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藤原忠衡

藤原 忠衡(ふじわら の ただひら)は、平安時代末期、鎌倉時代初期の奥州藤原氏の武将。奥州藤原氏第3代当主藤原秀衡の三男。第4代当主藤原泰衡の異母弟ですぐ下の弟。秀衡の館柳之御所にほど近い泉屋の東を住まいとしていた。父の遺言である義経保護を強く主張し、その扱いを巡り泰衡と対立、誅殺された。文治3年(1187年)10月29日、父・秀衡は平泉に庇護していた源義経を主君として推戴し、兄弟心を一つにして鎌倉の源頼朝に対抗するよう遺言して没した。忠衡は父の遺言を守り、義経を大将軍にして頼朝に対抗しようと主張するが、兄の泰衡は頼朝の圧力に屈して、義経とその妻子・主従を殺害。文治5年(1189年)6月13日、泰衡は義経の首を酒に浸して鎌倉へ送り恭順の意を示した。しかし、頼朝の目的は背後を脅かし続けていた奥州藤原氏の殲滅にあり、これまで義経を匿ってきた罪は反逆以上のものとして泰衡追討の宣旨を求めるとともに全国に動員令を発した。鎌倉方の強硬姿勢に動揺した奥州では内紛が起こり、忠衡は父の遺言を破った泰衡に対して反乱を起こした(或いは反乱を計画した)と考えられ、忠衡は義経に同意したとして、意見が対立した泰衡によって誅殺された(『吾妻鏡』文治5年6月26日条)。享年23。更に『尊卑分脈』の記述によれば、五弟で忠衡の同母弟とされる通衡も共に討たれている。「奥州に兵革あり」と記録されている事から、忠衡の誅殺には軍事的衝突を伴ったと見られる。妻の藤の江(信夫荘司・佐藤基治娘)は、忠衡の菩提を弔うため、薬師如来像を奉納して出家し、妙幸比丘尼と称した。なお、中尊寺金色堂内の秀衡の棺内に保存されている首は寺伝では忠衡のものとされ、首桶が入っていた木箱にも「忠衡公」と記されていた。しかし、昭和25年(1950年)の実見調査で確認された晒首痕跡から、16箇所もの切創や刺創が認められた。なかでも鼻と耳を削がれ、眉間から鼻筋を通り上唇まで切り裂かれた痕跡が確認され、この痕跡と首には眉間と後頭にある直径約1.5cmの小孔が18cmの長さで頭蓋を貫通した傷跡があり、八寸(24cm)の釘を打ち付けたとする『吾妻鏡』の「泰衡の首級は眉間に鉄釘を打ち付けられた」という記述と一致したため、現在では兄・泰衡のものとするのが定説化している。このような誤伝がなされていたのは、義経の「判官贔屓」の影響とされる。つまり、「父の遺言を守り悲劇の英雄・義経を支持した忠衡こそ、真の4代目たるべし」という心情である。また、逆賊(謀反人)の汚名を被った泰衡が鎌倉軍が管理していた金色堂に納められる訳がないという長年受け継がれてきた思い込みからの推測も理由として挙げられる。研究者の間では謀反人である泰衡が葬られることを近親者(樋爪俊衡・季衡との推測がある)が憚ったため、首の主を「忠衡」ということにしたという憶測もある。『岩手県姓氏歴史人物大辞典』には、「奥州藤原氏系の中野氏は、祖先は藤原秀衡の三男藤原忠衡の子孫が北海道に居住」と書かれている。つまり姓氏に関する限り、忠衡に近い血脈の人物が蝦夷に逃れた事になる。宮城県塩竈市の鹽竈神社に、忠衡が寄進したとされる燈籠が現存している。「文治の燈籠」と呼ばれている鉄製の燈籠がそれである。松尾芭蕉が「奥の細道」に書き残したところによると、扉に「文治三年七月十日和泉三郎忠衡敬白」とあったそうである。忠衡がこの鹽竈神社のある地域と関連を持っていた可能性も考えられる。塩竈市は、古くは陸奥国府があった多賀城への荷揚げ港として栄えている。もし忠衡がこの地域と深い関わりを有していたのだとすれば、対国府の折衝などを担っていた可能性もある。

出典:wikipedia

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