ブリテン諸島(ブリテンしょとう、)は、ヨーロッパ大陸の北西沖の大西洋上に浮かぶ諸島。グレートブリテン島とアイルランド島の2つの大きな島と、その周囲の大小の島々から成る。イギリス諸島とも呼ばれる。この諸島の名前は2000年間にもわたって使用されており、ローマの博物学者大プリニウスの (iv.xvi.102) には「それ自体を"アルビオン"とよび、その周辺の島々は簡潔に とよばれている」と記述されている。これら6000を越える島々の総面積は315,134 km²であり、主な島や島群には以下がある。古来、島の外からは または で始まる様々なよび方がされ、島の住民は大洋の島という意味の または島々を意味する と呼んでいた。英語が使われる様になってから と呼ばれる様になった。古代のブリテン諸島の住人は紀元前5世紀に進入してきた または と称するケルト人であった。古代の地理学者達は住民の集団の名をとりラテン語(例:)やギリシャ語(例:)のような自分達の言語に直し島々を呼んだ。ストラボの"地理学"第四巻ではブリテン島を と綴り、 または と島々を呼んだ。例えば地理2.1.18, (Brettans南部の殆どがこれよりさらに北にある)。これは紀元10年頃書かれたものであるが、現存する最古の写本は6世紀のものである。大プリニウスはラテン語によるこの島々への術語を紀元70年頃 (プリニウスの博物誌)4.102節で用いた。(『島々全体』は と呼ばれる時、アルビオン()はその名である。)次の4.103節ではグレートブリテン、アイルランド及びその他の小さな島々といったを構成する島々を列挙している。プトレマイオスはアイルランド()はという島々のグループに属するとし、幾分詳しい。プトレマイオスの地理学第2巻1章は"ヒベルニア、ブリタンニアの島"と題が付けられた。地理に関する早期の現存する考察はほぼ古代の言語に限られている。歴史上の地理学者による英語の は宗教改革以降にのみ見られる。原住民によるこの島々への最古の集合的な用語の出典は、6世紀のアイルランドの僧侶聖コルンバによるブリテンの人々への伝道活動を記した"聖コロンバ伝"である。これは7世紀末にアイオナ島にかなりの数のピクト人及びイングランド人の僧侶と共に住んでいたアイルランドの僧侶アドムナン()により書かれ、当時ブリテン諸島全体の権威と考えられていた。この作品ではこの諸島は「大洋の島々」の意の と呼ばれ(Sharpe版2巻、46 = Reeves版2巻、47)、使用は控えめだった。他の原住民の典拠は8世紀に書かれたベダの にある。そこでは「島々」を意味する が使われていた。それらの語は宗教改革後の英語の用法には入らなかった。最初の引用の が1621年、権威あるオックスフォード英語辞典に加えられた。大陸のゲラルドゥス・メルカトル(1512年)、バルタザール・モレトゥス(1624年)、ジョヴァンニ・マジーニ(1596年)、アブラハム・オルテリウス(1570年)、セバスチャン・ミュンスター(1550年)が とした地図を制作した。オルテリウスは殆どの地図で1570年にはイングランド、スコットランド、アイルランドは政治的に名目上は少なくとも分離していた見解をはっきりさせた:(イングランド、スコットランド及びアイルランド、またはブリテン諸島の記述)、加えてこの時期の多くの地図ではコーンウォールが別の国として描かれており、特にメルカトルがそうであった。政治的には、イギリス(グレートブリテンおよび北アイルランド連合王国)とアイルランド共和国という2つの主権国家、チャネル諸島といわれるガーンジー島とジャージー島及びマン島の3つのイギリス王室直轄属領に分かれている。このため、イギリスの主権に属さないアイルランド島やマン島等の人々や、スコットランド、ウェールズ、あるいはケルト系のコーンウォールの一部の人々も、「ブリテン諸島」という呼称に不快感を示すことがある。以上に述べたのは地理的な概念としてのブリテン諸島()であるが、これに対して英国法上の概念としてのブリテン諸島()は以下のものを総称するものである。以上から明らかなように、イギリスの海外領土は含まれないし、当然ながら隣国であるアイルランド共和国も含まれない。
出典:wikipedia
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