ポートランド・トレイルブレイザーズ(Portland Trail Blazers)は、アメリカ合衆国オレゴン州ポートランドに本拠を置く全米プロバスケットボール協会 (NBA) のチーム。ウェスタン・カンファレンス、ノースウェスト・ディビジョン所属。トレイルブレイザーズは略してブレイザーズと呼ばれることもある。チーム名は"blaze a new trail"で「先鞭を付ける」という意味で、開拓者を表している。ポートランド・トレイルブレイザーズ(ブレイザーズ)は、1970年に新設チームとしてNBAに加わった。「道を切り拓く者」を意味する「トレイルブレイザーズ」の名称は一般公募で寄せられた名前の中から選ばれた。ブレイザーズは設立後数年間低い勝率に苦しむ時期が続いた。ドラフトでビル・ウォルトンを獲得し、レニー・ウィルケンズが選手兼任でチームを率いた1974年からは勝率5割に近づいたものの、創設から6シーズンの間勝ち越すことはできなかった。1976年のシーズンオフにウィルケンズは監督を退き、代わってジャック・ラムジーが後任に就いた。同時期に元ABA選手のモーリス・ルーカスを獲得。チームは49勝33敗と初めて5割を上回る勝ち星をあげた。ブレイザーズはプレイオフを勝ち進みNBAファイナルに進出、フィラデルフィア・セブンティシクサーズを4勝2敗で下し優勝を果たした。このシーズンにはファンの間で「ブレイザーマニア」と呼ばれる熱狂があり、シーズン末から90年代に入るまでホーム戦のチケットが完売する状態が続いた。翌シーズンは58勝24敗と勝ちを上乗せしたもののプレイオフでは勝ち残れず、怪我の多かったウォルトンは1979年にチームを去った。ラムジーは80年代半ばまでチームの指揮を執ったがチーム勝率は5割前後、プレイオフでは1回戦で敗れるシーズンが多かった。ブレイザーズは1983年にドラフトでクライド・ドレクスラーを獲得し、ドレクスラーは90年代初頭までチームの中心的な選手になった。翌1984年にチームがドラフト2位で指名したサム・ブーイは、マイケル・ジョーダンよりも早く指名されたものの怪我もあって平凡なキャリアで引退した。もしジョーダンを指名していればドレクスラーとのコンビで史上に残るバックコートデュオとなっていたはずであり、しばしばNBA史上最も失敗したドラフト指名と言われることになった。ラムジーに代わり監督に就任したマイク・シューラー、その後任のリック・アデルマンのもと、ブレイザーズはSGにドレクスラー、PFにバック・ウィリアムズ、Cにケビン・ダックワース、PGにテリー・ポーター、シックスマンにクリフォード・ロビンソンを擁し次第に西地区を代表する強豪へと成長していった。59勝23敗の結果を残した1989-90シーズン、ブレイザーズはNBAファイナルに進出したが、デトロイト・ピストンズに1勝4敗で敗退した。アデルマンのブレイザーズは、翌シーズンの63勝19敗を頂点に高い勝率を上げ続けた。そして1992年には再びNBAファイナルに進出するが、この年はジョーダン率いるシカゴ・ブルズに2勝4敗で敗れた。この後もブレイザーズは勝率5割以上の好成績を残し続けるが、プレイオフでは次第に勝ち残れなくなり、1995年のシーズン中にドレクスラーがヒューストン・ロケッツに移籍し、チームは再編の時期に入った。1988年にチームを買い取っていたポール・アレンは90年代半ば頃には世界的な富豪になっており、1994年にはボブ・ウィッシットをGMに就任させ、ブレイザーズは大胆なチーム補強に取り組み始めた。その結果、90年代末から21世紀初頭にかけてのブレイザーズはアイザイア・ライダー、デイモン・スタウダマイアー、ラシード・ウォーレス、ブライアン・グラント、アルビダス・サボニス、ボンジ・ウェルズ、スコッティ・ピッペン、スティーヴ・スミス、デトレフ・シュレンプ、デイル・デイヴィス、ショーン・ケンプ、ステイシー・オーグモンなどを含む層の厚いチームになり、地区首位のロサンゼルス・レイカーズなどを脅かす存在になった。(一時期、登録選手全体の知名度・年俸などでNBA史上最も豪華なチームとなった。)しかしプレイオフではレイカーズやサンアントニオ・スパーズなどの強豪を破れず、「ジェイル(刑務所)・ブレイザーズ」と呼ばれる程、コート外でのトラブルが続出したことから、中心選手たちは次第にチームを離れていった。2003-04シーズンには21年続いていたプレイオフ連続出場記録も途絶え、以降は勝率5割以下の低迷期に入った。07-08シーズンにはチームの若返りを図り、主力メンバーを06-07シーズンの新人王、ブランドン・ロイやラマーカス・オルドリッジらを中心とした若手選手で構成したことが功を奏し、チーム成績は4シーズンぶりに勝率5割に復帰した。2008-2009シーズンは、シーズン通して好調を維持。結果、2002-03シーズン以来のプレーオフ出場を遂げた。プレーオフ1回戦、ヒューストン・ロケッツに2勝4敗で惜敗した。翌2008-2009シーズン、2010-2011シーズンもプレーオフに進出したものの、いずれもプレーオフ1回戦で敗退した。2011年、膝の怪我のため、ロイが現役を引退。2011-12シーズンは、オルドリッジを中心としたチーム構成をで臨んだがプレーオフを逃してしまう。2012年のNBAドラフトでデイミアン・リラードを指名。2012-13シーズンは、プレーオフ進出を逃したものの、リラードはブレイク・グリフィン以来となる満場一致で新人王を獲得した。2013-14シーズンは、リラードとオルドリッジを中心として、センター補強のロビン・ロペス、バックコート補強のモーリス・ウィリアムズが功を奏し、シーズン序盤から快進撃を続け、 2010-11シーズン以来のプレーオフ進出を果たした。1stラウンドでは、上位シードのヒューストン・ロケッツを第6戦のホームコートで、リラードの劇的な逆転ブザービーター3ポイントシュートで下し、アップセットし、ラシード・ウォレス時代の2000年以来のカンファレンスセミファイナルへの進出を果たした。サンアントニオ・スパーズとは1999年にカンファレンスファイナルで敗れて以来の対戦となった。初戦から3連敗を喫し第4戦で1勝はしたが、スパーズにチーム層の厚さ、経験の豊富さの違いを見せつけられ、敗退した。2014-15シーズンは、同じ地区のライバルオクラホマシティ・サンダーが、ケビン・デュラントとラッセル・ウェストブルックを、開幕後から怪我で欠いたこともあり、ノースウェストディビィジョン首位を快走。ゴールデンステート・ウォリアーズ、サンアントニオ・スパーズ、メンフィス・グリズリーズ、ヒューストン・ロケッツ、ダラス・マーベリックス、ロサンゼルス・クリッパーズなどを相手に、激しいカンファレンス首位争いを繰り広げた、シーズン終盤にウェズリー・マシューズを重傷で失い、調子を落としたものの、1998-99シーズン以来の地区優勝を決めた。しかしプレーオフでは、1stラウンドでメンフィス・グリズリーズに1勝4敗で敗退した。そしてシーズン終了後、ブレイザーズは大改革に乗り出し、まずは6月にニコラス・バトゥムをシャーロット・ホーネッツに放出、更にFA交渉が解禁された7月には、ラマーカス・オルドリッジ、ロビン・ロペス、ウェズリー・マシューズ、アーロン・アフラロとの再契約を見送るなど、リラードを中心としたチーム構成で、一からチームを造り直すことを決意した。2014-15シーズンの陣容から大きく入れ替えた2015-16シーズンは、開幕前から苦戦が予想されていた。ところが、ウェズリー・マシューズの移籍でスターターに昇格したC・J・マッカラムが、天性の得点能力を開花。開幕から高得点を連発し、リラードと共にチームを牽引。ノア・ヴォンレー、メイソン・プラムリー、メイヤーズ・レナードといったインサイド陣の奮闘もあり、2月から予想外の快進撃を展開し、4月7日のオクラホマシティ・サンダー戦での勝利で、大方の予想を覆し、3年連続プレーオフ進出を決めた。プレーオフではクリス・ポールとブレイク・グリフィンらが負傷したロサンゼルス・クリッパーズを4勝2敗で退け、続くゴールデンステート・ウォリアーズ戦は1勝4敗で終わったものの、多くの収穫を獲るシーズンとなった(余談ではあるが、このシーズン最多勝を更新したウォリアーズにレギュラーシーズンとプレーオフの両方で勝利したのはブレイザーズのみだった)。!通算勝敗 || 1947 || 1695 || .535 || ||!プレイオフ || 103 || 124 || .454 || 優勝1回 ||太文字…殿堂入り選手 (C)…優勝時に在籍した選手 (M)…在籍時にMVPを獲得した選手 (50)…偉大な50人1970年代 (プレイオフ進出:3回 ファイナル進出:1回 優勝:1回)1980年代 (プレイオフ進出:9回)1990年代 (プレイオフ進出:10回 ファイナル進出:2回)2000年代 (プレイオフ進出:4回)2010年代 (プレイオフ進出:4回)1994年11月に、ロサンゼルス・クリッパーズと横浜アリーナで2試合を戦った。エースのドレクスラーが第1戦で26得点、第2戦で41得点と活躍し(ともに試合最多)、ブレイザーズを連勝に導いた。ポートランド・トレイルブレイザーズのチーム記録
出典:wikipedia
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