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久保田藩

久保田藩(くぼたはん)は、江戸時代の藩の一つである。秋田藩(あきたはん)とも呼ばれる。久保田城を居城とした。藩主は佐竹氏で、室町時代以来の常陸守護の家柄であったが、関ヶ原の戦いにおける挙動を咎められて出羽国(後の羽後国)秋田へ移封された。石高は約20万石(実高は約40万石)。家格は大広間詰国持大名。支藩として、新田分知された家が2家有る他、2代義隆の実家亀田藩(岩城氏)が事実上の支藩となっていた時期もあった。秋田・仙北地方は戦国期には秋田氏・戸沢氏・六郷氏・小野寺氏などが治めていたが、関ヶ原の戦い後の1602年に秋田氏の宍戸を始めとして多くが常陸国へ転封となり、代わって佐竹氏が入封する事により近世大名支配が始まった。久保田入封以前の佐竹氏は常陸一国54万石の大身大名であったが、久保田藩の表高は当初明示されず、60年以上経った寛文4年(1664年)4月2日付で、秋田郡・檜山郡(後の山本郡)・豊島郡 (後の河辺郡)・山本郡(後の仙北郡)・平鹿郡・雄勝郡、及び飛び地の下野国河内郡・都賀郡11ヶ村、計20万5800石と決定された(このうち平鹿・雄勝両郡は入封直後に山形藩との領土交換で得た。また下野国の飛び地は、慶長10年(1605年)に幕府から追加で与えられた)。そのため、常陸以来の膨大な家臣団を抱えて財政は慢性的に苦しい状態が続き、宝暦4年の藩札発行に起因する佐竹騒動を初め政の混乱や領民の一揆が多発した。そんな中でも歴代藩主は文教事業に熱心に取り組み、三代義処による藩史編纂局「秋田史館」創設、八代義敦(曙山)による「秋田蘭画」創設、九代義和による藩校「明徳館」設立などの業績が知られている。明治維新に際しては、当初は奥羽越列藩同盟に参加していたが、平田篤胤の思想をなぞる尊攘派が形成されていたこともあり、仙台藩の使者を斬ったうえ明治政府側に寝返った。尊攘派の中心は吉川忠行・忠安親子であり、忠安は雷風義塾に学んでいた。忠安は『開花策論』において尊皇思想を説き12代藩主佐竹義堯がこれを容れたための、一藩での官軍参加であった。これによって列藩同盟の攻撃を受けたものの、明治政府が派遣した佐賀藩兵の助けもあって持ちこたえた(秋田戦争)。四面楚歌の状況下で錦の御旗を守ったこの事実は成田為三作曲の「秋田県民歌」の三番にも記されているが、戊辰戦争で朝敵とされた旧南部領である鹿角郡や旧亀田藩の流れをくむ由利本荘市の一部(旧岩城町)などではこの部分が忌避されている。1868年6月11日(慶応4年閏4月21日)発布の政体書に於いて府藩県三治制が布かれ、佐竹氏の地方政権が正式名称として「久保田藩」になった。しかしこの地方の古来よりの呼称は「秋田」であり、「久保田」は300年来の称とはいえ一小村の俗称に過ぎないとして、1871年2月27日(明治4年1月9日)に政府へ藩名変更の願書を提出し、同年3月3日(明治4年1月13日)に久保田藩を秋田藩と改めた。これが同年8月29日(明治4年7月14日)の廃藩置県で「秋田県」が置かれることに繋がった。藩政初期は山からの収入が大きな柱とされていた。鉱山としては院内銀山・阿仁銅山などが稼働していたが、17世紀には産出量が激減し、銅山のみの稼働となる。林業では軍艦・城用木材として秋田杉が有名で、家老渋江内膳の「国の宝は山なり」との言葉が残されている。だが乱伐によって林業も一時衰退し、林政改革が必要になった。久保田藩にとってもう一つの財源は米であり、数度に渡る検地を実行し、年貢率を定めた「黒印御定書」を各村に配した。天明3年の大飢饉で荒廃した耕地の再生のため、荒廃地であれば直轄地、家臣知行地問わず耕作を認めた。さらには藩政を通じて新田開発に注力し、家臣団が開発した新田は全て家臣団の知行地とすることで開発への意欲を高めた。藩財政が逼迫するにつれ、それは三分の一が辛労免高となる注進開に制度を改められるものの、その努力の結果、1729年(享保14年)には実質石高が38万石を超えた。ただし、知行地のほぼ7割が家臣団の地方知行地であり、また農村に投機した富農・商人と貧農との格差が広がった。殖産興業にも努め、能代春慶塗、川連漆器などの特産品育成と同時に、杉・漆・煙草・菜種を始めとする換金作物も奨励した。しかし、同時に農民らが稲作を疎かにすることを案じ、農民の売買には重税を課した。これにより農民が商人と化すことを防いだが、商業において目覚しい発展を遂げることはできなかった。養蚕産業に藩主導で手を出し、3,000両の借財を残して撤退したこともある。これらの税収があった久保田藩だが、実情以上の家臣団と彼らの占める知行地により、財政は常に圧迫されていた。1721年(享保6年)には家老の今宮大学が組織の簡略化と家臣からの知行借上、畑作の奨励などの実施に乗り出し、一部成功した部分はあるものの、財政難を根本的に解決することができなかった。1753年(宝暦4年)に銀札仕法を制定。これは藩が発行する銀札で銀を買い上げようとする制度だったが、結果として銀札は大暴落し、それと匁が連動していたため物価の高騰を招いた。翌年の大凶作はそれに拍車をかけ、宝暦7年、藩内で銀札推進派と反対派の内紛を引き起こした。紆余曲折の末に推進派を死罪に処すなどしてようやく解決された。久保田藩では四年に一度の頻度で凶作に見舞われ、その度に藩財政は打撃を受け、荒廃した土地を生み出した。特に1833年(天保4年)の大凶作は「巳年のケカチ」と言われ、藩の人口のうち4分の1が餓死したとの記録がある。戊辰戦争では周囲の奥羽列藩を敵としたこともあり、戦火にさらされて軍事費の面でも藩財政を締め上げた。蚕、漆蝋、木材が久保田藩の専売品であった。入封当初は、秋田氏の居城であった土崎湊城に入り、初代義宣の父義重を六郷城(秋田県美郷町六郷)に配するなど、横手・大館・能代・十二所及び角館などの要所にそれぞれに佐竹一族や有力家臣を配置した。これは反佐竹一揆が各地で勃発していたからである。その後、佐竹義宣は秋田郡保戸野に新城を築城し本拠とした。この地は北東と東を山で遮り、旭川を掘り換えて西側外堀とした。羽州街道を西に配したことから四神相応の地に近しいものとした。本丸を含む城域は現在の千秋地区がそれに相応する。久保田城下町は外町(とまち)と呼ばれる町人町が現在の大町・旭北及び旭南の地域に配された。しかし侍町及び足軽町は城下周辺の中通・南通・楢山・保戸野・手形・川口に配置され、その範囲は町人町より広い。久保田城下が侍の町である証左であろう。1885年(明治18年)に行われた人口調査によると、当時の秋田町(久保田町から改称)の総人口30,254人のうち士族は13,444人(44.4%)で、秋田県全体の総人口642,930人のうち士族は34,947人(5.4%)であった事と比べて明らかに士族が集中している事が判る。これは一般士族が生活に困窮し城下町から離散し始めた時期の調査であるため、廃藩置県時点での士族人口比は更に高く半々程度であったと考えられている。その後、幕府より一国一城令が発せられ多くの城は取り潰されるが、久保田藩は久保田の本城以外に、横手と大館の2城の存続を許される。これらは久保田藩の地方統制の一環に貢献した。この城や館に配された重臣は所預(ところあずかり)と呼ばれ、彼らも各自の家臣団を率いていたため、城地は小城下町として栄えた。なお、佐竹一族には本家の他に有力な4家があり、常陸時代の拠点の位置に由来してそれぞれ東家、西家、南家、北家と呼ばれる。西家(小場氏、後に佐竹姓を許される)は大館、南家は湯沢、北家は角館に配され、東家は4家の筆頭として久保田城下に常住した。このように久保田藩では近世に入っても、地方知行制が強く行われており、藩政中期以降は藩主の権限強化の動きに対し内紛の元となることもあった。なお、佐竹4家に藩主の相続権はなかったが、支藩の養子を経て藩主を相続したケースはある。4家の子孫としては、東洋製作所元社長佐竹義利が東家第18代当主、秋田県知事佐竹敬久が北家21代当主である。以下、家老になりうる家を家格順に記す。但し廻座は本家のみ記載し、引渡分家を割愛した。 佐竹義隣-義明-義命-義拠=義邦-義躬-義文-義術=義許=義倫=義尚 小場義成-義易=佐竹義房-義武=義方=義村-義休-義種-義幹-義茂-義遵-正一 戸村義国-義宗-義連-義輔(義寛)-義見-義孚-義敬-義通-義效-義得今宮道義-義賢-義教-永教=義透(弟)-義敷=義栄(弟)-義雄 佐竹義章-義著-義敞-義安-義伯=義持(義安の子)=義舒(義伯の子)=義以(※早川処久の子)-義良-義珍-義孟-義誠=義隣(※早川睦友の子)=義雄(※早川珍保の子)-義質=義輔(義質の弟)

 (※早川氏は佐竹義種の次男・宣直を祖とする佐竹氏一門。尚、早川珍保は義珍の子で義孟の実弟である。) 宇都宮宗安(結城朝勝)=光綱(真壁氏幹の甥・重幹の次男)-亮綱=典綱-充綱=武綱(佐竹義智の次男、のちの佐竹義路)=章綱=孫綱-重綱-孟綱 多賀谷宣家=隆経(彦太郎)=隆家(隆経の実弟)ー隆経(将監)=格重(戸村処風の子)=峯経(格重の実弟)=峯章(戸村義見の三男)ー敦敬=敦候(佐竹義智の三男)ー和経ー厚孝ー睦貞=睦昭(睦貞の弟、のち家知) 伊達盛重=宣宗(佐竹義久の子)ー隆宗ー処時=処宗(佐竹義秀の子)ー峯宗ー敦宗=敦重(敦宗の実弟)ー和宗 渋江政光-宣光=光久=隆光(佐竹義章の子)=処光=格光-峯光-局光=明光-敦光=和光-厚光 疋田定盛-定靜-定常-定綱(厚綱)-定紀-定経江戸藩邸は宝永年間当時は上屋敷が下谷七軒町(現在の台東区台東、佐竹商店街周辺)、中屋敷が鳥越、下屋敷が深川にあった。幕末には下谷七軒町に上屋敷、神田佐久間町と本所十間川に中屋敷が、鳥越、本所中之郷、日暮里に下屋敷があった。また、大坂布屋町に大坂藩邸、京都柳馬場通四条上ルに京都藩邸を持つ。本国における菩提寺は万国山天徳寺である。藩主や藩士が江戸で死去した場合には、橋場の妙亀山総泉寺を菩提寺とした。岩崎藩(いわさきはん)は久保田藩の支藩。明治維新以前は久保田新田藩(くぼたしんでんはん)あるいは秋田新田藩(あきたしんでんはん)といった。元禄14年(1701年)に久保田藩第3代藩主・佐竹義処が弟の壱岐守義長に新田2万石を蔵米で分知したことに始まる。特定の領地を持たず、久保田藩が蔵米を支給する完全な支藩であり、本藩との結びつきは強かった。藩主は江戸定府で、浅草鳥越に上屋敷を構えて居住していたため、鳥越様と呼ばれた。公家衆御馳走役や駿府加番を勤めた際には久保田藩から援助を受けていたが、久保田藩の財政悪化に伴って蔵米の支給が滞ることがあった。幕末、王政復古により江戸定府の必要がなくなると、8代藩主義諶も国入りし、慶応4年(1868年)3月、河辺郡椿台(現在の秋田市雄和椿川)に独自の椿台陣屋を構えることになった。しかし陣屋建設前に戊辰戦争が勃発したため、久保田藩とともに奥羽鎮撫隊(新政府軍)側に立って庄内軍と交戦し、椿台は激戦地となった(椿台の大会戦)。明治2年(1869年)6月、改めて岩崎(現在の湯沢市岩崎)へ移転して「岩崎藩」と改称し、岩崎藩陣屋を構えた。この時周辺に初めて所領を持った。歴代藩主は以下の通り。江戸藩邸は浅草鳥越の上屋敷のほか、池之端に中屋敷が、小石川大塚に下屋敷があった。久保田新田藩(くぼたしんでんはん)は、久保田藩の支藩。元禄14年(1701年)に久保田藩3代藩主・佐竹義処が甥の式部少輔義都に新田1万石を分与したことに始まる。享保17年(1732年)に義都の子・豊前守義堅が宗家の養子となったため廃藩する。定府大名。歴代藩主は以下の通り。江戸藩邸は、上屋敷が深川高橋、下屋敷は深川元木場にあった。亀田藩(かめだはん)は、出羽国由利郡亀田に政庁を置いた藩。久保田藩の支藩ではないが、一時的に支藩同然の扱いをされたことがあるため、久保田藩との関係を主として概要をここに記載する。元和8年(1622年)に山形藩主最上氏が改易され、翌元和9年(1623年)に旧最上領のうち亀田へ岩城氏が信濃中村藩から2万石で転封されたことにより成立した。初代藩主・岩城吉隆は久保田藩初代藩主である佐竹義宣の甥であり、後に嫡子がいなかった義宣の養子になって佐竹義隆と改名し久保田藩を嗣いだ。代わって2代亀田藩主となった宣隆も義宣の弟(義隆の叔父)であり、4代藩主秀隆までは佐竹氏の親族であった。そのため検地や城下建設など初期の藩政へ、久保田藩から全面的な支援を受けた。しかし、領国経営が安定してからも久保田藩は度々藩政に干渉し、独立した大名であるにも関わらず亀田藩は支藩同然の扱いをされた。また、雄物川舟運を巡っての対立もあり、両藩の関係は次第に悪化していった。5代藩主隆韶以降は仙台藩主伊達氏から養子を取っており、佐竹氏との血縁関係は無くなった。慶応4年(1868年)の戊辰戦争では、当初奥羽越列藩同盟に加盟したものの、12代藩主隆邦は朝廷の上洛命令に奥羽諸大名の中で唯一従い明治天皇に拝謁したほどの勤王派であったことから、久保田藩などとともに同盟を離脱し奥羽鎮撫隊(新政府軍)側についた。しかし、先鋒として最前線で酷使されたこと、監軍・山本登雲助(山口藩士)の横暴な振舞いに耐えかねたこと、庄内軍の猛攻に怖気づいた山本が本荘・亀田を見捨てて秋田へ退却したことにより、亀田藩は庄内藩と和議を結んで再度列藩同盟に加入し、久保田藩を攻撃した。結果的に朝敵となったため、山本に命じられた久保田藩兵の放火によって亀田城は焼失したが、降伏嘆願書を受領した黒田清隆によって難儀な事情を考慮され、隆邦の隠居と2,000石の減封という寛大な処分で済まされた。上記のほか、明治維新後に千島国国後郡が加わった。

出典:wikipedia

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