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釜石シーウェイブス

釜石シーウェイブスRFC(かまいしシーウェイブスラグビーフットボールクラブ、アルファベット表記:Kamaishi Seawaves R.F.C.)は、岩手県釜石市に拠点を置くラグビークラブ。2016-2017シーズンはイーストリーグDiv.1に所属する。獲得した全国タイトルは、歴代最多の計26回(日本選手権8回・全国社会人大会9回・国体9回)を誇る。また、7人制ではYC&AC JAPAN SEVENS優勝1回を誇る。(2016年現在)1959年、富士製鐵釜石製鐵所の企業倶楽部である「富士鉄釜石ラグビー部」として結成。1962年、全国社会人大会に初めて出場したが、1回戦で大阪府警察に敗れた。1969年、全国社会人大会準決勝でトヨタ自工に3年連続で敗れたものの日本選手権初出場を果たした。なお日本選手権では綿井永寿が率いた日本体育大学に敗れた。1970年、新日本製鐵への社名変更に伴い、チーム名も「新日鉄釜石ラグビー部」に変更。同年度にリコーと同点ながら全国社会人大会初優勝を果たし、また抽選により日本選手権出場も果たしたが、日本選手権では日比野弘が率いた早稲田大学に敗れた。1976年、全国社会人大会決勝でトヨタ自工を破り、6年ぶり2回目の優勝を果たすと日本選手権でも大東和美が率いた早稲田大学を破り、初優勝を果たした。そして1978年から1984年まで主将の松尾雄治を筆頭に洞口孝治、千田美智仁、森重隆、小林日出夫らの主力を擁して、全国社会人大会及び日本選手権にて当時最多の7連覇を達成した。その強さから「北の鉄人」と呼ばれ、日本ラグビー史に一時代を築いた。ちなみに1981年には釜石市でニュージーランドのクラブチームであるポンソンビーと国際試合が行われて、ポンソンビーが19対13で勝利した。なお8連覇を狙った1985年は、全国社会人大会準決勝で神戸製鋼に敗れた。また1986年は全国社会人大会決勝に進出したが、トヨタ自工に敗れた。1987年は全国社会人大会予選で秋田市役所に敗れたため、全国社会人大会に出場できなかった。翌年の1988年より東日本社会人リーグに参加し、同年度に東芝府中に次ぐ準優勝を果たした。しかし1992年を最後に全国社会人大会への出場が途切れ、1993年から1999年まで7年連続で入れ替え戦に回るも、全て勝利して残留を果たしたが、2001年に新設された東日本社会人チャレンジリーグにて最終戦で三菱重工相模原に1点差で敗れたことで3位に終わり、東日本社会人リーグから関東社会人リーグ1部へ降格した。加えて新日本製鐵のスポーツ事業運営の見直しを図る観点から2001年を最後に新日鉄釜石ラグビー部としては一旦幕を下ろした。2001年、本拠地の釜石市に密着したクラブチームに生まれ変わり、チーム名称を「釜石シーウェイブスRFC」と改めて4月25日に再始動し、監督は前年まで新日鉄釜石ラグビー部の監督を務めた高橋善幸が就任した。なお同年の関東社会人リーグ1部は、5勝2敗でAグループ4位に終わった。なおシーズン終了後桜庭吉彦は一度現役を引退した。2002年、ヘッドコーチに元日本代表の桜庭吉彦が就任し、ニュージーランド出身で外国人として初めて日本代表主将を務め引退後東芝府中のヘッドコーチを務めていたアンドリュー・マコーミックを選手として招聘。同年の関東社会人リーグ1部Bグループで7勝負けなしでトップイースト10へ昇格した。なお2002年度で最後の大会となった全国社会人大会には代表決定戦でNECに敗れたため、出場することが出来なかった。2003年、トップイースト10初年度ではリーグ戦3位に入り、イーストプレーオフにて三菱重工相模原を破ったことでトップリーグへの昇格を争うトップリーグチャレンジ2と日本選手権出場(前身の新日鉄釜石ラグビー部時代以来となる19年ぶり)を果たした。ちなみに日本選手権では3回戦で春口廣が率いる関東学院大学に敗れた。2004年、マコーミックは再び現役を引退し、チームのテクニカルコーチに就任した。開幕から3連勝するが、その後1勝しか挙げることが出来ずに、5位に終わる。2005年、ヘッドコーチである桜庭吉彦が現役復帰を果たしたが、チームの成績は8位に終わる。シーズン終了後桜庭吉彦は再び現役を引退した。2006年、ヘッドコーチにチームのOBである池村章宏が就任してオールブラックスのピタ・アラティニが加入し、津嶋俊一がチームの主将に就任したが、5勝5敗の6位に終わる。2007年、岩手県ラグビーフットボール協会と提携して「イーハトーブリーグ」を設立。釜石シーウェイブスはBチームが参加した。なお石川安彦らが加入し、篠原洋介がチームの主将に就任したが、順位は前年と同じ6位に終わった。2008年、石川安彦らは退団したものの、元東芝の佐々木天晃や元三洋電機の馬渕勝らが加入し、ピタ・アラティニがチームの主将に就任した。なおチームは7勝を挙げて5年ぶりにリーグ戦を勝ち越したが、勝点の関係により3年連続の6位に終わる。2009年、元ワールドの長田剛やスコット・ファーディーらが加入し、チームは開幕戦で勝利するがその後3連敗して5位で終わる。2010年、元コカ・コーラのニールソン武蓮伝らが加入し、チームは開幕から6連勝を果たすが、その後連敗して4位で終える。2011年、東北地方太平洋沖地震に際して、拠点を置く岩手県釜石市が壊滅的被害を受ける。一時チーム関係者全員の安否不明の状態が続いたが、後に選手とその家族全員の無事が確認された。チームとしての活動を一時休止。ボランティア活動などの復興支援に積極的に取り組んだ。5月3日に練習を再開。5月4日に「スクラム釜石」という復興・チーム再建支援組織を松尾雄治、石山次郎らが中心となって旗揚げした。また同年にはトップイーストリーグが2部制となり釜石シーウェイブスは1部に所属し、ヘッドコーチにはホッダー・ポールが就任し、佐伯悠がチームの主将に就任し、元日本代表の吉田尚史が加入する。チームは前年と同じく4位で終わった。2012年、スコット・ファーディーや馬渕勝らは退団したものの、元日本代表の伊藤剛臣らが加入。チームはリーグ戦で最高位タイとなる3位で終える。また三浦健博が引退したことで新日鉄釜石ラグビー部時代からの在籍者がいなくなった。2013年、元主将のピタ・アラティニや吉田尚史らは退団したものの、トンガ代表のジョシュア・アフや香港代表の調建造らが加入。チームは前年と同じくリーグ戦で最高位タイとなる3位で終える。2014年、ヘッドコーチにチームのOBである三浦健博が就任し、須田康夫がチームの主将に就任して調建造やニールソン武蓮伝らは退団したものの、日本代表のヘイデン・ホップグッドやオーストラリア代表のサム・ノートンナイトらが加入。また同年4月にはホップグッドが日本代表に選出され、2001年にクラブチームになって以降、釜石の選手が初めて日本代表に選ばれた。トップイーストリーグでリーグ戦2位に入り、11年ぶりにジャパンラグビートップリーグへの昇格を争うトップリーグチャレンジ2に出場し、大阪府警察、中国電力を相手に2勝0敗でグループ1位で終え、初めてトップチャレンジ1への出場を決めた。トップチャレンジ1では九州電力、Honda Heatに敗れたが、同じトップイーストリーグの宿敵三菱重工相模原に勝利するも1勝2敗で4位で終え、クボタとのトップリーグ入替戦に回ったが、敗れてトップリーグ昇格はならなかった。2015年、ジョシュア・アフやホップグッドやノートンナイトらは退団したものの、日本代表の北川勇次や松原裕司が加入。チームは開幕から史上初となる8連勝を果たしたが、最終戦で敗れてリーグ戦2年連続2位に入り、トップリーグチャレンジ2への出場が決まった。トップチャレンジ2では中部電力に勝利したが、九州電力に敗れて1勝1敗でグループ2位で終わり、トップチャレンジ1への出場はならなかった。2016年、セイララ・マプスアや千布亮輔らは退団したものの、韓国代表の許雄や7人制日本代表の中野裕太らが加入。計26回(歴代最多、歴代第2位は神戸製鋼コベルコスティーラーズの計19回)新日鉄釜石ラグビー部時代釜石シーウェイブス時代太字は今年からの新加入選手※は釜石シーウェイブス時代にも選手として在籍した選手。太字は元日本代表選手。太字はラグビーユニオンの代表に選出されたことのある選手以下は、公式サイトにて確認されるスポンサーの一覧であるかつての新日本製鐵のスポーツチーム

出典:wikipedia

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