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名古屋環状2号線

名古屋環状2号線(なごやかんじょう2ごうせん)は、愛知県名古屋市の外周部を通り、名古屋市を中心に放射状に伸びる幹線道路と主要地点で連結する、延長約66.2km(専用部66.2km・一般部58.6km)の環状道路である。名古屋圏において東海環状自動車道とともに2つの環状道路と位置づけられている。名古屋環状2号線は、名古屋都市圏の環状道路の一つとして計画された。名古屋における環状道路は、従来は名古屋市道名古屋環状線があったが、都市圏の過密化対策、および、東西経済圏を直結する高速道路(名神、東名)や北陸地方と名古屋港を連絡するために、もう一つの環状道路を造る必要が生じた。このため、第2の環状道路が名古屋環状線の外側に建設されたが、これが名古屋環状2号線である。自動車専用道路部分である専用部と、一般国道部分である一般部を併設する構造として設計されている。当該道路は名古屋市の金山を中心とした東西約15km、南北約20km、総延長66.2kmの環状道路である。その役割とは環状道路の三大機能(通過交通の都心乗入れを防ぐ機能、郊外から都心部へ流入する交通の分散導入、放射道路の内の1本が通行止めになった場合の迂回機能)のほかに、物流拠点をはじめ各種工場、市街地を環状道路周辺に呼び込むことで無秩序な開発を防ぎ、計画的な街造りと経済発展に寄与する都市開発機能および、電気、ガス、電話などの管、ケーブルを収容する共同溝を併設し、災害対策や街の美観を維持する役割も併せ持っている。名古屋環状2号線は計画段階では名古屋市と愛知県によって計画推進されたが、1969年から1974年までの間に国道302号に路線指定され、国の直轄事業となって以降は建設省(現・国土交通省)の手によって建設された。また1979年に名古屋港にかかる斜張橋、および1982年には陸上区間の専用部が日本道路公団(現・NEXCO中日本)によって事業化されている。専用部である名古屋第二環状自動車道(名二環)は全線に渡って国道302号に併設され、インターチェンジの出入口も全て国道302号と接続している。名二環と重複しない区間については伊勢湾岸自動車道の一部区間が重複している。専用道路については原則高架であるが、東側部分(松河戸IC - 名古屋南JCT)については起伏の変化が激しい地形であるため、半地下およびトンネル構造を組み合わせている。一般部(国道302号)は原則として片側2車線の本線車道、植樹帯や遮音壁、サービス道路(ない区間もある)および歩道が整備される計画となっている。併設する専用部が未開通の供用区間についても、その建設が前提の構造になっている。現在、自動車専用道路は名古屋西JCT - 飛島IC間(楠JCT経由)の54.3kmが開通しており、一般道路は2011年3月28日に春日井市新地蔵川付近の開通により、陸上部の全線55.6kmが開通した。名古屋環状2号線の標準断面図を以下に示す。左が高架構造、右が半地下構造である。図は代表的な構造で場所により違いが生じる。一般部の上または下に高速道路(専用部)が配置される2階建て構造の道路である。専用部は近畿自動車道伊勢線、近畿自動車道名古屋亀山線、第二東海自動車道横浜名古屋線、近畿自動車道名古屋神戸線、一般国道302号(有料道路区間)より構成されている。一般部は全線が国道302号として供用中または事業中であり、一部の案内標識では、環状2号と表示されている。名古屋環状2号線(以下、環状2号と表記)の計画が名古屋市より公表されたのは1962年1月の名古屋市将来計画基本要綱であるが、実はそれ以前から環状道路の必要性については関係者の間で構想されていた。折しも名古屋市は六市町村(猪高村、天白村、南陽町、富田町、山田村、楠村)の合併を終えた直後であり、これらの区域の土地利用を定める1957年9月の都市計画決定にあたって、土地の一部を道路として計画し、将来、それらの道路をつなぎ合わせて環状道路となるように都市計画街路として決定されたのが環状2号の原初の姿であった。なお、名古屋市の街路における復興都市計画決定は1946年から1968年までに30回以上実施されており、1957年9月の都市計画決定もその内の一つである。よって、流れの中のひとつの追加決定に過ぎないが、これが環状2号の始まりであった。この時は幅員25m規格の街路として決定されている。なお、都市計画決定された路線の一部は、現在よりも内側に計画されていた。1958年4月には、国土総合開発計画の関連で策定された愛知県地方計画において、東西両経済圏を直結する高速道路(当時は計画中で、のちの名神、東名高速)と名古屋港を直結すること、および、都市部の交通集中を防ぐための名古屋市周辺部をめぐる高速循環道路の計画、発想が盛り込まれた。計画当時は、人口の都心部への集中と急増の背景があり、この増加に対応するために雇用を拡大することは勿論、産業の立地においても高い生産性を維持する必要から合理的な配置が求められた。そして、将来の産業発展を指向していくためには、工業の原材料を輸入に頼り、また外国貿易に依存する必要もあって、特に港湾整備、および臨海、内陸の両工業の連携は重要であった。それゆえ、名古屋港と連携する産業を合理的に配置するとともに、港と周辺産業地帯、都市を円滑に結ぶ必要から高速循環道路が提唱されたのであった。だが、当該計画における高速型の循環道路は構想に過ぎず、具体的な計画性を帯びるのは1962年以降であった。一応、関係者の間では1957年時点で幅員100mの壮大な環状道路の計画が討議れていたとされるが、公の情報としては当時の愛知県知事と名古屋市長による対談をはじめ、市内に大循環道路を計画、調査する旨の大まかな内容が新聞紙上に掲載される程度であった。よって、以下に見る環状2号の必要の理由が示されるのは後年発表された資料によるものである。太平洋戦争で日本が敗戦してのちの経済復興は目覚ましいものがあり、それは自動車の普及ともなって現れた。ところが普及率が予想よりも急激で、その状況に道路が対応していなかったために需給バランスが著しく偏ることになった。各地の幹線道路は受け入れ容量過多で渋滞が発生して身動きがとれず、それを迂回した車が生活道路に侵入するに及んで近隣住民に危険が差し迫るようになった。特に人口と産業が一極集中する都市部に至ってはその傾向が顕著であり、大都市であるために引き起こされる弊害に対して抜本的な対策が求められた。なお、名古屋圏において激増する自動車交通を分析したところでは次の3要素の交通が混合していることが判った。しかし、当時は郊外と名古屋市内を直線で結ぶ放射道路が主体で、3種類の交通はここに集中することで渋滞が発生した。学識経験者の中にはマイカー規制や大量輸送機関(地下鉄、新交通システム)を整備することで渋滞を減少させることが可能と主張する者もいたが、名古屋圏の特徴は営業車やトラックなどの業務交通が一定の規模を占めることで、買い物やレジャーなど公共輸送機関に振り替え可能な交通ばかりでないことは想定しなかった。これは中部の産業構造に由来するもので、本社機能が少なく加工販売業が多いことから生産、商業目的の業務交通がどうしても一定の規模を占める下地がある。この点、東京や大阪は本社機能があって都心の移動は少なく済むなど事情が異なる。また、中部圏は名古屋を中心に四日市、岐阜、一宮、小牧、瀬戸、豊田、岡崎、刈谷、東海に見る生産都市があり、ここに位置する工業と名古屋との活発な流通は道路混雑に一層の拍車をかけることになった。なお、東京や大阪では都市を取り巻く周辺地域は主としてベッドタウンであることから、この点でも中部とはだいぶ事情が異なっていた。さらに、流通の活発化にも増して、所得水準の向上によって、マイカーもまた爆発的に普及したことで、都心部の交通混雑は年を経るごとに悪化の道を辿ることになった。自動車の増加もさることながら、当時の名古屋圏の道路率はあまり高いとは言えないことで、なおのこと既存道路に交通が殺到する状況に陥っていた。都心では100m道路に代表される広幅員道路が整備されていたが、それが緑区や守山区、港区の周辺地域では低水準であった。こうした道路事情からこの先の自動車の激増を予想するとき、やがては飽和状態に達して経済活動が行き詰まることが心配された。こうした問題に加えて、東京 - 神戸間の高速道路が開通したあかつきには、名古屋市内に大量の流入交通が殺到することが予想され、道路新設等、何らかの対策が必要とされた。中部経済圏の発展には、名古屋港とそれを取り巻く周辺工業の発展は欠かすことが出来ない。しかし、上述の道路事情による交通麻痺が発生しては、市民生活はおろか経済発展まで阻害されるおそれがあった。こうした危惧を払拭するために、新たな放射道路と複数の環状道路を設けることが画策され、これは1962年1月に「名古屋市将来計画基本要綱」として発表された。その中の道路構想図において、放射道路とそれを短絡する複数の環状道路が描かれており、特に名古屋市道名古屋環状線を環状1号、その外周部の環状道路を環状2号と表している。環状2号は名古屋港の西部臨海工業地帯(港区)を起点として、名四国道、国道1号、国道22号、国道41号を経由しながら南部臨海工業地帯(東海市)を結ぶ環状道路として構想されている。環状2号の役割とは、名古屋港と内陸工業地帯の円滑な連絡、および、通過交通を名古屋市内から締め出すこと、および放射状幹線道路を受け止めて交通の分散導入を図ることである。さらに、環状2号の内側にはサの字型に都市高速を配置し、名古屋市内を長く走る自動車、或は市域外から都心へ流入する自動車は都市高速へ収容することで、環状2号と一体となって市内幹線道路の渋滞解消に資することを企図している。なお、関係機関の間では、環状2号のマルと都市高速のサの字を合わせ、マルサ計画と呼称のうえで、二つの道路が一丸となって計画実現に向けて動き出すことになった。1965年11月には名古屋環状二号線開発公社を設立のうえ用地の取得に乗り出した。なお、取得に際しては土地区画整理事業に相乗りして得た用地もかなりの距離におよび、特に名古屋市北部と春日井市におけるエリアでは、広幅員の環状道路と並行する鉄道線(国鉄瀬戸線、現在の東海交通事業城北線)の用地を長い距離に渡って取得しえたのも土地区画整理事業との一体的な計画による効用である。建設省や自治体における打ち合わせも活発化し、最終的なルートの選定、ならびに高速道路規格の路線の設定やインターチェンジの位置と構造を詰めて都市計画決定に向けた準備を推し進めた。そして1967年に至り、これまで得た提言や調査結果を踏まえて、名古屋環状2号線として都市計画決定されるに至った。ただし、今回決定されたのは全体の3分の2で、残りは市域外における自治体の同意が得られなかったことや、海上部の路線計画が未決定であることから、後日改めて決定することになった。また、路線については1957年以降に計画された街路を概ね踏襲することとしたが、東南部の高針から東海市にかけてのルートは天白川にほぼ並行していたものを、外へ膨らませて現状のルートとされた。計画路線から外された区間は愛知県道59号名古屋中環状線の一部として幅員25mのままで利用されている。この決定にあたって幅員を従来計画の25mから50 - 60m(北部は72m)に拡大し、道路中央に設計速度80km/hの高速道路(往復6車線)を併設することとした。同年9月には飛島村、1968年10月には残りの区間が都市計画決定され、66.3kmのうちの56.4kmが環状2号となった。残る9.9kmのうち、1.3kmは土地区画整理事業の完了を待っての決定、残る8.6kmは海上区間のため、今後の港湾計画に沿って検討されることになった。さらに1969年から1974年までに全線が一般国道302号に路線指定され建設省直轄事業路線となった。このように環状2号は幅員25mのローカル環状道路の位置付けから、やがて50 - 60m、場所によっては80mの広幅員道路に拡大され、国の直轄工事による国道302号に昇格のうえ高速道路まで並設する幹線道路に変節することになった。また建設省は環状2号が東名と東名阪および各主要国道を直結することや都市基盤強化につながる重要性を鑑み、主要国道以外の国道は維持管理について地方自治体の責任と費用負担としているものを、国道302号については工事のみならず維持管理までも国が直轄で行う指定区間とすることを決定している。なお、環状2号の国道昇格と国の直轄施工は、1965年に名古屋第二環状線整備促進協議会が定めた将来目標に端を発している。会は間もなく解散したが、目標は名古屋環状二号整備促進期成同盟委員会に継承され、さまざまな運動の末に実現を見たものである。一方で都市高速の構想については、建設省の意向から地方道路公社方式で建設されることになり、1970年に名古屋高速道路公社を設立のうえ建設を推進することになった(公社設立の経緯は名古屋高速道路#歴史を参照)。よって、放射道路(都市高速道路)と環状2号はほぼ同時期の構想でありながら、建設、運営主体の相違などそれぞれが別の方向を歩むことになった。建設は1973年11月より北部区間から着工され、1980年4月に開通した。これを皮切りに虫食い的に各地で開通して少しずつ路線を延したが、全線が繋がったのは2011年3月のことで、最初の着工から38年を要した。ここまで事業が遅れたのは都市近郊ゆえの用地取得の難しさと自動車公害を懸念する地域住民の建設反対運動、交差する鉄道の立体交差事業の遅れ(勝川、喜多山地区)によっている。また、環状道路の有用性が当時の人々に理解し辛かったことで住民理解に労力を費やした事情もあった。日本では道路といえば郊外と都心を直線かつ最短距離で結ぶ放射状のイメージが強く、都心部では碁盤目状の道路が形成された歴史もあって円状の道路自体が都市形態になじみにくい一面もあった。こうしたことから国道302号(以下、一般部と表記)は各地で寸断された状態が続き、長い事業期間を費やすこととなった。なお、住民の反対運動は騒音被害の心配によるところが大きく、行政としても対応策を検討した結果、専用部の上社 - 庄内川左岸の一部区間で半地下方式を採用する方針を固め、併せて将来の交通量の減少が見込まれたことから6車線を4車線に減じ、これらは1975年に正式決定した。専用部の半地下構造を決定した只中で、再度の構造変更を迫る問題が都市高速の側から発生した。当時は都市高速の名古屋IC接続は生きており、環状2号の都市高速接続箇所として上社JCTが予定されていた。よって、初期の都市計画決定時点における上社JCTは四叉分岐で、東西に都市高速(名古屋市道高速1号)、南北に環状2号が交わる構造であった。だが、この頃は全国的に公害問題が多発した時期にあたり、都市高速においても各地で見直しを求める住民運動が沸き起こる中で、高速1号のルートも見直されることになった(詳細は名古屋高速2号東山線を参照)。決定は1976年11月で、これに伴って上社JCTは都市高速接続が無くなり、高針が新たな接続先とされた。専用部についてはルートの見直しがかけられ、当初は都市高速が通るはずだった上社JCTから名古屋ICのルートが新たに組み込まれて、1978年12月に基本計画が決定告示された。一般部の事業は用地問題もあって一向に進展を見なかったが、そうした中で東名阪自動車道が名古屋西ICまで延伸しようと鋭意工事が進められていた1978年、三重県方面からの交通が名古屋西ICで流出した場合の車の流れをどうさばくかが関係自治体の間で問題となりつつあった。なお、当時名古屋西ICと名古屋市中心部を繋ぐ一般道路は車線が少なく渋滞をきたしており、この区間に建設される名古屋高速5号万場線は事業化に向けて動き出そうとしている状況下にあった。また、西北部(名古屋西JCT - 清洲JCT間の9.25km)の着工の目途が立たない状況にあって、一般部よりも専用部を先行開業させることで東名阪自動車道と名神高速を行きかう交通を名古屋市内に入れずに迂回させることが可能であるという意見が出された。こうした状況から名古屋西ICから上社IC(のちに名古屋ICとされた)までを接続する環状2号専用部の建設を促進する案が浮上し、一般部の建設とは切り離して公団方式で建設される国土開発幹線自動車道として建設するよう政府に要望することになった。また環状2号に要する建設費は専用部を含めて8,000億円を上回るものであり、単年度予算の1割も取れていない状況にあっては予定されている1990年までの完成は不可能であることから、一般部の財源不足を補う意味で有料道路方式の自動車専用部として公団による建設を願い出ることにした。この結果、専用部の建設費を一般部に回すことが出来るために一般部の建設速度を速めることが出来ると期待された。建設省はこの提案を受け入れ、同年12月に近畿自動車道名古屋亀山線として基本計画が決定された。これ以後、建設省は予定路線の環境影響評価(環境アセスメント)を実施、この結果をもとに道路構造や遮音壁の設置箇所などを詳細に詰めて1982年に日本道路公団に事業を引き渡した。併せて都市計画を一部変更し、上社から庄内川左岸までの半地下区間の内、従来は香流川と矢田川については高架橋で渡河することが計画されたものが、沿線住民の環境面からの抗議によってトンネル式に変更することになった。こうして専用部は1988年3月に東名阪自動車道として清洲東IC - 名古屋西JCT間(西北部)が供用されて以降、順次東へ延伸のうえ1993年12月には名古屋ICまでが開通して東名高速道路と連結した。これ以南は事業計画や運営主体は決まっていなかったが、やがて名古屋南JCTまでの整備計画が決定し、名古屋市の強い要請によって日本道路公団が引き続いて事業主体となることが決定した。こうして2003年3月の上社JCT - 高針JCT間に続いて2011年3月には名古屋南JCTまでが開通して伊勢湾岸自動車道と連結、併せて環状2号南部I区間とも繋がった。この際、今回延伸部の道路名称を名古屋第二環状自動車道(名二環)とすることを決定したが、併せて従来の高針JCT - 名古屋西JCT間の道路名称も名二環に改称されることになった。これは今回新たに名古屋南JCTで伊勢湾岸自動車道と接続されたことで、仮に東名阪自動車道の名称で延伸した場合、豊田方面から四日市方面へ向かう交通が近道と勘違いして環状道路に侵入する恐れがあったために道路名を区分することになったものである。そして現在、一般部は一部区間で暫定二車線、および暫定踏切区間があるため、車線を増設のうえ暫定踏切撤去に向けた事業を推進しており、専用部も港湾物流が国道302号の渋滞によって多大な経済損失を被っていることから、残された名古屋西JCT - 飛島JCT間の延伸工事を推進中である。海上部(東海IC - 飛島IC)は1957年以降、環状2号の調査、検討が県や国によって実施されるなかで、名古屋港を横断することが具体化したことから名古屋港管理組合は1964年5月に港湾計画に反映するに至った。同組合は環状2号の計画を推進する過程で、海事関係者と自治体・建設省・公団との折衝の窓口として機能していくことになった。1969年度以降は直轄の道路調査の一環として建設省が海上部の調査を進め、この中で名古屋市南部の工業地帯を通過する国道23号(名四国道)の交通混雑を解消する必要性が説かれた。このため、東名高速(豊田)と東名阪自動車道(四日市)を結ぶ名四国道のバイパスを造る必要を認め、この内の名古屋港横断箇所は環状2号海上部と並行することを決定した。併せて、海上部の道路構造を当初案の海底トンネル方式から3橋梁による架橋方式に変更したことを受けて、両道路を上下に配したダブルデッキの橋梁とすることで計画し、その内訳は、環状2号が往復6車線、名四国道バイパスが往復4車線の合計10車線とする壮大な構造とされた。しかしながら、それに要する事業費が三千数百億円以上と途方もない金額となることで事業化の見通しが立たないことや、将来の交通量が当初見込みより減少することも加味されて計画を縮小、1976年に環状2号とバイパスを統合してシングルデッキの往復6車線とすることになった。なお、海上部は建設費用が高額となることで償還のための通行料金を徴収することが検討され、橋梁のシングルデッキ化はこの償還計画に絡めた採算性という観点からも支持された。計画は地元経済界の強い要請もあって1979年8月に国道302号の一般有料道路として都市計画決定された。海上区間の3橋のうち、特に地元経済界から早期建設を要望されたのが金城ふ頭と西二区(現・木場金岡ふ頭)を結ぶ西大橋であった。西二区には流通団地をはじめ木材団地が展開することから、当該区域と金城ふ頭を結ぶ港湾交通需要が多く見込めると判断されたためである。ところがいざ名港西大橋が開通すると、高額な通行料金(特定大型車の通行料金片道1,400円)とネットワークの無さが災いして閑古鳥が鳴くほどの通行量しかなく、あてにした港湾関連の交通は相変わらず名四国道を利用して当該道路の混雑は収まる気配がなかった。なお、当時の公団が経営する一般有料道路の収支率ワーストワンが伊勢湾岸道路で、100円の収入を得るのに338円を要した。今日でこそ東名阪の混雑で象徴されるように伊勢湾岸道路の有用性が立証されているものの、効果が現れてくるまでは無駄の象徴と目され、あまりの投資効果の悪さに西大橋開通直後には総務庁と会計検査院の調査が立て続けに入るなど華やかな外観とは裏腹の厳しい試練にさらされることになった。このため公団は窮余の一策として、港湾関係者への回数券の売り込みに奔走したが、業界側は使い物にならない西大橋の利用を敬遠するばかりであった。公団も西大橋単独の開通では通行量も期待できないとは予想していたが、交通開放後の実績はそれを大きく下回った。西大橋はもはや公団のお荷物と化したが、それでも豊田と四日市をつなぐことへの待望論は多く、港湾物流の関係者をはじめ、愛知県南部、東海市や三重県北部に立地する企業の期待は大きかった。愛知県南部から関西方面への物流ルートとして、名神高速では北に振れ過ぎているため、名四、名阪の両国道を経由する方が早いことから、ここに高速道路を誘致することへの期待は大きく、東海市にしても製鉄の先細りゆえ、高速道路ネットワークの構築によって新たな産業を誘致できるものと期待した。それにも増して、港湾物流の関係者の期待はさらに大きかった。1980年代に進行した急激な円高によって輸入貨物量は増加の一途を辿り、コンテナ取扱量も一千万台の大台に載せるに至った。ところが、取り扱い量は増えても、物流の要となる道路は常時渋滞する一般道路のみと接続し、高速道路とは一本も繋がっていなかったことから、港の機能は著しく低下することになった。なお、港湾物流に係わる特定大型車の指定ルートが名四国道と国道1号であることから、混雑する両国道を使わざるを得ないことでさらなる停滞を誘発し、名古屋港から最寄りの東名高速入口の岡崎ICまでの所要時間は通常1時間、混雑時は2時間を要した。公団のはじく計算では、高速道路開通によって、岡崎ICまでが現行の2時間弱から40分、四日市までが1時間強から25分への短縮が見込まれたことから、経済損失を埋め合わせるためにも一刻も早い開通が望まれることになった。こうした事情もあって、愛知県や名古屋市は調査中の残り2橋の事業化を建設省に強く働き掛けたが、これに対して建設省は早期着工の条件として、厳しい国の財政事情から地元経済界にも応分の負担を求める民間資金活用(民活)プランを提示した。民活導入対象区間は名港中央大橋と名港東大橋およびその接続部を含めた約5キロに限定したが、それは豊田 - 四日市間の総事業費6千億円のうち、この5キロの工事費が1,340億円(1キロ換算では他区間の2倍)と高額になるためである。海上区間全線供用に一刻も早い道筋を付けたい自治体や経済界はこの提案を承諾し、政府も早々と2橋の計画推進を決定した。ただし、2橋を建設して飛島と東海を結ぶだけでは西大橋の二の舞になることを危惧した経済界は、道路ネットワークを構築して初めて海上区間の投資効果が現れることを表明するべく、県と一体となって豊田と四日市までの陸上区間の建設を国に要望することになった。こうした地元の危惧に応える形で政府は1986年4月に陸上部分の建設を表明し、海上部を飛び越えて豊田と四日市の間で事業化する方向へと大きく舵を切ることになった。だが、国道23号のバイパス路線として豊田と四日市を繋ぐ構想は次第に変化を見せ、バイパスの一部を別個で構想されていた第二東名・名神の一部分にあて、さらに海上部を第二東名と第二名神を接続する接続路線とする方向付けがなされた。この構想は1987年4月の講演会で知事が表明したもので、仮にこの構想を示さなかった場合は第二東名が名古屋圏をかすりもしない恐れがあったことからそれを回避するために提案したとされる。だがこの提案は国に受け入れられ、1988年には建設大臣が第二名四国道を第二東名の一部に充てることを正式表明した。愛知県の思惑としては、山間部に第二東名を通すことによる地域振興策の他に、将来計画されている中部国際空港のアクセス路線確保の地域的な事情もあって要望した高速道路であったが、この頃、東名と名神の混雑に頭を悩ませていた国は愛知県の要請に飛びついた恰好で、1987年3月に愛知県知事が第四次全国総合開発計画(四全総)への第二東名・名神組入れの働きかけを表明してから半年もたたないうちに四全総の中心的存在に押し上げられることになった。さらに4年後には整備計画に上程されるに至り、後から構想された路線であるにも係わらず、それ以前から構想されていた他県の道路計画と肩を並べて驚異的な速さで建設されることになった。もっとも、これには高速国道が通行料金をプールのうえ建設費用を償還する方式を採用していることから、とりわけ黒字が見込まれる第2東名・名神の建設を優先したいとする国の思惑が働いたとされている。順調に計画実現に向けて動き出している中で愛知県は道路規格の都市計画変更を行い、1979年の都市計画決定で60km/hないし80km/hとした海上部の設計速度を100km/hとしたうえで道路幅員も全体的に約5m拡幅して高規格の高速道路と接続しても差し支えの無い構造に変更した。海上部の開通は1985年3月で、この時は金城ふ頭と飛島間のみが開通し、飛島で一般部と接続した。1998年には海上部全線供用と併せて陸上区間の名古屋南ICと東海ICが開通し、海上部は第二東名と接続された。この開通によって伊勢湾岸自動車道の名が冠されることになったが、この路線名は第二東名(新東名)と第二名神(新名神)がその機能を十分に発揮できるまでの暫定的な名称である。以降、陸上区間は順次延伸され、2004年に豊田JCT - 四日市JCTが繋がったことで、ここに海上部の本来の機能が発揮されることになった。1985年の西大橋開通当時の利用台数は1日平均1,700台、それから四半世紀を経た2011年では約8万台と17倍の利用となり、今や海上部は東西交通のバイパスを担う重要路線となっている。また、将来の東海環状自動車道全通のあかつきには新東名・名神、環状2号とともに3本の幹線道路を束ねる路線とも位置づけらている。なお、一般国道扱いの海上部が高速道路と連結されたことで適用される道路交通法(規制速度など)に差異が生じることになったが、この対策については海上部で後述する。名古屋環状2号線は南部II・西南部・西北部・北部・東北部・東部・東南部・南部I・海上部に分けられている。以下、各エリア毎に解説する。南部II(2.73km)は、飛島ICから国道23号、西南部(9.30km)は、国道23号から名古屋西JCTに至る区間である。全区域一般部が地平、専用部が高架である。国道302号は西南部の名古屋市中川区かの里(国道1号交差点)を起点として北回りで名古屋市外縁を一周のうえ起点に戻る路線である。南部IIは元々名古屋港管理組合が所有、管理する往復4車線の港湾道路であったが、1985年7月に建設省に移管して国道302号となった路線である。この区間(西南部)における鉄道交差はJR関西本線と近鉄名古屋線で、鉄道の高架事業完了を待って一般部が開通している。専用部は、高速自動車国道 近畿自動車道伊勢線として指定されている。2009年4月27日の第4回国土開発幹線自動車道建設会議で整備計画を策定された。同区間は開通済みの一般道路に挟まれる形で施工されるため、用地買収は既に完了している。この区間が開通すると、名古屋環状2号線の専用部が全通し、名古屋高速都心環状線に次ぐ、名古屋市およびその周辺における2つ目の自動車専用環状道路が完成することとなる。西北部(9.25km)は、名古屋西JCTから国道22号(清洲JCT)にあたる。一般部は地上、専用部は全線高架式である。当該区間は名神高速と接続する国道22号と東名阪自動車道と接続する名古屋西JCTを短絡することから、両高速道路間の接続交通の短絡経路として、また接続交通が名古屋市内に入ることを防止するバイパス的性格を持っている。このため接続交通の円滑な流動に資するために、専用部が一般部よりも先行して全線開通している。なお、一般部が全通したのは専用部の開通から12年後の2000年8月のことである。現在、一般部については、暫定供用区間(片側1車線)が存在する。一般部は鉄道の立体交差前提で計画されたが、現在は平面交差箇所が存在する。この内、JR東海道線と新幹線は当初から立体交差としたが、名鉄名古屋本線と名鉄津島線は暫定踏切を設けて平面交差となっている。このため将来の立体交差化に備えて、専用部高架橋はその直下を名鉄の高架橋が構築可能な設計になっている。鉄道立体化の際は仮線の設置が必要となるが、本高架橋についてはそのスペースも考慮されている。なお、交差する愛知県道68号名古屋津島線は名古屋市営地下鉄の延伸計画があるため、高架橋はこの計画を考慮した設計となっている。これらのJRを除いた鉄道交差部の存在、および用地買収の難しさも伴って、西北部は1988年3月の供用時点では各地で道路が分断されて虫食い状態であった。それが解消されたのは2000年8月であったが、暫定往復2車線の状態は一部で解消されず、現在4車線化に向けて事業を推進中である。北部(8.59km)は、国道22号(清洲JCT)から国道19号(勝川IC)にあたる。一般部は地上、専用部は全線高架式である。当該区間は環状2号の先陣を切って1980年4月に供用開始された。従来この区域には国道22号と国道19号の東西間を結ぶ国道が存在しなかったことから、両路線間のスムーズな連絡を期して供用されたのが北部区間であった。北部は土地区画整理事業に乗じて用地取得されたことから、環状2号と城北線およびバスレーンを並行して建設するだけの用地が取得可能であった。このため北部の道路幅は最小で72.5m、ランプ設置箇所で82.8mに及び、環状2号各区間において最大幅となっている。さらに土地区画整理事業によって勝川地区では家屋の集団移転が実施されたことで、国道19号バイパスと環状2号および東海交通事業城北線が機能的に配置された。この区間の鉄道交差は名鉄犬山線、名鉄小牧線、城北線の3箇所で全て立体交差である。東北部(9.00km)は、国道19号(勝川IC)から上社JCTにあたる。東北部の専用部は、1974年以降計画が変更され、丘陵地帯については日照阻害や電波障害および騒音、排気ガスなどの生活、環境面の配慮から庄内川付近 - 上社間を半地下とすることが決定され、当区間の大半が半地下(河川横断区間はトンネル式)構造で建設、供用された。一般部は全線地上を通過する。この内、上社から庄内川左岸までの道路中央には専用部半地下区間の開口部が設けられている。なお、鉄道との交差部はJR中央線、名鉄瀬戸線および名古屋市営地下鉄東山線の3箇所である。名鉄については暫定踏切設置で道路開設、JRは保安上の理由で暫定踏切を拒否したことから、鉄道の高架事業完了後に一般部が開通した。この結果、高架事業の遅延と連動して一般部の供用も遅れ、中央線横断区間が一般部としては最後発の供用区間となった。なお名鉄瀬戸線は現在、高架化事業を推進中であり、完了後は暫定往復2車線は4車線となる予定である。東山線は専用部が半地下から高架へ移行する途中で交差することから、東山線の上を専用部、下を一般部が交差し、上社ジャンクションの分合流区間に差し掛かることもあって複雑な構造となっている。東部(4.00km)は、上社JCTから国道153号(植田IC)、東南部(11.40km)は、国道153号(植田IC)から国道23号(名古屋南JCT)にあたる。東部区間の専用部、上社JCT - 高針JCT間は2003年3月29日に名古屋高速2号東山線の延伸と歩調を合わせて開通している。また、東部の高針JCT - 植田ICと東南部の専用部は、名古屋第二環状自動車道(名二環)として2011年3月20日に開業した。当該区間は起伏の激しい土地に建設されているため、掘割と高架の組み合わせを多用している。東北部の場合は、半地下区間が5.8kmに渡って連続するが、東南部は高架と半地下が短い距離で交互に入れ替わる構造である。鉄道交差部(名古屋市営地下鉄桜通線、名鉄名古屋本線、東海道線、東海道新幹線)は当初から立体交差である。この区間は南北交通軸が弱い区間であり、伊勢湾岸自動車道、セントレアなど、南部から名古屋都市圏へは名古屋高速3号大高線の1本を経由する必要があったが東南部開通後は専用部を経由することができるようになり、一般部は渋滞や住宅地へ進入する通過車両を減らす役割を担っている。なお、地域高規格道路である名古屋瀬戸道路・名古屋豊田道路の植田IC付近での接続計画がある(調査中)が、植田ICでは当面国道153号(豊田西バイパス)と接続することになっている。南部I(4.29km)は、国道23号(名古屋南JCT)から国道247号(東海IC)にあたる。専用部は高架、一般部は地上の2階建道路である。当該区間の専用部は伊勢湾岸自動車道(新東名高速道路)となっており、往復6車線で幅員60m(ランプ部は74m)の広幅員道路となっており、ほぼ全区間で民家の近くを通過することから高さ8m、先端が内側に曲がった高層遮音壁に覆われている。一般部は広幅員の専用部直下に並行することから、そのほとんどが高架橋に覆われている。一般部の鉄道交差部は名鉄常滑線で立体交差となっている。なお、当該区間一般部の建設は中部地方建設局名四国道工事事務所(名四国道のほか名豊国道などの建設に従事)によるもので、他の一般部陸上区間(同愛知国道工事事務所・国道22号や国道41号など北方区域の建設に従事)とは担当が異なっている。専用部は名古屋市内と連絡する都市高速と名古屋南JCT(3号大高線)および東海JCT(4号東海線)でそれぞれ接続する。2箇所で分散した連絡を行うことから都心部への流入交通の分散化と一方が通行止めになった場合のバイパス的誘導が可能となっている。また、大府ICでは知多半島道路と接続(国道302号を介した間接接続)することで中部国際空港および半田方面と連絡する。海上部(7.60km)は、国道247号(東海IC)から飛島ICにあたる。この区間は国道302号の一般有料道路で「伊勢湾岸道路」と名付けられている(伊勢湾岸自動車道とは別の名称)。一般有料道路であるため、この区間の通過には通行料金が発生する。なお、海上部は一般有料道路であると同時に、新東名高速道路と新名神高速道路が重複することから、高速自動車国道に並行する一般国道自動車専用道路となっている。新東名と新名神の境界は名港中央ICである。1985年3月の名港西大橋を皮切りに1998年3月までに南部Iも含めて自動車専用道路が開通している。本区間の開通以前は、豊田方面と四日市方面とを結ぶには、それぞれ別料金となる名古屋高速道路を経由するか環状2号を迂回し東名阪道へ向かうしかなかった。開通により新たなルートが形成され、名古屋IC付近の渋滞回避が図れるようになったが、他方、東名阪に対しては四日市JCTから亀山JCT間の渋滞を悪化させている。海上部は1979年に国道302号の一般有料道路として事業化された。それから10年を経て新東名高速道路の基本計画が策定され、海上部と新東名が東海ICで接続することになったが、ここで問題となったのが一般道路と高速道路の最高速度を始めとする規制の違いであった。このため海上区間に規制をかけることで高速道路と同条件で走行できるように取り計らい、本来60km/hを上限とする一般国道の最高速度に対し、車種ごとに100km/hと80km/hおよび最低速度を50km/hとするよう規制を設け、さらに改正道交法によって高速道路では左車線を走行することが義務付けられているトレーラーに対する規制標識も併せて設置することになった。また高速道路から海上部に乗り入れる場合は「ここから一般有料道路」、反対に海上部から高速道路に乗り入れる場合は「ここから高速道路」の標識が設置され、一般国道と高速道路の境界が視覚化されている。当初は新東名のみの接続だったが、2000年3月には反対側でも高速道路(新名神)と接続された。なお、海上部は設計速度100km/hのため往復6車線、道路幅31mの高速道路規格の構造となっている。当該区間は上記の規制の他、石油タンクが並ぶ工業地帯の上を通過することから、危険防止のためにタバコの投げ捨てが禁じられている。そのため、橋上には「たばこ投げ捨て禁止」の看板が設置されている。専用部の陸上区域初の供用区間たる西北部高架橋の設計が開始された1980年当時、名古屋高速は建設反対住民との折衝で大きく揺れ、騒音、景観面の配慮から全線の約30パーセントが地下、半地下構造で計画されていた。このように自動車公害の不安から都市高速に対する根強い不信が横たわる当時において、名古屋市周辺を取り巻いて建設される環状2号専用部もまた建設反対団体との折衝の渦中にあった。こうした状況から、東北部(名古屋IC - 勝川)の用地買収は困難が予想され、住民を納得させる材料として考案されたのが先行開業区間の西北部の見栄えを良好なものとして、住民説得の具に供することであった。そのためには出来得る限り美しい造形とする必要があり、かつメンテナンス面で手間が省ける構造が模索された。特に沓に係わるメンテナンスが重いことから、沓を省略した連続ラーメン構造を採用することになった。また西北部は軟弱な低湿帯で地震の影響が懸念されることから、耐震性向上の意味からも沓の省略は必要な対策であった。なお、建設省の計画では全線が鋼橋として計画されていたが、ヨーロッパの橋を参考とした結果、都市景観を考慮してコンクリート橋がふさわしいと判断された。PC連続ラーメン橋を採用するにあたり、それが短区間で途切れて鋼橋に移行するようでは美しさという面で訴えかける力がないため、極力連続採用することにして清洲町(現、清須市)のJR立体交差部から名古屋西JCT付近までの6.7kmで採用した。また、当該高架橋は名古屋市を取り囲むように配置されることから、名古屋市中心部と出入する幹線道路や鉄道にとっては玄関の役割を持つ意味からも高架橋の景観的な連続性には強いこだわりを持つこととされた。また、環状2号近隣の家々や歩行者、自動車から高架橋を見た場合、重圧感による不快感を低減し、安らぎと柔らかさを与える意図から、高架橋には丸みを持たせている。橋脚は一本柱が設置条件となっていることからY型となっているが、これも丸みのあるバチ型として都市景観に配慮した。なお、連続採用の必要から名鉄線との交差部もコンクリート橋となったが、これは鋼橋と違って工程が長期間に及ぶことから名鉄が難色を示し、種々の厳しい条件を受け入れて工事が許可された。ただし、清須市内の東海道新幹線との交差部から清洲JCTまでの区間と、名古屋西JCTは様々な制約から鋼橋となっている。なお、PC連続ラーメン高架橋は東北部の庄内川右岸から北部区間でも採用された。高架橋の高さは13mとされ、これは環境アセスメントと都市計画の取り決めによっている。環境アセスメントをやり直せば9m程度に下げることも可能であったが、下げ過ぎると圧迫感があり、地域分断のイメージが強くなる懸念が生じると共に、1987年度の開通が至上命令であったことから、アセスメントのやり直しに時間を要することを嫌って13mで落着している。なお、西北部の橋脚間は25mとされ、これは25mが最も経済性に優れるためである。環状2号の都市計画決定は1957年(変更は1967年)であったが、建設計画が具現化したのはそれより後であった。これが時あたかも公害問題が全国的に多発した時期にあたり、環状2号の計画についても様々な反対運動に直面することになった。なかでも専用部は名古屋市東北部の丘陵地帯を通過することから、電波障害、日照阻害、騒音被害を心配する付近住民から反対された。建設省としてはこの声に応える形で東北部および東部、東南部の専用部については高架と半地下、トンネルを組み合わせる構造に変更した。これらの変更は1975年までに決定している。1993年12月に専用部の勝川IC - 名古屋IC間(東北部)が開通したが、丘陵地帯に設けられた半地下部は騒音対策に効果的とされながらも、実際に交通開放されてみると開口部から騒音が漏れて付近住民から苦情が寄せられた。開口部は当初計画では13mで、計画変更により9mに縮小されたにもかかわらず騒音はかえって大きくなることは東北部供用前から判っていたことではあったが、軽微な変化のために環境アセスメントのやり直しはしないと県側は答弁していた。だが、公団は住民の声に応えて半地下部上空に吸音材を使った蓋を取り付ける方針を示し、これは1999年に完成した。蓋は何層も互い違いに重ねる構造のため、排気ガスを地上に排出できる造りとなっている。同構造はその後開通した東南部の半地下区間でも採用されている。半地下区間は地上からは見えないことから、ドライバーの反応のみが景観対策の対象となる。このため、心理的圧迫感を取り除く構造が模索され、構造物に丸みを持たせて視覚的な柔らかさを表現することになった。また、掘割からボックスカバーを経て半地下区間へ移行する際、コンクリートの段差壁面による圧迫感があることから、面壁に塗装(修景)を施すことで圧迫感軽減に努めた。安全対策としては、照明設備はトンネルに準じたものとしたほか、非常出口(インター出入口)までの距離を示す誘導表示板を設置するなどした。東北部のうち、矢田川と香流川の渡河は一般部、専用部ともに橋梁による通過とされ、特に専用部はその前後が半地下であることから渡河区間だけ地上に姿を見せる構造が当初の計画であった。だが、橋梁による横断について近隣住民が難色を示した。当該区域は東に東名高速が供用しており、西に環状2号専用部が高架で完成すれば騒音公害の板挟みとなるうえ、当該地区は環状2号建設のために土地区画整理によって20億円相当の土地を提供したことから、住民はその見返りとして環境的な配慮を求めた。これに対して名古屋市の環境影響評価審査委員会は、住民の意見を反映して香流川については騒音のほか、地域分断の解消のために地下式とするよう自治体に要請した。それは一般部の道路中央に計画された専用部を地下式にすることで、両側の一般部を中央にスライドのうえ道路幅を縮小、それが地域分断感の緩和に資するためである。愛知県と中部地方建設局は委員会の指摘を受けて香流川をトンネル構造に変更することを決定し、その前後を半地下で挟む構造に改めた。また環境施設帯や歩道橋を設置する必要から近接する矢田川もトンネル方式とすることになった。このとき河川管理者から意見が出され、万一の災害によってトンネルに亀裂が入るなどして河川の水が流入した場合、道路をつたって市街地をはじめ庄内川まで到達して大水害を引き起こす危険性を指摘のうえ、その対策として制水ゲートをトンネル両端に設けることを要求した。公団はトンネル北側(小幡方面)については、要求に従って制水ゲートを設置することを決定し、その構造について種々の検討の結果、水密性をはじめ耐久性、操作性を考慮して電動式の昇降式ゲートを採用することとした。一方、トンネル南側(上社方面)についてはゲートを取り付けない代わりに地上側の開口部の高欄(壁)をかさ上げして水があふれ出ないように対策をとっている。1973年に建設省が一定規模の道路には住宅街と本線道路の間に環境施設帯(バッファーゾーン)の設置を義務付けたことから、環状2号においてもそれに従っている。これは計画当初の専用部は往復6車線で計画され、その後将来の計画交通量が当初の見込みより減少することが判明したため4車線に減じることにして、これによって橋脚が2本から1本に減少することになった。これが専用部の真下に一般部を収容する余裕を生み、一般部が中心部へスライドしたことで道路両脇に新たなスペースが生じた。このタイミングで建設省が環境対策として一定規模の道路に騒音対策として環境施設帯(バッファーゾーン)約10mを設ける方針を発表したことから、生じたスペースを環境施設帯に充てることになったものである。なお、環状2号で最も早く供用された北部は建設省がバッファーゾーンの設定を義務付ける以前に着工したことから、その後の通達による設計変更のために工事が一時停止することになった。これには工事予算が抑制されたことも手伝って当初計画の1977年度供用が大幅に遅れて1980年に遅延することになった。一般部両側には遮音壁が設けられ、次いで植樹帯、本線と住宅街を連絡するサービス道路が配置されている。環境施設帯はこの3要素から構成されている。植樹帯は自動車の排気ガスと騒音を抑え、遮音壁は必要に応じて透明板を採用している。また、環境施設帯とセットで専用部高架橋の裏面に取り付けられた吸音版によって反射音が住宅街に届くことを防止している。環状道路の特性上、名古屋市中心部から放射状に延びる鉄道各路線との交差箇所が数多いことが環状2号の特徴となっている。専用部であれば高速道路ゆえ最初から立体交差前提で道路設計される。しかし一般部は鉄道側の高架化あっての立体交差であることから、高架事業推進に必要な用地の確保など住民協力が得られない場合は高架化の遅れや着工の目途が立たないこともしばしば見受けられる。一般部の事業推進は鉄道交差の進捗状況によって大きく左右され、立体化が直ぐには完成しない場合は暫定踏切を設置して開通させることも行われ、名鉄名古屋本線、名鉄津島線、名鉄犬山線、名鉄瀬戸線はこの方法が採用された。このうち犬山線は、名古屋市営地下鉄鶴舞線との相互直通に関連して平田橋駅 - 中小田井駅間の立体化が既に計画されていたことから、1980年の一般部の供用時点で暫定踏切を設けて開通した。それから11年後、当該箇所は上小田井駅(橋上駅)の開業と併せて立体交差化された。瀬戸線はその前後で一般部が開通して以降、線路横断の自動車が生活道路に侵入して危険であることから、住民要望で一般部に暫定踏切を設けることになった。設置は2000年2月でこの時は暫定往復2車線の開通とされた。路線の高架化は住民説得に時間を要して2008年度の完成予定が大幅に超過している状況である。なお、一般部の暫定踏切設置箇所のうち、一般部開通当初から鉄道を横断出来たのは犬山線のみで、他は鉄道を挟み込む形で一般部が先行開業のうえ、後から暫定踏切を設置した。JR中央線は運行頻度が高いこともあって、管轄するJR東海は保安を理由に暫定踏切設置を拒否した。よって高架化が完了するまでは一般部の鉄道横断は不可能となり、こちらも用地確保に手間取ったことから高架完了は2009年までずれ込み、これが一般部の全線開通を最後まで阻んだことも先述した。なお、専用部の勝川IC(東名方面)出入口は高架化を待たずに開通しているが、その経緯については勝川IC#歴史を参照されたい。一方で西南部のJR関西線と近鉄線の立体交差はわりに早く完成を見たことから、一般部の供用当初より鉄道横断を実現している。沿線は都市近郊で住宅密集地が連続することから、高架橋には都市高速同様遮音壁を設置している。ただし、都市景観を考慮してデザインされたものを採用し、通過する地域の特性に合わせ、それぞれのテーマに合わせたものを導入した。例えば、学校近接部は楽しい色彩パターン、交差道路にはゲート性を考慮したうえでカラーパネルを設置、上り線(内回り)側には日照阻害対策のためにレンズ加工した透光板を採用した。このデザインは西南部を皮切りに北部、東北部でも採用された。庄内川に架かる庄内川橋は名古屋市(守山区)と春日井市の市境にあり、また平坦な濃尾平野と丘陵地帯の境に位置する。よって川の西側は高架区間、東側は掘割、半地下区間の移行区間に位置し、景観的にも道路構造的にも変化に富むことから、ここに計画された橋はこの景勝地に相応しいランドマーク的な橋が構想された。このために中部圏では初となる単弦ローゼ橋を採用することとして、専用部の道路中央分離帯にアーチを1本架け、2本の橋脚に連結して支える構造とした。アーチの高さは約20m、長さは130mで、アーチ形状を明快に表現することや周辺環境と調和させるべくライトグリーンを基調に塗装した。橋脚はコーナーを丸め、上方から下方にかけて絞り込む(狭める)ことで優しさとシンプルなイメージを出した。なお庄内川橋は橋の中央を専用部(往復4車線)、その両側に一般部(各片側2車線で歩道付き)を挟むトータル8車線、幅員51mの大橋である。このうちアーチが作用するのは専用部のみで、一般部は専用部の橋桁から独立しており、その構造は桁橋である(橋脚は専用部と共有)。床板形式は専用部がRC(鉄筋コンクリート)、一般部が鋼で、単弦ローゼの採用は重量のあるRC板の採用を可能とした。その両側の一般部が鋼とされたのは景観的配慮から桁高を抑える必要によっている。ただし一般部は現状往復2車線の暫定供用中であって、下流側に道路は設置されていない。供用開始は専用部が1993年12月3日、一般部が1994年10月25日である。東南部の愛知県道56号名古屋岡崎線と交差する原一丁目交差点(名古屋市天白区)には楕円形の平針歩道橋が架けられている。楕円形ゆえ直径にばらつきがあり、最も長い幅が70m、短い幅が40mで、一周は180mである。楕円形とされたのは、一般部と県道が斜め交差していることから円形が採用できなかったことによっている。また力学的な観点からも楕円形が有利との判断もあったが、地域のモニュメントとしての意味や歩行者に与える印象を柔らかくする目的もある。ただし直線状の歩道橋に比べ歩行距離が若干長くなる特徴もある。海上部に架かる斜張橋3橋は「名港トリトン」の愛称で呼ばれている。トリトン(Triton)とはギリシャ神話の海神ポセイドンとアンピトリテの間に生まれた半人半魚の王子で、三叉戟(みつまたほこ)をかざし、ほら貝を吹いて荒波を鎮めた海の守護神である。また「トリトン」の「トリ(Tri-)」が「3つの」を意味し、これを3大橋になぞらえる形で採用された。この愛称は一般公募2万通の中から採用された。構想段階では海底トンネル式および橋梁式とトンネル式両方の組み合わせも考えられたが、トンネル式では建設費が高く、換気や道路照明に要する費用も高額であることから採算性が劣るとされた。また高潮による浸水被害が心配され、火災等のリスクおよび海底から20mという長い距離で泥土層が存在することでトンネル構造物を支えきれないとされた。そして海底トンネルであるために危険物積載車輛の通行制限がかかることは当該区間の利用交通がタンクローリー等の港湾業務に従事する車であることを考えた場合、利用実態にそぐわないことからトンネル方式は破棄された。また橋との複合案もトンネルと橋の移行区間で掘割となることから工業地帯の分断が生じ、急勾配となることで走行性が劣ることからこちらも破棄された。この点、橋であれば船舶追突防止のための対策や場所によっては船舶の航路制限がかかるにしても土地利用上の問題が少なく、美観的に好ましいことや港のランドマークともなりえることから橋梁案が採用された。ただし橋梁案は船舶関係者からは安全面で憂慮されたことから、海難事故防止策として橋桁の最高潮位面高さを十分に取ることや、海中の橋脚に防護柵を設置するなどの対策を講じることになった。当初は橋梁中心部を除いて、橋脚で支えるゲルバートラスト橋で構想されたが、大型船の通過に橋脚が障害となることから、吊橋式と斜張橋式に変更することになった。橋梁案決定後、中央大橋建設区域の地盤に問題があることが判った。中央大橋は当初は主塔が1本のみで計画され、これは船舶の航行条件による制約であった。このため橋長1,560m、中央径間780mと規模が大きいために吊橋式で計画された。吊橋式はケーブルの張力を得るためにアンカーブロックとケーブルを連結させる必要があるが、当該区域にはアンカーブロックを支える支持岩盤が存在せず、これによるクリープが特に懸念された。そして中央径間が長すぎることは事業費が多額で、9号地に計画されているインターが片方向しか造れないという問題もあった。そこでやむを得ず中央径間を縮小することになり、航路の変更について関係団体と協議した結果了解を得た。これによって主塔は2本設置が可能となり併せて橋長が1,170mに短縮された。この時も吊橋案は生きていたが、最終的に工期や経済性に優れる現行の斜張橋式に変更された。主塔は軟弱地盤に建設されることから重量軽減のためにA形タワーとされ、最初に建設された西大橋のみ方向別の二橋並列とされた。これは北側(上り線)の橋のみ先行供用として、南側は段階施工とするためである。タワーは東側の橋が青、中央が白

出典:wikipedia

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