三河島駅(みかわしまえき)は、東京都荒川区西日暮里一丁目にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)常磐線の駅である。当駅に乗り入れている路線は常磐線のみだが、本線のほか、当駅からは田端駅(田端信号場駅)方面への支線(田端貨物線)と隅田川駅方面へ向かう支線(隅田川貨物線)が分岐する。支線は田端信号場駅方面は貨物列車と臨時列車が、隅田川駅方面は貨物列車のみが使用する。旅客駅には常磐線快速電車および中距離電車のみが停車し、東京メトロ千代田線に直通する常磐線各駅停車は当駅を経由しない。したがって、複々線区間で常磐線各駅停車のみが停車する綾瀬・亀有・金町へ向かう利用客は、北千住駅で常磐線各駅停車に乗り換える必要がある。取手以北へ直通する中距離電車はかつて日中しか停車しなかったが、2004年3月13日のダイヤ改正以降は、通勤快速・特別快速を除くすべての中距離電車が停車するようになった。当駅は、特定都区市内制度における「東京都区内」に属している。島式ホーム1面2線を有する高架駅である。本線の両側にはホームのない線路がある。下り線側は田端信号場駅方面から来て南千住駅寄りで合流する。合流地点は三河島事故が起きた現場である。上り線側は田端信号場駅と隅田川駅を結ぶ単線で南千住駅寄りに上り線からの渡り線がある。改札口は南千住駅寄りの1か所のみの設置されている。ホーム上屋は短かったが、2011年(平成23年)に増設工事が完了、ホーム長の過半をカバーすることになった。自動改札機、指定席券売機(稼働時間 7:00 - 23:50)、乗車駅証明書発行機(稼働時間 始発 - 7:00)設置。かつてはみどりの窓口が設置されていたが、指定席券売機で指定席券などを購入することが可能となったため、2005年11月20日をもって廃止された。2010年12月よりエレベーター設置工事が行われ、翌年4月、完了した。(出典:JR東日本:駅構内図)2015年度の1日平均乗車人員は10,882人である。常磐線のJR東日本東京支社管内(上野駅 - 取手駅)の駅の中では最も少なく、東京23区内では越中島駅、上中里駅、尾久駅に次いで4番目に少ない。近年の推移は下記の通り。駅の出口は尾竹橋通りに面している。当駅から日暮里駅までの線路は弧を描くような急カーブになっており、直線距離では日暮里駅・西日暮里駅・町屋駅も徒歩圏内にも入るほどの近さにある。江戸時代、三河島には徳川家康が遷都の際、開墾のために三河から連れてきた伊藤氏(伊藤七家)などの農家が居住して稲作を行っていた。明治時代には上野の戦いから逃れた彰義隊の残兵が伊藤家に匿われた経緯も史記に残っている。日暮里出身の吉村昭の「彰義隊」に詳しい。明治から大正までは湿地帯や農家の屋敷も残る田園地帯であった。また、文京区の柳沢吉保邸であった六義園に展示されている江戸地図に三河島近辺は田畑の表記になっている。明治以降、屠殺場や皮革工場、また下水処理場(三河島水再生センター)などの施設が建設されるようになり、戦前戦後にかけて、それらの工場や施設に日本人労働者や朝鮮半島出身者(多くが済州島出身者)が移住して働くようになった。そのような経緯から現在では駅周辺は焼肉店などハングルの看板が並ぶコリア・タウンともなっており、朝鮮学校もある。規模的には川崎や新大久保などの他コミュニティよりも比較的規模も活気も小さい。高度経済成長とともに金物加工や印刷、製紙や箱工場も増え、工業地域となった。1962年には「国鉄戦後五大事故」の一つとされる死者160人を出した三河島列車衝突事故が発生した。「三河島」という地名は荒川区で広範囲にわたる地域名であったが、前述の鉄道事故のイメージを払拭するために1968年ごろ廃止され、三河島の中心部は「荒川」に、周辺部は他の地名に組み入れられ、現在では駅名や保育園の名前などとして残るのみとなっている。駅前の尾竹橋通り沿いにある「三河島駅前」バス停から発着する。
出典:wikipedia
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