緒方 孝市(おがた こういち、1968年12月25日 - )は、元プロ野球選手(外野手)、監督である。から広島東洋カープ監督。佐賀県立鳥栖高等学校では3年春の九州大会でベスト8、夏は全国高等学校野球選手権佐賀大会でベスト4。1986年のドラフト会議で広島東洋カープが3位指名で交渉権を獲得し契約金3000万円、年俸360万円(金額は推定)で入団合意した。プロ入り直後に外野手へ転向。に一軍出場を果たし、オフにペニンシュラ・パイロッツへ野球留学した。には102試合に出場し、日本シリーズでも先発メンバーとして出場するなど、早くから期待を集めるが、毎年のように怪我に泣かされていた。には母が死去する不幸に見舞われたが、アキレス腱断裂によって離脱した前田智徳の穴を埋め、レギュラーに定着。監督の三村敏之は「緒方の母は緒方を二度生んだ」と発言、話題となった。規定打席不足ながら打率は3割を超えリーグ8年ぶりとなる40盗塁以上を記録し、47盗塁で盗塁王を獲得した。にはリーグ11年ぶりとなる50盗塁を記録し、オフに4歳年下の中條かな子と結婚。その後、までリーグタイ記録(当時)となる3年連続盗塁王を獲得。この3年間で計146盗塁を記録したが、その間の盗塁失敗は僅か26だった(成功率.849)。は右方向への打撃を習得し、開幕から高打率を記録。6番という打順の関係もあったが盗塁数も順調に伸び、当時のリーグ新記録となる4年連続盗塁王に加え、首位打者・打点王も視野に入る程の好調だった。本塁打も量産したことでトリプルスリーへの期待も高まったが、6月12日の阪神タイガース戦(阪神甲子園球場)の9回裏に、八木裕が放った飛球を追って柵によじ登ろうとして跳び蹴りを加えた際に右足首を捻挫して離脱。1ヶ月半後に復帰し、復帰後も高打率は維持したものの、本塁打・打点・盗塁に関しては数字が伸びなかった。は開幕から本塁打を量産。打率も3割を越えて自身初の3割30本塁打を記録。また、この年だけで初回先頭打者本塁打を8本放ち、日本タイ記録を作ったが、前年の捻挫の影響から盗塁数は伸びなかった。2年連続となる打率3割に加え、自己最多の36本塁打、4割を超える出塁率、さらに5年連続のゴールデングラブ賞を獲得したものの、「自分らしさがなく最悪のシーズンだった。打撃が良かったのがせめてもの救い」と、走塁への意識の高さが伺える発言をしている。同年オフ、FA権を獲得した。読売ジャイアンツ・福岡ダイエーホークスを筆頭に、多くの球団が「宣言すれば獲得に乗り出す」意思を表明した。長嶋茂雄も「一番欲しい選手」と熱烈なラブコールを送り、巨人入りが既定路線のように報道されたが、1996年に結婚した中條かな子が広島出身で、彼女の希望もあって残留した。残留に際し、「広島という土地柄にもファンにも愛着があるし、熱いものを感じる」と語った。から選手会長に就任し、チームの顔となった。にかけて大きな故障に苦しみ、出場試合数が激減した。故障箇所の多くが下半身だったこともあり、この2年間を境に盗塁数が激減する。には中堅手のレギュラーとして復活した。怪我や年齢的な衰えが懸念された打撃は、開幕から安定した数字を残し、打率.300と自身3度目の3割、25本塁打を記録。は開幕から極度の不振に落ち込むも、4月末に放ったサヨナラ本塁打を機に急上昇し、2年連続の3割(.300)、29本塁打を放ち、自身最多となる82打点を記録した。最終戦となった10月12日の対ヤクルトスワローズ戦(明治神宮野球場)では、試合前時点での成績は打率.297、29本塁打で、3割には最低でも4打数3安打以上の成績が必要だった。2打席目から3打席連続安打を放って3割を達成、3本目の安打は柵最上部に直撃する二塁打で、あと少し飛距離が伸びていたら30本塁打も同時に達成していた。以降も打撃面では安定した成績を残した。同年オフに椎間板ヘルニア手術を行なったため、の開幕戦出場が危ぶまれたが、オープン戦で復帰。開幕直前の試合で、中堅への大飛球を好捕した際に肩を打撲したことで出場が絶望視されたが出場を果たし、9回表にダン・ミセリから決勝本塁打を放った。この年からセ・パ交流戦が開始されたが、5月21日の対東北楽天ゴールデンイーグルス戦で戸叶尚から顔面に死球を受け、左眼窩を骨折した。しかし、翌日から通常通り練習に参加、その次の試合では代打で復帰するなど鉄人ぶりも見せている。は4月だけで2本の初回先頭打者本塁打を放つが、5月4日の対東京ヤクルトスワローズ戦で五十嵐亮太から死球を受けて負傷退場。検査の結果、右手薬指開放骨折で全治4週間の診断を受け、登録を抹消された。同年7月16日の対横浜ベイスターズ戦でプロ初の抗議を行なったが、マーティ・レオ・ブラウンが制して退場は免れた。は開幕から先発出場するものの、調子が上がらずに控えに回ることも多かった。復調し始めた矢先に右肘を痛めて登録を抹消されるなど、苦難のシーズンとなった。そのため契約更改では、球団側に引退を考えていることを告げたが引き止められ、翌年からコーチ兼任ながら現役を続行することとなった。5月25日の対千葉ロッテマリーンズ戦(広島市民球場)で8回に代打として出場し、ウィンストン・アブレイユから逆転本塁打を放った。この本塁打は、セントラル・リーグ通算代打本塁打1500号となった。には加齢と積年の怪我による足腰の衰えや、新たな右肘の故障による不振によって活躍できず、同年10月1日に現役引退を表明。翌年から野手総合コーチ就任を打診された。引退試合となった10月10日の対読売ジャイアンツ戦(MAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島)で8回表より守備に就き、木村拓也が放った中堅飛球を捕球した。その裏の現役最終打席では三塁打を放ち、有終の美を飾った。は広島の野手総合コーチとして一塁コーチ、2011年から2012年までは守備走塁コーチとして三塁コーチ、は一軍打撃コーチを務め、は野手総合コーチ(ヘッド格)を担当。4月22日の対ヤクルト戦で監督の野村謙二郎が判定を巡って5分以上の抗議で遅延行為で退場になった際には、監督代行として指揮を執った。2014年10月15日に野村の後任として広島の監督に就任することが発表された。監督1年目のは4位に終わった。投打守のチームWAR合計が1位でありながらBクラスとなるのは史上初である。このシーズンを振り返って、翌年緒方は「去年の俺にはばかだと言ってやる」と述べている。
出典:wikipedia
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