八木 誠(やぎ まこと、1945年10月3日 - 2011年6月5日)は日本の音楽評論家、ディスクジョッキー。1945年神奈川県川崎市生まれ。子供の頃は野球少年で、川崎市立日吉中学校時代でも野球部だったが、法政大学第二高校時代は最初、卓球部でキャプテンだった。しかし、高校2年生の時に心臓神経症と診断されて激しい運動を禁止されたことから卓球部を退部、放送部に転じた。高校時代にラジオ関東(現・RFラジオ日本)の番組『グランドヒットパレード』を見学し、DJよりもむしろディレクターになりたいと思い、十代の頃から在京ラジオ局で選曲アルバイトやADとして放送音楽に携わる。高校卒業後は日本電信電話公社に就職。電電公社在職中にも知人から音楽の週刊誌発行に誘われ、『ターンテーブル』という誌名の雑誌発刊に係わっていたことがあった。しかしその後もラジオ・音楽業界への憧れが収まらず、父に相談したところ「25歳までに音楽の仕事に就くこと。それで目途が付かず駄目だったらお堅い仕事に戻ること」との条件でで転職を許され、電電公社を退職、TBSのADを2年ほど務めた後、ラジオ番組の構成・制作に進出、初めて本格的に制作した番組は『ポップス・リポート』(ラジオ関西)。ラジオ関西では自分の番組が聴取率の面でも一番人気になったこともあり、同局で約1年6カ月務めた所でTBSからオファーがあり、TBSで『フレッシュダイヤル』『ホリデイ・イン・ポップス』(若山弦蔵とともに担当)などの番組出演を務める。その後、60年代後半からは『パックインミュージック』(TBSラジオ、若山弦蔵とともに担当。1969年 - 1970年)、『TBSラジオ ポップス・ホット・テン』(1971年 - 1973年)、『ラジオ関西 電話リクエスト』などの深夜番組、音楽番組のDJを数多く担当する。『オールジャパン・ポップ20』を引き継ぐ形で1985年にスタートした『全国ポピュラーベストテン』では、番組終了の2006年までパーソナリティを担当した。2011年6月5日、胃癌による急性心臓病により永眠(享年65)。死の前日、6月4日のTOKYOFM『デイブレイク』が最後のラジオ出演となった。八木のイントロに被せる形での軽妙な曲紹介は、ラジオの音楽番組、深夜放送全盛期にあって多くの支持を受けた。『桃太郎伝説』シリーズの生みの親で、その時代に中学生であったさくまあきらは、「八木の影響で洋楽ファン、ビーチボーイズファンになった」と公言している。八木の好きな音楽はソウル・ミュージックからキンクス、グラス・ルーツまで幅広く、糸居五郎や小林克也、湯川れい子と並ぶ、日本のディスク・ジョッキーの代表格であった。また、2009年2月には、小学館より『洋楽ヒットチャート大事典』を上梓した。
出典:wikipedia
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