ゼンノロブロイ ("Zenno Rob Roy") は日本の競走馬。2004年のJRA賞年度代表馬で、引退後に種牡馬となった。馬名の由来は、冠名の「ゼンノ」と18世紀のスコットランドに実在した英雄ロブ・ロイ(ロバート・ロイ・マクレガー)の合成。馬主は大迫忍であったが、途中から社台グループの吉田照哉、吉田勝己との共同所有となる。また2005年6月18日に大迫忍が死去したため、以後は大迫久美子に名義が変更された。ゼンノロブロイはセレクトセールで9000万円で落札された評判馬であったが体質が弱く、その影響から仕上がりが遅れデビューは3歳の2月となった。デビュー戦に騎乗した横山典弘はレース前、「ステッキを使わなくても勝つ」と宣言した。レースではスタートで後手を踏んだ影響で後方からレースを進め、ステッキを使う羽目になったものの直線で出走馬中最速の上がりを繰り出して優勝した。この時期のゼンノロブロイは骨膜炎を発症しており、調教師の藤沢和雄は強い負荷をかける調教を施さない方針をとっていたが、3戦2勝の成績で臨んだ東京優駿(日本ダービー)トライアルの青葉賞を制し、重賞初制覇を達成。横山をして「(日本ダービーは)この馬で勝てなきゃ、当分勝てない」と言わしめた。東京優駿では終始2番手を進み先頭を伺う競馬を見せたが直線でネオユニヴァースに交わされ、2着に敗れた(ちなみに、横山はこの6年後ネオユニヴァースの仔ロジユニヴァースでダービーを初勝利している)。夏期は休養にあてられ、後半シーズンは神戸新聞杯から始動し菊花賞または天皇賞(秋)を目指すローテーションが組まれた。神戸新聞杯を優勝後、陣営は菊花賞への出走を決定。しかしレース終盤に前方へ進出するための進路を確保することができず、4着に敗れた。続いて有馬記念に出走したが、コースレコードを記録して優勝した同厩舎のシンボリクリスエスの前に3着に敗れた。4歳の前半シーズン、ゼンノロブロイは初戦の日経賞で2着になったのを皮切りに天皇賞(春)2着、宝塚記念4着と勝ちきれないレースを続けた。後半シーズンに入り京都大賞典でも2着。目標としていた天皇賞(秋)に賞金不足で出走できない可能性も浮上したが最終的には出走が可能となり、1番人気に支持された。このレースを優勝しGI初制覇を成し遂げると、続くジャパンカップ、さらには有馬記念を優勝。2000年のテイエムオペラオー以来史上2頭目の秋古馬三冠を達成した。この年、ゼンノロブロイはサンデーサイレンス産駒として初めてJRA賞年度代表馬に選ばれた。5歳の前半シーズン、ゼンノロブロイは前哨戦を経ずに宝塚記念に出走し3着に敗れた。宝塚記念出走後陣営は海外遠征を敢行。イギリスのG1競走インターナショナルステークスに出走したがエレクトロキューショニストにクビ差交わされ2着に敗れた。敗因について調教師の藤沢は「思ったよりも馬場がボコボコしていてノメっていた」とイギリス独特の重い芝が響いたと語った。また、騎乗した武豊も「思ったよりも馬場が悪くてビュッと切れる脚が使えなかった」と馬場を敗因として挙げている。帰国後出走した天皇賞(秋)では1番人気に推されたものの、レースでは直線でヘヴンリーロマンスに競り負けてアタマ差の2着に敗れた。続くジャパンカップでは接戦の末3着、引退レースとなった有馬記念ではスタート直後に脚を捻った影響で8着に敗れ、競走生活で初めて掲示板(5着以内)を外す。競走馬引退後は2006年春より種牡馬となり、社台スタリオンステーションで繋養される。なお、2006年と2007年はシャトル種牡馬としてオセアニアでも供用された。初年度産駒は2009年にデビュー。2歳リーディングサイアーランキングで7位に入っており、ファーストシーズンリーディングサイアーとなった。2010年にコスモネモシンがフェアリーステークスを制し産駒重賞初制覇となった。そして同年、サンテミリオンが優駿牝馬を制し(アパパネと1着同着)、産駒によるGI初制覇を果たした。2015年11月、ブリーダーズスタリオンステーションに移動した。太字はGI・JpnI競走全弟のグランデグロリアは中央競馬で未勝利に終わったが、引退後に種牡馬となった。近親にはタガノエリザベート(ファンタジーステークス)がいる。
出典:wikipedia
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