明智 光秀(あけち みつひで)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。戦国大名・織田信長に見出されて重臣に取り立てられるが、本能寺の変を起こして信長を自害させた。直後に中国大返しにより戻った羽柴秀吉に山崎の戦いで敗れた。一説では、落ちていく途中、小栗栖において落ち武者狩りで殺害されたとも致命傷を受けて自害したともされる。これは光秀が信長を討って天下人になってからわずか13日後のことであり、その短い治世は「三日天下」とも言う。本姓は源氏で、家系は清和源氏の摂津源氏系で、美濃源氏土岐氏支流である明智氏。通称は十兵衛。雅号は咲庵(しょうあん)。のちに朝廷より惟任の姓を賜ったため惟任光秀とも言う。妻は妻木煕子。その間には、細川忠興室・珠(洗礼名:ガラシャ)、嫡男・光慶(十五郎)、津田信澄室がいる。領地では善政を行ったとされ、忌日に祭事を伝える地域(光秀公正辰祭・御霊神社 (福知山市))もある。後世、江戸時代の文楽「絵本太功記」や歌舞伎「時桔梗出世請状」をはじめ、小説・映画・テレビドラマなどでもその人物がとりあげられている。清和源氏の土岐氏の支流明智氏に生まれ、父は江戸時代の諸系図等で明智光綱、明智光国、明智光隆、明智頼明などに分かれるが、父親の名前も伝わらない低い身分の土岐支流とも言われる。土岐氏は建武の新政から美濃国で200年余り守護を務め数十家の支族を輩出した。生年は『明智軍記』『細川家文書』からは享禄元年(1528年)とされる。場所は岐阜県可児市明智の明智城が有力とされる。青年期の履歴は不明な点が多い。光秀は美濃の守護・土岐氏の一族で、土岐氏にかわって美濃の国主となった斎藤道三に仕えるも、弘治2年(1556年)、道三・義龍父子の争い(長良川の戦い)で道三方であったために義龍に明智城を攻められ一族が離散したとされる。その後、越前国の朝倉義景を頼り10年間仕えた。永禄8年(1565年)に室町幕府13代将軍・足利義輝が三好三人衆や松永久秀によって暗殺されると、その弟・義昭が姉婿である若狭国守護・武田義統のもとに逃れた。その直後から義昭は織田信長を含む各地の武将に上洛と自身の将軍擁立を促し、細川藤孝が使者に立ち信長は了承したが美濃平定前であり、義昭側は永禄9年(1566年)4月に織田・斎藤両家の間に和睦を結ばせたが、信長がこれを破る形で8月29日に出兵したことで流れた。義昭が信長に不信を募らせて、いったん見切りをつけ、さらに各地に援助を求め朝倉義景を頼ったことから、光秀は義昭と接触を持つこととなった。しかし義昭が上洛を期待しても義景は動かず、そこで義昭は永禄11年(1568年)6月23日(『細川家記』)再度斎藤氏から美濃を奪取した信長に対し、上洛して自分を征夷大将軍につけるよう、前回の破綻を踏まえて今回は光秀を通じて要請した。光秀の叔母は斎藤道三の夫人であったとされ、信長の正室である濃姫(道三娘)が光秀の従兄妹であった可能性があり、その縁を頼ったとも指摘されている。また、従兄妹でなくても何らかの血縁があったと推定される。小和田哲男は、将軍・義輝の近臣の名を記録した『永禄六年諸役人附』(『群書類従』収載)に見える足軽衆「明智」を光秀と解し、朝倉義景に仕えるまでの間、足軽大将として義輝に仕えていたとする。しかし『永禄六年諸役人附』は、記載された人名から前半の義輝期と後半の足利義昭の将軍任官前の二部に分かれ、「明智」の記載があるのは後半部であり、義昭時代から足軽衆として仕え高位ではなかったとも言われる。なお、この足軽衆とは雑兵ではなく、行列などの際に徒歩で従う侍のことである。これは末尾に名字だけで記載され、当時の義昭にとって光秀は取るに足りない存在だとうかがわせる。室町幕府では、土岐氏は三管領四識家に次ぎ諸家筆頭の高い家格で、十余支族も幕府奉公衆となり土岐明智氏などは将軍家と結んで独自の地位を築いた。その奉公衆や外様衆などの高位に就いてきた「土岐明智氏」の家系に連なる者を、形式的な伝統を重んじ家格に配慮する義昭が、足軽衆に格下げして臣従させたことになり「土岐明智氏」なのか疑問がもたれている。本能寺の変後に、ルイス・フロイスの『日本史』や英俊の『多聞院日記』には、光秀は元は細川藤孝に仕える足軽・中間であったと記すが、これは両者の地位に大きな差があるなか共に信長との交渉に動いたので、当時には何らかの上下関係があったと見てよい。信長への仕官の初祿は『細川家記』では500貫文で朝倉家と同額としており、これは雑兵ら約百人を率いて馬に乗り10騎位で闘う騎馬(うまのり)の身分であり、通説となってきた。しかし、太田牛一の『太田牛一旧記』では、朝倉家で「奉公候ても無別条一僕の身上にて」と、特色の無い部下のいない従者1人だけの家臣だと記述している。その後、義昭と信長の両属の家臣となり、永禄11年(1568年)9日26日の義昭の上洛に加わる。永禄12年(1569年)1月5日、三好三人衆が義昭宿所の本圀寺を急襲するが、防戦する義昭側に光秀もおり、『信長公記』への初登場となる。同年4月頃から木下秀吉(のち羽柴に改姓)、丹羽長秀、中川重政と共に織田氏支配下の京都と周辺の政務に当たり、事実上の京都奉行の職務を行う。同年10月、信長と義昭が意見の食い違いで衝突して信長が突如として岐阜に戻ってしまう。永禄13年(1570年)正月に信長は義昭の権限を規制する殿中御掟を通告するが、宛先は光秀と朝山日乗で、義昭は承諾の黒印を袖に押し信長へ返している。同日、信長名で「禁裏と将軍御用と天下静謐のために信長が上洛するので、共に礼を尽くすため上洛せよ」との触れが全国の大名に出される。続いて3月1日、信長は将軍から離れた立場で正式に昇殿し、朝廷より天下静謐執行権を与えられる。元亀元年(1570年)4月28日、光秀は金ヶ崎の戦いで信長が浅井長政の裏切りで危機に陥り撤退する際に池田勝正隊3,000を主力に、秀吉と共に殿を務め防戦に成功する。4月30日には丹羽長秀と共に若狭へ派遣され、武藤友益から人質を取り城館を破壊して5月6日帰京する。またこの頃、義昭から所領として山城国久世荘(現・京都市南区久世)を与えられている(東寺百合文書)。同年9月の志賀の陣にも参陣しているが、兵力は300から400人と大きくなく、戦の小康状態の時に宇佐山城を任され、滋賀郡と周囲の土豪の懐柔策を担当した。元亀2年(1571年)には、三好三人衆の四国からの攻め上りと同時に石山本願寺が挙兵すると、光秀は信長と義昭に従軍し摂津国に出陣した。同年9月12日の比叡山焼き討ちで中心実行部隊として(和田秀純宛「仰木攻めなで切り」命令書)武功を上げ、近江国の滋賀郡(約5万石)を与えられ、まもなく坂本城の築城にとりかかる。同年12月頃に義昭に「先の見込みがない」と暇願いを出すが(曾我助乗宛暇書状)、不許可となる。元亀3年(1572年)4月、河内国への出兵に従軍するが、まだ義昭方とする史料がある。元亀4年(1573年)2月、義昭が挙兵。光秀は石山城、今堅田城の戦いに義昭と袂を別って信長の直臣として参戦した。信長は将軍を重んじ義昭との講和交渉を進めるが成立寸前で、松永久秀の妨害で破綻する。同年7月にまたも義昭が槇島城で挙兵し光秀も従軍した。義昭は降伏後に追放され室町幕府は事実上滅亡した。旧幕臣には伊勢貞興ら伊勢一族や諏訪盛直など、その後、光秀に仕えたものも多い。同年、坂本城が完成し居城とした。天正元年(1573年)7月に村井貞勝が京都所司代になるが、実際には天正3年(1575年)前半まで光秀も権益安堵関係の奉行役をして「両代官」とも呼ばれ連名での文書を出し単独でも少数出している。京都と近郊の山門領の寺子銭(税)も徴収している。朝倉氏滅亡後の8月から9月まで秀吉と滝川一益と共に越前の占領行政を担当し、9月末から溝尾茂朝(三沢秀次)、木下祐久、津田元嘉が代官として引き継いだ。天正3年(1575年)に、惟任(これとう)の賜姓と、従五位下日向守に任官し、惟任日向守となる。城主となった光秀は、天正3年(1575年)の高屋城の戦い・長篠の戦い・越前一向一揆殲滅戦に参加する。そして丹波国攻略を任される。丹波国は山続きでその間に国人が割拠して極めて治めにくい地域であり、同国人は親義昭派で以前は信長に従っていたが義昭追放で敵に転じていた。まず黒井城を包囲するが、八上城主・波多野秀治が裏切り、不意を突かれて敗走する。天正4年(1576年)4月、石山本願寺との天王寺の戦いに出動するが、5月5日に逆襲を受け司令官の塙直政が戦死する。光秀も、天王寺砦を攻めかかられ危ういところを信長が来援し助かる。だが23日に過労で重病となり生死をさまようが7月には回復する。しかし11月7日には、正室の煕子が坂本城で病死する。天正5年(1577年)、雑賀攻めに従軍する。同年10月、信貴山城の戦いに参加し城を落とす。同月に丹波攻めを再開するが長期戦となる。まず亀山城を落とし拠点とする。そして難敵となった八上城を包囲し続け、その後も丹波攻めと各地への転戦を往復して繰り返す。天正6年(1578年)4月29日には、毛利攻めを行う秀吉への援軍として播磨国へ派遣され、6月に神吉城攻めに加わる。10月下旬、信長に背いた荒木村重を攻めて有岡城の戦いに参加する。天正7年(1579年)、丹波攻めは最終段階に入り、2月には包囲を続けていた八上城が落城。8月9日、黒井城を落とし、ついに丹波を平定した。すぐ細川藤孝と協力して丹後国も平定した。信長は感状を出し褒め称え、この功績で、天正8年(1580年)に丹波一国(約29万石)を加増され計34万石を領する。さらに、本願寺戦で戦死した塙直政の支配地の南山城を与えられる。亀山城・周山城を築城し、横山城を修築して、福智山城に改名した。黒井城の増築をして家老の斎藤利三を入れ、福智山城には明智秀満を入れた。同年の佐久間信盛折檻状でも「丹波の国での光秀の働きは天下の面目を施した」と信長は光秀を絶賛した。また丹波一国拝領と同時に丹後国の長岡(細川)藤孝、大和国の筒井順慶等の近畿地方の織田大名が光秀の寄騎として配属される。これにより光秀支配の丹波、滋賀郡、南山城を含めた、近江から山陰へ向けた畿内方面軍が成立する。また、これら寄騎の所領を合わせると240万石ほどになり歴史家の高柳光寿は、この地位を関東管領になぞらえて「近畿管領」」と名付けている。天正9年(1581年)には、京都御馬揃えの運営を任された。同年6月2日、織田家には無かった軍法を、光秀が家法として定めた『明智家法』後書きに「瓦礫のように落ちぶれ果てていた自分を召しだしそのうえ莫大な人数を預けられた。一族家臣は子孫に至るまで信長様への御奉公を忘れてはならない」という信長への感謝の文を書く。さらに翌年1月の茶会でも「床の間に信長自筆の書を掛ける」とあり(『宗及他会記』)、信長を崇敬している様子がある。天正10年(1582年)3月5日、武田氏との最終戦である甲州征伐では信長に従軍する。先行していた織田信忠軍が戦闘の主力で今回は見届けるものであり、4月21日に帰還する。天正10年(1582年)5月、徳川家康饗応役だった光秀は任務を解かれ、羽柴秀吉の毛利征伐の支援を命ぜられて6月2日(6月21日)早朝に出陣するが、その途上の亀山城内か柴野付近の陣で光秀は重臣達に信長討伐の意を告げたといわれる。軍勢には「森蘭丸から使いがあり、信長が明智軍の陣容・軍装を検分したいとのことだ」として京都へ向かったという。『本城惣右衛門覚書』によれば、雑兵は信長討伐という目的を最後まで知らされておらず、本城も信長の命令で徳川家康を討つのだと思っていた。光秀軍は信長が宿泊していた京都の本能寺を急襲して包囲した。光秀軍13,000人に対し、近習の100人足らずに守られていた信長は奮戦したが、やがて寺に火を放ち自害した。しかし、信長の死体は発見できなかった。その後、二条御所にいた信長の嫡男・信忠を、応援に駆け付けた村井貞勝と息子の村井貞成、村井清次や信長の馬廻りたちと共に討ち取った。また津田信澄(信長の弟・織田信行の子)は光秀の娘と結婚していたため、加担との疑いで大坂で神戸信孝らに討たれた。光秀は京都を押さえると、すぐに信長・信忠父子の残党追捕を行った。さらに信長本拠の安土城への入城と近江を抑えようとするが、勢多城主の山岡景隆が瀬田橋と居城を焼いて甲賀郡に退転したため仮橋の設置に3日間かかった。光秀は、まず坂本城に入り6月4日までに近江をほぼ平定し、6月5日には安土城に入って信長貯蔵の金銀財宝から名物を強奪して自分の家臣や味方に与えたりした。6月7日には誠仁親王は、吉田兼和を勅使として安土城に派遣し、京都の治安維持をまかせている。京都市内が騒動し混乱を憂いての事と思われるが、この時に兼和は「今度の謀反の存分儀雑談なり」と謀反としている。光秀はこの後、6月8日に安土を発って9日に昇殿して朝廷に銀500枚や、五山や大徳寺に銀各100枚、勅使の兼見にも銀50枚を贈った。だが、光秀寄騎で姻戚関係もある丹後の細川幽斎・忠興親子は信長への弔意を示すために髻を払い、松井康之を通じて神戸信孝に二心の無いことを示し、さらに光秀の娘で忠興の正室・珠(後の細川ガラシャ)を幽閉して光秀の誘いを拒絶した。また、同じく大和一国を支配する寄騎の筒井順慶も秀吉に味方した。ただし筒井に関しては秀吉が帰還するまでは消極的ながらも近江に兵を出して光秀に協力していた。また、詳細は後述するが、高山右近ら摂津衆を先に秀吉に抑えられた事が大きいとフロイスが『日本史』で指摘している。本能寺の変を知り急遽、毛利氏と和睦して中国地方から引き返してきた羽柴秀吉の軍を、事変から11日後の6月13日(7月2日)、天王山の麓の山崎(現在の京都府大山崎町と大阪府島本町にまたがる地域)で新政権を整える間もなく迎え撃つことになった。決戦時の兵力は、羽柴軍2万7千(池田恒興4,000、中川清秀2,500、織田信孝、丹羽長秀、蜂屋頼隆ら8,000。但し4万の説もあり)に対し明智軍1万7千(1万6千から1万8千の説もあり、さらに1万余りの説もある)。兵数は秀吉軍が勝っていたが、天王山と淀川の間の狭い地域には両軍とも3千程度しか展開できず、合戦が長引けば、明智軍にとって好ましい影響(にわか連合である羽柴軍の統率の混乱や周辺勢力の光秀への味方)が予想でき、羽柴軍にとって決して楽観できる状況ではなかった。羽柴軍の主力は備中高松城の戦いからの中国大返しで疲弊しており高山右近や中川清秀等、現地で合流した諸勢の活躍に期待する他はなかった。当日、羽柴秀吉配下の黒田孝高が山崎の要衝天王山を占拠して戦術的に大勢を定めると勝敗が決したとの見方がある。だが、これは『太閤記』や『川角太閤記』『竹森家記』などによるものであり、良質な史料(『浅野家文書』『秀吉事記』)にはこの天王山占拠が記されていないため、現在では創作とされている。また他には、秀吉側3万5千に対し、各城にも兵を残したため実数1万程度で劣勢であり、戦いが始まると短時間で最大勢力の斎藤利三隊3千が包囲され敗走し、早くも戦いの帰趨が決まった、との見解もある。また別の見方では、本来、明智勢は小泉川の後方に陣取り、天王山と淀川の隘路を進撃する細くなった秀吉軍を包み込んで包囲殲滅できるはずが、淀川沿いに指向して決戦を挑む秀吉軍の勢いを止めることができず、光秀は敗北したとされる。同日深夜、坂本城を目指して落ち延びる途中、落ち武者狩りの百姓に竹槍で刺されて深手を負った光秀は自害し、股肱の家臣・溝尾茂朝に介錯させ、その首を近くの竹薮の溝に隠したという。光秀の首は発見した百姓により翌日、村井清三を通じて信孝の元に届き、まず本能寺でさらされ、その後17日に捕まり斬首された斎藤利三の屍とともに京都の粟田口に首と胴をつないでさらされた後、6月24日に両名の首塚が粟田口の東の路地の北に築かれた(兼見卿記)。『太田牛一旧記』によれば、小栗栖で落ち武者などがよく通る田の上の細道を、光秀が十数騎で移動中、小藪から百姓の錆びた鑓で腰骨を突き刺されて最期と悟った光秀は首を守護を表す毛氈鞍覆に包んで知恩院に届けてくれと言い残したという。安土城で留守を守っていた明智秀満は、14日に山崎での敗報を受けて残兵とともに坂本城へ戻ったが多くが逃亡し籠城戦も無理だと判断して、光秀と自分の妻子を殺し、城に火を放って自害した。また、光秀の首は丹波亀山の谷性寺まで持ち帰られたともいわれ、谷性寺と光秀の墓がある西教寺の記録によると、光秀のものとして首実検に供された首級は3つあったが、そのいずれも顔面の皮がすべて剥がされていたという。光秀の辞世とされる偈や句が残っているが、いずれも後世の編纂物によるものである。光秀は美濃の明智氏の出身とされるが、前半生が不透明なこともあって以下の出自説が存在する。愛宕百韻とは、光秀が本能寺の変を起こす前に京都の愛宕山(愛宕神社)で開催した連歌会のことである。光秀の発句「時は今 雨が下しる 五月哉」をもとに、この連歌会で光秀は謀反の思いを表したとする説がある。「時」を「土岐」、「雨が下しる」を「天が下知る」の寓意であるとし、「土岐氏の一族の出身であるこの光秀が、天下に号令する」という意味合いを込めた句であるとしている。あるいは、「天が下知る」というのは、朝廷が天下を治めるという「王土王民」思想に基づくものとの考えもある。また歴史研究者・津田勇の説では「五月」は、以仁王の挙兵、承久の乱、元弘の乱が起こった月であり、いずれも桓武平氏(平家・北条氏)を倒すための戦いであったことから、平氏を称していた信長を討つ意志を表しているとされる。しかし、これらの連歌は奉納されており、信長親子が内容を知っていた可能性が高い(信長も和歌の教養は並々ならぬものがあり、本意を知ればただではおかないはずである)。また、愛宕百韻後に石見国の国人・福屋隆兼に光秀が中国出兵への支援を求める書状を送っていたとする史料が近年発見されたことから、この時点では謀反の決断をしておらず、謀反の思いも表されていなかったとの説も提示されている。なお、この連歌に光秀の謀反の意が込められていたとするなら、発句だけでなく、第2句水上まさる庭のまつ山についても併せて検討する必要があるとの主張もある(ただし、第2句の読み手は光秀ではない)。まず、「水上まさる」というのは、光秀が源氏、信長が平氏であることを前提に考えれば、「源氏がまさる」という意味になる。「庭」は、古来朝廷という意味でしばしば使われている。「まつ山」というのは、待望しているというときの常套句である。したがって、この第2句は、源氏(光秀)の勝利することを朝廷が待ち望んでいる」という意味になるという解釈がある。本能寺の変でなぜ光秀が信長に謀反をしたのか、さまざまな理由が指摘されているが、確固たる原因や理由が結論として出されているわけではない。以下に現在主張されている主な説を記す。光秀は小栗栖で死なずに南光坊天海になったという異説がある。天海は江戸時代初期に徳川家康の幕僚として活躍した僧で、その経歴には不明な点が多い。異説の根拠として、しかし、これらの根拠には以下の反証が挙げられている。明智氏は「明智系図」(『続群書類従』所収)によれば、清和源氏の一流摂津源氏の流れを汲む土岐氏の支流氏族であるとされており、おおよそ伝記・系図類ではこの見解は一致している。ただしその詳細な系譜や近親者については史料によって相違が甚だしく、並列に扱うことが難しい。発祥の地は、美濃国明智庄(現在の岐阜県可児市または恵那市)とされる。『続群書類従』所収の「土岐系図」による。頼尚以前と土岐定政の系統は『上野沼田 土岐家譜』とも共通する。妻は『明智軍記』などに記載のある糟糠の妻・妻木氏(煕子)が有名。俗伝として喜多村保光の娘、原仙仁の娘という側室がいたともある。本室の前に、山岸光信の娘(千草)に未婚で庶子を産ませたとする説もある。子女については俗説が非常に多い。
出典:wikipedia
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