代後期、第五部は昭和40年代を舞台にしている。戦後史を別の角度から見つめ直すという意味では、この連作はまさに時代の産物であった。映画は今まで隠蔽されてきた野卑で猥雑なものに視線を向け、これを白日のもとに晒そうとする。ここに提示されているのは、戦後日本の裏面史である。第一部のラストシーン近く、松方弘樹演じる坂井が、菅原文太演じる広能にいう「のう、昌三..わしらよ、どこで道間違えたんかのう..」というセリフが、ひときわ印象的である。子分みんなに、むしろ軽蔑されながら、神輿として担がれている山守親分。彼は笑われ、バカにされながら、実はちゃんとみんなを牛耳って、統御しているのである。このあたりの存在感は、何やら戦後の日本の民主主義の象徴である、天皇という存在を思わせたりもして、少々不気味である。そのような戦後史映画を、深作はストイックな東映正統ヤクザ映画の"葬式型の陰湿な美学"に対抗する、アナーキーな東映戦後派ヤクザ映画の"お祭り型陽気な行動主義"を持って作ったのである。「実録路線」の旗手となった深作は、日本の戦後史に対して強い問題意識を持っていた。東映実録路線全般が凡庸なヤクザ映画に堕することなく、時代を撃つような批判力を持つものになったのも、戦後史の底辺に流れていた物を掴み出したいという意思が、作り手側に確固としてあったからである。虚飾を剥ぎ取り、内実に迫ろうとするこうした動きは、時代の趨勢だったといえる。深作は『仁義なき戦い 広島死闘篇』が公開中の1973年、『週刊朝日』のインタビューでこれに触れ「『仁義なき戦い』は面白い素材です。つまり、日本の戦後史なんですね。敗戦後の混乱した土壌からヤクザが生まれてきて、朝鮮戦争で肥え太る。やがて大資本が再生すると同時に、それまで癒着していた国家権力から切り捨てられてゆく。ヤクザたちを通して、戦後史の曲り角がリアルに見通せるような気がするんですけどね」。この記事で『週刊朝日』は、深作を"暴力派"と紹介している。深作は本作の魅力について「やはりゴチャゴチャした人間のズッコケ芝居のおもしろさですね。ブラックユーモアと言っていいのかどうか。悲劇というより絶えずおかしみがともなって、極めて底辺のところで血の雨を降らす。それも何の意味もない血の雨の降らし方ということ。そして最後は県警。つまり国家権力にしてやられるという話なんですからね」と解説している。『仁義なき戦い』は戦後を振り返りながら、やくざ組織の治乱興亡の描写に日本人の生き方を重ね合わせた、いわば異色の大河ドラマであった。戦後、暴力世界の拡大に人生を賭けたやくざたちの姿は、アメリカの核の傘の下で経済的繁栄を追い求めた日本人の姿と重なって見える。坪内祐三は「政治家はシェークスピアと『仁義なき戦い』を見ることをお薦めする」と話し、「『仁義なき戦い』五部作を繰り返し見れば、派閥争いとは何か、いかにして派閥の勢力を伸ばして行くか、小派閥はどのようにサバイブして行くかなどがよく分かる。派閥と言う言葉を党という言葉に置き換えてもよい。『仁義なき戦い』シリーズは政治の世界を知る上でも勉強になる。しかも国内政治だけでなく国際政治にも通用する」などと評している。芝山幹郎は「何度見てもおもしろい、というのはこの映画のためにある褒め言葉だろうか。『仁義なき戦い』には熱狂的なファンが多い。私もその一人だが、スピードといい、会話の味といい、役者の面構えといい、この作品は1970年代以降の日本映画のなかで群を抜いている」と評している。中野翠は「『仁義なき戦いシリーズ』が完結した1974年ぐらいで日本映画は断末魔っていうかんじです」と述べている。小山内美江子は「世の中の閉塞感をぶち破る、映画史的に大変価値のある作品だった。この映画から、手首だの腕だのが飛び始めました」などと述べている。松方弘樹は「『仁義なき戦い』が今も時代を超えて支持され続ける理由は何だと思いますか?」という質問に対して「それ以上の映画が出来てないから(きっぱり)。まず監督がすごかったということもあるし、笠原さんの脚本も面白いし。あの時代はヤクザ社会だけじゃなくて世の中が一番激動の頃ですから。やっぱり題材が一番面白いですよ。それと、今はあれだけ層の厚い俳優さんたちがおらんもん」と話している。後に笠原和夫は『ゴッドファーザー』からの影響を否定したが、初公開時には『ゴッドファーザー』の影響を指摘されたこともあって『仁義なき戦い』をどのように評価するのか、またしないのか、映画評論家にとっても試金石になった。このためキネマ旬報ベスト・テンでは、同じ年に公開された『代理戦争』が8位、『広島死闘篇』が13位で、シリーズモノで票が分散したという不利な点はあったかも知れないが、2位であった。ただし読者の選出では見事1位(『広島死闘篇』4位)となっている。評論家とは逆に、安保闘争の敗北など、当時の無力感を吹き飛ばすエネルギーに満ち溢れた映画に観客は熱狂的に迎え入れた。またそれまで任侠映画は大新聞が「暴力礼賛だから取り上げない」と宣言し、完全に黙殺したジャンルであったが、朝日新聞の映画評で絶賛されたことで影響は各紙誌に及び、映画の大ヒットに繋がったとも言われる。なお、この年『仁義なき戦い』を抑えて1位になったのは、斎藤耕一監督の『津軽じょんがら節』だが、世紀をまたいで評価が増すばかりの『仁義なき戦い』に比べて『津軽じょんがら節』の評価が風化するのは早かった。深作はもともと客が入らない監督として知られていたため、この映画の大ヒットには戸惑っていたという。大島渚は「キネマ旬報」第654号で『仁義なき戦い』について論じているが、大島はこの映画の成功は、ナレーションの巧妙さやタイトルの使い方が、大きな役割を果たしていると述べている。19歳のとき、大阪の道頓堀東映でこの映画を見た井筒和幸は、「オレたちの青春とシンクロしすぎて、熱いものがガーっときて、プー太郎だった自分がウワーとなって、もっていかれた」という。それまでは洋画一辺倒で日本映画なんて馬鹿らしくて、この映画がなかったら日本映画なんて観に行かなかったろうと話している。当時はビデオやDVDがなかったので、再上映を待って朝日ベストテンの1位(1〜3部)受賞での再上映でまた観に行くと、今度はインテリ風の観客が多くて、こんな映画を見せていいのか心配になったという。井筒は近年「“仁義なき戦い”研究家」を名乗っている。菅原は1973年の『週刊朝日』のインタビューで「方言ていうのは、芝居つくってくうえで適切なんじゃないですか。標準語よりもね。土のにおいがするというか。芝居してて、いちばん感じをつかみにくいのが標準語ですよね。言葉が生きてない」「役者は常に、自分と共有部分のある監督とのめぐりあいを予感しています。作さんとの出会いは、運命的といっては大げさだけども、そんなニュアンスがありますね。同じ昭和一ケタで、混乱した時代をくぐりぬけてきた戦後体験を持っている。東映でも作さんは売れない写真づくりを続けてきたし、僕も任侠路線に中途半端に入り込んで、多少違和感を感じながら仕事してきた。その同質の部分が共鳴するみたいですね」などと述べていた。菅原は後年、「俺が38歳、深作さんが41歳。若くてエネルギーがいちばん滾っていた時、内も外も最高の燃焼が生んだ作品は"仁義なき戦いシリーズ"に尽きるんじゃないかな、燃焼し尽くしたって気がする」と語る一方で「いまだに人に会えば"仁義なき戦い"ばかり言われて、さんざん嫌になってくる。もういいよと。"仁義なき戦い"はもう遠い昔のことというふうにしか思えない」と述べている。従来の任侠路線を否定・破壊した攻撃性、意外に短命だった完全燃焼の激しさが裏付けているように、日本のポップ・カルチャーにとって東映実録路線=『仁義なき戦い』の出現こそが、真の"ジャパニーズ・パンク"であった。『キネマ旬報』は2009年(平成21年)に実施した<日本映画史上ベストテン>「オールタイム・ベスト映画遺産200 (日本映画編)」に於いて、本作を『東京物語』、『七人の侍』、『浮雲』、『幕末太陽傳』の古典的名画に次いで歴代第5位に選出した。同誌の歴代ベストテンは過去4度にわたり実施されているが『仁義なき戦い』の第5位は、1970年代以降の作品としては史上最高位となる。ヤクザ映画というカテゴリーを越えて、"日本映画史を代表する一本"として認知されつつある。初めて聞かされる専門用語がふんだんに登場するなど、暴力団の内情をうかがわせた脚本は、笠原和夫が綿密な取材を重ね膨大な資料を集めた成果である。実録と銘打っても、そこは商業映画であるため、演出、デフォルメなどが施されているが、笠原の取材によって、原作以上に実録に肉薄しているのが映画『仁義なき戦い』といえる。「仁義なき戦いシリーズ」は日本映画史上、いまだかつてなかった脚本家の存在と功績がクローズアップされたシリーズとなった。『仁義なき戦い 完結篇』で脚本が笠原から高田宏治に代わったことでその比較が大きく取り上げられた。高田は「つねに"曇天商売"の脚本家が、これほど注目されたのは前代未聞や、と嬉しかった」「皮肉でなくそう思った」などと述べている。笠原和夫との比較、"笠原信者"からの批判はこの後も容赦なく続いたという。当時の東映では異端的存在にあった深作の監督起用により、結果として日本映画最高の群集劇が誕生した。演技人も日本映画の衰勢によって日活、大映などの俳優たちの参加を可能にし、偶然の産物だがキャスティングの変更さえも、その奇跡の要因に数え上げられる。それは "血風ヤクザオペラ" とも称された。笠原は東京日本橋の出身だが、終戦間際の5月から海軍幹部候補生として3カ月の広島滞在歴があり広島県西端にあった海軍大竹海兵団(呉海兵団第二海兵団)に所属した。ここで基礎訓練期間を終えた後、軍用列車で同県呉市広駅で降り、賀茂郡黒瀬町山間部の対空警備隊に配属され広島原爆のキノコ雲も当地で見た。終戦により山陽本線の西条駅から帰京したが、呉は本作の主要舞台であり、呉市広は第一部で梅宮辰夫が演じた大西政寛が本拠を置いた街でもあり、西条は岡田茂の故郷でもあるため、本作と笠原は奇妙な縁があった。前述したように笠原は美能が同じ大竹海兵団にいたことで、意気投合して一夜を飲み明かし「仁義なき戦い」の裏ネタのほとんどを仕込めた。仮に笠原が東京で志願して横須賀海兵団に入っていたら、或いは長岡から舞鶴海兵団に入っていたら、本作はかなり違った内容になっていた可能性が高い。笠原自身「それが27年後に思いもよらぬ幸運をもたらしてくれた。『仁義なき戦い』シリーズで、私は監督の力量にも恵まれて少しばかりの成功を得たけれども、その成功はこんなにも不確かな運命の転変と偶然の上に乗っかっているものなのだ。なんともこわいことだ、と思わずにいられない」と話していた。笠原は数ヶ月の広島滞在があるが広島弁はあまり知らなかった。綿密な取材を重ね膨大な資料を集め、広島弁も研究し広島弁の辞書まで作っていたと噂されたが、広島弁独特の語感は文字の上からだけでは捉えられない。そこで思い当たったのが、自身の苦心作を脚本の本読み席上でクソミソにコキ下ろした岡田茂の語調だった。あの時、この時の岡田のニクたらしい言葉の数々と岡田の面貌を併せて思い起こしていると、菅原文太や金子信雄のセリフが生き生きと回転し始めた。それは昔の仇を取ったような溜飲が下がる思いがしたという。第一部巻頭の闇市で、進駐軍の米兵が女性に乱暴するシーンがあるが、アメリカでは戦後の一つの神話として“日本の進駐軍の米兵はいたってジェントルマンで、女性を尊敬した"ということになっており、こうした米兵の乱暴な行動を露骨に描いた作品は殆ど無いという。リンダ・ホーグランド監督は、上記理由で2010年公開の映画『ANPO』の劇中でこのシーンを使用している。脚本執筆にあたり笠原は、1936年のフランス映画で『我等の仲間』も参考にした。多大な影響をうけたのは、1972年の日活映画『一条さゆり 濡れた欲情』だと言う。広島抗争の取材を重ねて材料は充分に整ったが、その料理法に行き詰まった。エネルギッシュで生々しく、残酷でいてなにか浮世ばなれしたズッコケたヤクザ・ワールドの人間葛藤図は、それまでの任侠映画のパターンに収まりきらず、といって他に模すべき映画は見当たらず、『ゴッドファーザー』や『バラキ』といったマフィア物も見たが参考にならなかった。『仁義なき戦い』は戦後日本の風土のなかで描いてこそ活きる素材だったからである。八方塞がりの時、たまたま入った映画館で観たのが『一条さゆり 濡れた欲情』で、一条さゆり、白川和子、伊佐山ひろ子の三女優の裸身が、文字通り組んずほぐれつ、剥き出し性本能をぶつけ会う1時間余りの映像は、この上なく猥雑で、従順で、固唾を呑む暇もないほど迫力があった。これからの映画はこうでなければならないと信じ、この手法を持ってすれば『仁義なき戦い』の材料は捌けると強い自信をも抱いた。笠原が今日のような名声を得る切っ掛けとなったのが『仁義なき戦い』がヒットした後、「キネマ旬報」誌で二回に分けて掲載された田山力哉とのロング・インタビューであった。それまで笠原は、ヤクザ映画の脚本家というレッテルを貼られて良識あるジャーナリズムからはまったく無視されてきた。田山を「私をマスコミの表側に押し出してくれた恩人」と笠原は述べていたが、田山は笠原を"非エリート"と名付けてその後は、「非エリート、たまには銀座で飲ませろ」などと"非エリート"呼ばわりがしつこく非常に頭にきたと著書で述べている。深作は「何でこのような、アナーキーな活気を込めたユニークな映画ができたのですか?」という白井佳夫の質問に対して「実録的なドラマの力であって、これは人間を創造したというより、現実をリアルに活写した映画、というべきでしょう」と語っており、五部作の抗争の構図の大枠については、ほぼ事実に則している。膨大な資料・データを蒐集した笠原が、全体の構図は保ちつつ、それらを加工・アレンジし一つのストーリーに集約させたもので「事実」「実録」にアレンジ、デフォルメを加えて作られたフィクションである。登場人物については、実在の人物のキャラクターに別の人物の要素を混入させているケースもある。例えば成田三樹夫扮する「松永弘」は、三名の実在人物から合成されたキャラクター。アクションシーンについては、単なる殺人シーンの羅列にならないよう、実際に起こった事件を別のシーンに起用して、映画にメリハリをつける計算が行われている。一作目で指を詰めて指がニワトリ小屋まで飛んでった話は、笠原が美能と初めて会った夜に美能から聞いた実話であるが、川谷拓三扮するチンピラが第二部では大友組による無人島での拷問、第三部で指詰めだけでは足らないと手首から切り落とす話は、実際は別の組で行われた実話。この他、ユーモアシーンのエピソードとしては、第三部で登場するプロレスラーに広能が「あとで"ミス広島"を抱かせちゃる」と言うシーンがあるが、このセリフは実際に山村辰雄が田岡一雄に公約したものという。プロレスラーのモデルは力道山だが、映画では試合後、キャバレーでブスをあてがわれて怒り暴れるが、実際に行われた広島での試合は広島県警の大動員によって大きな混乱はなく、力道山はすぐに次の興行地へ移動したという。このようにモデル人物、モデルになった事件と、映画シーン、登場人物の照合は、必ずしも厳密ではない。笠原は「獄中で七年間、遺書のつもりで書き続けたという美能氏の怨念の重さを思うと、その手記を絵空事にすりかえてドラマだテーマだと言っていることが大層虚しく思われてきてならない。美能氏がよく我慢して下さったものだと感謝するのみである」と述べている。1973年4月28日、ゴールデンウィーク初日に封切られた第二弾『仁義なき戦い 広島死闘篇』は、都内の各映画館はドアが閉め切れず、半開きのまま。あふれた観客はロビーのテレビで競馬を見ながら入れ替えを待った。翌日の日刊スポーツは「かつての昭和三十三年当時の映画全盛時代を思わせる」と書いた。続く『仁義なき戦い 代理戦争』、『仁義なき戦い 頂上作戦』も大ヒットして、1973年には『キネマ旬報』で「読者選出日本映画監督賞」が深作欣二に、脚本賞が笠原和夫に、男優賞が菅原文太に与えられた。東映京都首脳陣は快哉し、この年の暮れ、京撮の食堂に「仁義なき戦いシリーズ」が獲得したキネ旬、新聞各紙の賞の一覧を掲示した。入社以来「京都では当たる映画が名作や、東撮みたいなベストテンに入るもん作ったらクビやで」と言われ続けてきた高田宏治は、この東映首脳の豹変ぶりに唖然としたという。『広島死闘篇』以外の大半の撮影は京都市内で行われたが、無許可で撮影を強行したシーンが存在する。舞台が広島、神戸であったため出演者には演技の上で方言が必須になるが、習得にあたっては困難を極めノイローゼになる者が続出した。笠原も『頂上作戦』を書く頃には、セリフが広島弁でないと一行も書けないという慢性標準語喪失症に陥ったという。劇中、道具(武器、凶器)として数々の銃器が登場するが、これは米軍岩国基地が近いことから容易に入手が可能だったためである。
出典:wikipedia
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