デボネア("Debonair" )は、三菱自動車工業(当初は三菱重工業)が1964年から1999年まで製造していた高級乗用車である。3世代に渡って製造された、2L~3.5Lクラスの4ドアセダンであり、競合モデルとしてはトヨタ・クラウンや日産・セドリック、ホンダ・レジェンドなどを標榜した。初代は規格一杯の車体から、また2代目・3代目は前輪駆動を採用したことから、車内はいずれも広く実用的であったが、売れ行きは常に芳しくなく、最後まで三菱グループの重役向け専用車としてのショーファードリヴン需要に支えられる存在であった。また、他社同級製品のようなクーペやワゴン、バンなどの派生型は、通常の正規販売モデルでは歴代車種を通じ一切開発されなかった。2代目、3代目モデルについては、技術供与先である韓国の現代自動車がグレンジャーの名称で現地生産・販売していた。1963年(昭和38年)、モーターショーでデビューし(『絶版日本車カタログ』三推社・講談社 22頁参照)、1964年(昭和39年)に製造開始。以後、1986年のモデルチェンジまでの22年間、基本設計・デザインの変更無しに生産され続けたことから、製造期間の後期以降は古色蒼然とした現行モデルであることを形容した「走るシーラカンス」という通称で有名になった。日本製セダン型乗用車でこれを上回るほど長期間製造された例は、トヨタ・センチュリーの初代モデル(1967年 - 1997年)のみである。1960年代初頭、三菱重工業(当時)は国内競合メーカーの2,000cc級乗用車に比肩するクラスの乗用車生産を目論んでいた。当初はヨーロッパ車の導入も検討され、イタリアのフィアットに高性能で知られた最新型セダン「フィアット・1800/2100」シリーズのライセンス生産も打診したが、不調に終わっていた。このため三菱では自社開発に方針を切り替えた。構造はモノコックボディに前輪ウィッシュボーン独立、後輪半楕円リーフリジッドで後輪駆動という、平凡だが手堅いレイアウトとし、全長・全幅とも道路運送車両法施行規則の小型車規格ぎりぎりのサイズで設計された。また、三菱重工業の企業パンフレットでは「回転半径5.3mの機動性も随一で,国情にマッチした使いやすさで他の追随を許しません」と説明されており、取り回しの良さも重視した設計であったことが伺われる。スタイリングは、元ゼネラル・モーターズのデザイナーであるハンス・ブレッツナーが担当し、1960年代のアメリカ製大型乗用車風のデザインモチーフを用いた、角張ったボディをデザインした。ボンネット・テール部分の両脇にエッジを立て、フロントグリルを広く取った押し出しの強いスタイルは、その雰囲気から見た目こそかなりの大型に見えるが、日本では小型車扱いの5ナンバー規格に収まるサイズである。デザインの妙と言えよう。1965年5月、オートマチックトランスミッション(AT)、前席電動セパレートシート、パワーウインド、パワーステアリングを装備した「パワー仕様」追加。1967年12月、一部変更でインパネを衝撃吸収タイプに変更される1969年4月、仕様変更でフロントディスクブレーキを標準装備すると同時にホイールを14インチ化。テールエンドのフィニッシャー(いわゆるロケットテール)の廃止。1970年9月、マイナーチェンジと同時に搭載エンジンの変更で型式をA31に変更。「デボネア・エグゼクティブ」となる。当初の直列6気筒のKE64型1,991ccOHVから、新開発の6G34直列6気筒1,994ccSOHC(サターン6エンジン)に変更され、130馬力にパワーアップした。これらは少ない生産量によるコストの制約から、既存の4気筒エンジンの気筒数を2気筒増やした設計とし、4気筒エンジンの生産設備を利用して、熟練工の技術で限定生産されたものである。1973年10月、大幅なマイナーチェンジで後期形へ移行。フロントドアの三角窓の廃止、テールランプデザイン変更(Lテール廃止)、フロントウインカー位置の変更。1976年6月、再度のマイナーチェンジで「デボネア・エグゼクティブSE」(C-A32)となる。ラジアルタイヤを装備すると同時にオプションのエアコンはトランク組み込みタイプのクーラーからヒーター組み込み型になる。マニュアルトランスミッション車は廃止。オイルショック後のコスト削減と排ガス規制で、条件の厳しい在来型6気筒エンジンの生産をやめ、量産車用のバランサーシャフト(サイレントシャフト)付き直列4気筒SOHCを限界一杯まで排気量拡大した51年排ガス規制適合のG54B型2,555cc・120馬力エンジンに換装されている。このエンジンは一般には2,600ccと称し、以後最後までこの大排気量4気筒のまま生産された。1978年4月、53年排ガス規制適合で型式がE-A33になる。1979年6月、一部変更で54年騒音規制適合/後席ラジオコントロール付電子チューナーラジオを採用。ABSに相当するアンチスキッドブレーキという安全装置がメーカーオプション設定された。1982年11月、一部変更でフロントグリルのエンブレムを「2600」から「MMC」に変更と同時にトランクリッドの「MCA-JET」エンブレム廃止。変速機はコラムシフトのマニュアルトランスミッションのほか、3速ATも用意された。最終期の2,600cc直4エンジン車はATのみの設定。AT本体はアメリカ合衆国の大手変速機メーカー、ボルグ・ワーナーのロングセラー製品である「BW35」型3速ATが、初代最終モデルまで一貫して用いられた。三菱自動車のフラッグシップであったことから、三菱グループの各企業で重役専用車として多用される一方、当時の高級車であったトヨペット・クラウン、日産・セドリック、プリンス・グロリアなどよりも高価であったため、シェア争いに敗退する。また、そのイメージを嫌った企業(特に、非三菱系列の大企業関係者)に敬遠され、基本設計もデザインもあまりに古いため、末期は一般ユーザーにもほとんど売れなかった。しかし古き良き時代のアメリカ車風の雰囲気を保ちつつ1980年代半ばまで生産されていたことが、後には逆に独特の希少性を産むことになった。モデル末期にはブライダル用として人気が高まり、特装車として後席左側屋根が開くブライダル仕様が作られるほどであった。三菱水島製作所の改造により、後期形ベースでオープンボディとしたパレードカー仕様も製作されている。生産終了後になってからの近年、古い自動車の中では程度の良い個体が手に入りやすく、生産期間中の不人気車ぶりとはうって変わって、旧車好きの間で人気が高まった。ローダウンや派手な塗装を施すなど、アメリカ風にアレンジする改造ベースにもなっている。このため、2000年代現在は、程度の良い個体(新車時からフルノーマル仕様)、ないし1973年までのフロントドアの三角窓&リヤのLテール(テールランプ)仕様は高価で取引されている。ことに初期のA30型(KE64型OHV搭載)は極端に流通台数が少ない希少モデルである。なお法人需要が多かった関係から、現存個体は黒塗が圧倒的に多い。1986年8月登場。三菱グループ各社の社用車以外の販路が見込めなくなっていたデボネアに対して開発費を投じることもできず、初代を生産し続ける状態が続いていたが、1980年代中期に至って22年ぶりのモデルチェンジが行われた。この2代目モデルのみ、「デボネアV」の名称となるが「V」には後述するV6エンジンや「VIP」など様々な意味を込めている。モデル廃止ではなく新型車開発に至った理由には、共に当時三菱と提携関係にあったヒュンダイとクライスラーの事情が大きく関係している。要約すると「高級車のモデルチェンジを企図した三菱、高級車を作りたかったヒュンダイ、(アメリカ市場では比較的小型となる)V型6気筒エンジンが欲しかったクライスラー」の利害が一致した結果である。ヒュンダイ側の事情として、韓国国産の高級車製造を迫られていたことがある。背景には1988年ソウルオリンピック(ヒュンダイもオフィシャルスポンサーであった)で訪韓するVIP向け送迎車の需要があった。しかしヒュンダイは、韓国自動車業界では当時既にトップメーカーであったものの、それまで乗用車は大衆車専業で高級車の製造経験がなく、ノウハウや納期の制約からノックダウン生産前提で開発を三菱自動車に依頼したのである。→ヒュンダイ・グレンジャーを参照。ここで相乗りしてデボネアのモデルチェンジを図った三菱自動車であるが、エンジンがネックとなった。開発費こそヒュンダイの協力で賄えたが、当時の三菱は高級乗用車に相応しい6気筒以上のガソリンエンジンを生産していなかったのである(初代デボネア末期の2.6L4気筒は、上述のとおり、排気ガス浄化対策という事情からやむなく起用されたエンジンであった)。そのうえ販売台数の少ないデボネアだけのために新エンジンを開発することはコスト面で困難だった。そこで折良くクライスラーの事情が絡む。同社向けにV型6気筒エンジンを生産、供給することが決まり、それを流用できたのであった。開発にあたっては1983年に発売された前輪駆動のギャランΣのプラットフォームを利用したため、デボネアもこのモデルより前輪駆動化され、エンジンはV6の2,000cc SOHC(前期105馬力、後期120馬力)、V6の3,000cc SOHC(前期150馬力、後期155馬力)のエンジンを横置き搭載する。ボディサイズは当時の5ナンバー規格に収められたため、2,000cc車は5ナンバー小型車扱いとなった。先代の末期では消滅した5ナンバー枠のバリエーションを復活させたのは、三菱グループ内のヒエラルキーとして上級幹部とそれ以下の幹部で格差をつける必要があったためといわれる。また、タクシー、ハイヤー向けの3,000/2,000ccには、改造扱いでLPG仕様も用意された。後に150馬力までパワーアップした2,000cc「スーパーチャージャー」(1987年~1989年)と200馬力<1991年に210馬力にパワーアップ>の3,000ccDOHC24バルブ(1989-92年)が追加された。2,000cc「スーパーチャージャー」車の追加は、当時は3,000ccの「3ナンバー車」の税金が高いことによる節税ハイパワー型としての措置で、競合各社でもこのクラスの2,000cc車にスーパーチャージャー・ターボチャージャーを同様の理由で装備していた例は多い。スーパーチャージャー仕様はマイナーチェンジではライバル同様に3Lエンジンのパワーアップが望まれたため、3LのV6DOHCに移行した。5ナンバー規格で既存モデルのプラットホーム流用の前輪駆動という制約の中、最大限広い室内空間を確保する必要があった(トランクも用途上、ゴルフバッグを多数収容できるキャパシティが求められた)ことから、スタイルは直線的な四角い形にせざるを得ず、ダウンサイジングを余儀なくされた1980年前後のアメリカ製高級車にも似てバランスの悪いものであった。三菱グループ社用車の置き換えや、現代自動車の自国生産という面では実績を残したものの、肝心の日本国内市場からの反応は、知名度が高く実績もあるクラウンとセドリック / グロリアの影に隠れ、芳しいものではなかった。拡販策として一般ドライバーをターゲットにしたラインナップの充実が行われ、西ドイツのチューナー、「AMG」社に監修を依頼し、外観にエアロキットと専用のアルミホイールを装備したデボネアAMG、イギリスの高級アパレルメーカーに内装を依頼したデボネア・アクアスキュータム、内装をオーナードライバー向けとした「エクシード」、「ツーリング」などが設定されたが、思うように販売台数は伸びなかった。しかし、2,000ccの廉価版モデルが200万円をはるかに下回る価格で販売されたことと、前輪駆動で室内が広く、6人乗り仕様も用意されたことが買われ、ハイヤーや個人タクシーなどの業務用車両には、比較的少なくない台数が用いられていた。また、メーカー特装車というかたちではあるが、高田工業によるストレッチリムジン仕様もごく少数生産された。1992年10月登場。三菱ではバブル期に上位モデルの大型化が進み、1990年に発売されたディアマンテ/シグマは3ナンバー専用車で、5ナンバー規格ボディがベースのデボネアVとサイズの逆転現象が起きていた。このためデボネアの3代目へのモデルチェンジは比較的早く行われ、大型化された。3代目も現代自動車ではグレンジャーの名称で生産・販売され、グレンジャーをベースにさらに高級化したダイナスティも登場している。全長4,975mm、全幅1,815mmという大柄な車体であるが、横置きエンジンの前輪駆動車で、サスペンションはフロントがストラット式サスペンション、リアにマルチリンク方式を採用していることからも伺えるように、シャーシのベースはディアマンテである。グレードは大きく分けて2シリーズあり、ハイヤー、社用車向けのエグゼクティブシリーズ、オーナー向けのエクシードシリーズがあった。エンジンはV型6気筒160馬力の(V6)3000SOHCと260馬力のV型6気筒3500DOHC。営業車用はV型6気筒3000LPG。ディアマンテ譲りのハイテク装備も惜しみなく装備され、レーダーカメラとエンジンブレーキによる車間距離自動制御システム、GPS&ジャイロセンサーによるカーナビゲーション、TV画面に後方を写すバックカメラなど、このクラスにふさわしい充実した装備であった。1993年10月 廉価版の3Lエンジン搭載車。エクシードエクストラを追加。1994年10月 オーナー向けの「エクシード・コンテーガ」を追加。1995年10月 マイナーチェンジでフロントグリルとテールランプのデザインを変更。同時にカーナビゲーションには音声ガイドと自動ルート設定機能を追加。1999年11月 生産終了。在庫のみの対応となる。1999年12月 販売終了。35年に渡るデボネアの歴史に幕を下ろした。発売がバブル景気崩壊期であり、販売は当初から伸び悩んだ。1999年(平成11年)には、販売量の少なさや顧客の特異性などから自社一貫開発を取りやめ、新たに現代自動車が主導の共同開発の形で製造を始めたプラウディアに道を譲り、モデルの命運を閉じている。そしてそのプラウディアは2016年現在日産からのOEMとなり名前以外三菱、ヒュンダイ各車種との繋がりは全くない。
出典:wikipedia
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