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朱霊

朱 霊(しゅ れい、? - 229年以降)は、中国後漢時代末期から三国時代にかけての魏の武将。字は文博。冀州清河国鄃県(今の山東省徳州市)の人。曹操・曹丕・曹叡の3代に仕えた歴戦の将軍である。初めは袁紹の配下だった。清河の季雍という者が、鄃県を挙げて袁紹に叛き公孫瓚に付いたため、袁紹は朱霊に季雍を攻撃させた。朱霊の家族は城中にあり、公孫瓚は朱霊の母と弟を城壁に置いて朱霊を誘引した。しかし朱霊は涙を流し「男が一度身を人に差し出した以上、どうして家族を顧みる事があろうか」と言い、力戦して季雍を捕虜としたが、家族は残らず殺された。初平4年(193年)または興平元年(194年)、曹操が徐州の陶謙を討伐した際に、袁紹は朱霊に3つの営を率いさせて曹操の救援に派遣し、朱霊は戦功を立てた。その後、他の部将たちは袁紹の下に帰還したが、朱霊は曹操の器量に惚れ込み、その家臣となった。なおその際に配下の兵は彼に従っており、兵卒からの信望は厚かったと考えられる。建安4年(199年)、曹操は劉備に袁術を討伐させようとし、朱霊と路招をその指揮下に加えた。しかし、討伐着手前に袁術は病死した。朱霊らは徐州に劉備を残し、そのまま曹操の下に帰還している。建安10年(205年)頃、冀州を平定した曹操は、朱霊には威厳がある事から、新たに降伏した冀州の兵を委ねた。しかし、朱霊が陽翟(頴川郡)まで至ると、果たして中郎将程昂が謀反したため、朱霊は直ちにこれを斬って平定した。朱霊は責任を取るために事態を曹操に報告したが、曹操は鄧禹の例を引いて特に罪を問わなかった。建安13年(208年)、曹操が荊州征伐に向かう際に、司空掾属・主簿趙儼が章陵太守を兼任し、さらに都督護軍となった。この時に朱霊は、于禁・張遼・張郃・李典・路招・馮楷の6将軍と共に趙儼の指揮下に入っている。建安16年(211年)秋7月、曹操が馬超の討伐に向かうと、朱霊も従軍している。この時、曹操は密かに徐晃と朱霊に命じて、夜中に蒲阪津を渡らせ、黄河の西に陣営を作らせた。馬超らが敗北した後の建安17年(212年)、朱霊は路招と共に夏侯淵の指揮下に入り、長安に駐屯した。この時、夏侯淵の軍は南山の劉雄鳴を撃破してその軍を降伏させ、さらに馬超・韓遂の旧配下だった梁興を討ち取っている。建安20年(215年)春3月、曹操の張魯討伐に朱霊は従軍した。曹操が武都郡の方面へ向かおうとすると、氐が進路を塞いだ。曹操は張郃・朱霊に命じてこれを撃破させた。以上のように、朱霊は多くの主要な戦いに参加して軍功を挙げ、その名声は徐晃に次ぎ、後将軍にまで昇進した。ところが具体的な理由は不明だが、朱霊は曹操から常に恨まれていた。そのため詳細な時期は不明だが、曹操は于禁に朱霊の軍営を取り上げさせ、朱霊自身は于禁の部将としている。この時、于禁が自らやってきて曹操の命令を執行したが、朱霊とその部下たちは、于禁の勢威を恐れてそのまま服従した。黄初元年(220年)、曹丕が魏の文帝として即位すると、曹操時代以来の功績を讃えられる形で、曹丕から鄃侯に封じられ、領邑も加増された。さらに曹丕からは、その威光は周の宣王の賢臣方叔・邵虎より上であり、功績は周勃・灌嬰よりも上である、と絶賛を受けている。また朱霊は、曹丕から望みの地を与えると言われたため、高唐を望んだところ、その通りに高唐亭侯に封じられた。黄初3年(222年)、夏侯尚らが江陵を包囲した時、文聘が夏侯尚らを援護した功績で後将軍に昇進しており、朱霊もこれ以前に何らかの官職に転任している可能性が高い。太和3年(229年)秋、曹休・賈逵らの呉討伐軍に加わった。曹休が合肥を攻撃して敗北したため、朱霊はこれを何とか救助した。これが史書における朱霊の最後の事績である。正始4年(243年)秋7月、既に死去していた朱霊は、他の功臣たちと共に太祖の廟に合祀された。小説『三国志演義』では、正史ほど活躍していない。史実どおりに路昭(史実の路招)共々劉備の袁術討伐に随行するよう、曹操から命じられる。しかし劉備の指示に従い、軍を残したまま路昭と2人だけで許に帰還してしまったため、曹操の怒りを買い処刑されそうになる。荀彧が諫言したために2人は赦されている。その後、馬超討伐にも加わり、史実通り徐晃と共に黄河の西に陣取っている。これを最後に『演義』には登場しなくなる。

出典:wikipedia

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