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対戦車砲

対戦車砲(たいせんしゃほう)とは、対戦車兵器として使用される火砲である。歩兵部隊の戦車に対する防御用火砲として特化し、初速・貫徹力を重視し発射速度に優れ、かつ戦車からの発見・攻撃を防ぐために高さを低くした火砲である。照準眼鏡を用い、直接照準により射撃する。対戦車砲は低伸弾道(ライナー性で、直進し、長距離を飛んでも落差が少ない)を描く砲弾を撃ち出し、目標を砲弾の存速によって打ち破ることを目的とする。主目標は装甲された車両であるが、榴弾を用いて対人戦闘も可能である。ただし観測員を置いた間接砲撃は通常行わない。通常、火砲は砲兵の装備であるが、対戦車砲は歩兵砲と同様に歩兵の装備となることも多い。また、当初は人力で陣地間を移動させながら戦うことを想定され、小型軽量な砲が使われた。第二次世界大戦前半頃までの戦車は総じて装甲が薄かったため小型の対戦車砲で対処可能であったものの、やがて火力と装甲のシーソーゲームが始まり進化を遂げ、大戦後半には野砲・高射砲・カノン砲(加農)と変わらない大きさとなり、牽引には人力や輓馬ではなく、中・大型の自動車や牽引車が必要になった。また砲自体が戦車の車体に搭載されるようになり、突撃砲や自走砲に進化する。第二次大戦後、大型化して運用が難しくなってしまった対戦車砲は、砲種の統合および軽便な無反動砲や対戦車ミサイルの登場、また機動性に富む自走砲の進化によって消滅して行った。現代ではごく一部の国の二線級部隊に、野砲をかねた対戦車砲が残っているのみである。戦車は第一次世界大戦にイギリス陸軍によって初めて実戦に投入された。ドイツ陸軍は歩兵による近接戦闘と野砲による直接射撃によりそれに対応した。カノン砲は直接照準、高初速を生かし、最前線に配置されていた。第一次大戦後、各国は野砲を歩兵に随伴可能に軽量化した対戦車砲という新たな火砲を生みだし、ジャンルとして確立された。当時の戦車はまだ装甲も薄く、口径20〜45mm程度の軽砲でも充分対応できた。しかし、第二次大戦開戦によりシーソーゲームは熾烈を極め、大戦中期には50〜75mmが、大戦末期には85〜90mmが主流となる。戦車に対抗するにはまず、攻撃をかけてくる敵戦車部隊の攻撃衝力を減殺し、次に機動打撃部隊の逆襲により敵後背等の弱点を突き、主導権を奪回する必要がある。この逆襲において戦車は機動打撃部隊の主体となり、主導権奪回に重要な役割を果すために、「最良の対戦車兵器は戦車である」とも言われる。兵力と兵力の遭遇戦においては、敵主力の拘束、側背への攻撃はともに戦車を中心とする機動打撃部隊によって担われる。しかし防御の場合、本来戦車兵力は集中し、攻撃的に使用されるべきであるから、敵の衝力を受ける受動的な用い方は戦車にとりふさわしいものではない。ここに対戦車兵器の必要性が生まれる。敵衝力が強大な場合、対戦車兵力を補うために戦車を投入する例があるが、基本的にやむを得ず行うものである。ただし原則にやや外れた消極的な理由であっても戦車には対戦車戦闘能力が必要上求められる。機動戦、運動戦では、戦車が戦闘の主体となり、機動的な逆襲や逆襲への対処にも用いられる。また陣地への攻撃、防御でも戦車は重要である。第二次大戦当時のアメリカ軍では、戦車に高度な対戦車戦闘能力は不要で、対戦車砲および自走対戦車砲で対戦車戦闘をすればよいというドクトリンに従い、対戦車戦闘能力の高い戦車の配備が遅れた。この結果対戦車戦闘能力に比較的劣るM4中戦車などは、ドイツ軍の保有する戦車との戦闘において劣勢であった。また自走対戦車砲は装甲が薄く、正面戦闘にはかなりの危険が伴った。アメリカ軍戦車隊はこれを数的優位で補った。対戦車砲は、特に自軍が防御的立場に立たされている場合、低い姿勢で待ち伏せが発見されにくく、砲の性能によっては敵の戦車のアウトレンジ(射程外)から攻撃できるという点で、戦車より効果的な場合もあった。これは第一次世界大戦において、戦車に対抗するため無防備な野砲やカノン砲を用いた時のあまりの損害の多さから出た教訓により生まれた物である。第二次大戦初期、一部の戦車の装甲防御力に対し既存の対戦車砲(その当時で37mm級、50mm級)が威力不足であったため、臨時に野戦高射砲で対抗することがあった。高射砲は大口径(75~105mm級)、高初速、発射速度大など、スペック上は対戦車任務に適しているようだが、対戦車用の徹甲弾や直接照準器、また、水平射撃時の砲架や駐退機の強度などが考慮されていなければならず、最初から地上目標を想定した両用砲でなければ有効に使用できない。前線での咄嗟の思いつきで使っても有効に使用することはできず、対戦車戦に戦果を挙げた高射砲は、あらかじめ対戦車戦闘を想定して設計されていたものである。ドイツ陸軍の8.8 cm FlaK 18/36/37やソ連軍の52-K (M1939) 85mm高射砲はあらかじめ対戦車戦闘を考慮して設計されており、当初から徹甲弾も支給されていたため実際に戦場でも対戦車戦闘が行えた。しかしながらその汎用性の高さからくる耐久性を上げるため、野戦高射砲としては重量は大変重くなり、また対戦車砲としては射撃姿勢が高く目立ち対戦車運用には必ずしも適当ではなかった。日本陸軍の八八式七糎野戦高射砲は野戦高射砲として大変軽量かつ小型に仕上がり運用面では上等であったが、開発時点で直接照準による対地攻撃を行う事を考慮しておらず、軽量ゆえに耐久性が低いため、無理な平射時にはしばしば駐退機の故障・破損を起こした(砲の駐退機構造自体が、射角が高じるにつれ後座長が短くなるなど複雑でデリケート)。本砲は仰角15度以下の平射は想定しておらず、使用するには爆風よけの防盾と砲口制退器の装備が必要だった。1934年6月に海岸砲として配備された物には平射照準具が装備され、俯角は7度まで可能であった。なお、八八式七糎野戦高射砲の開発・採用時期は1920年代中後半であり、1930年代の新型高射砲であるFlak 36やM1939より数年以上古い設計であることを考慮する必要がある。また、イギリス陸軍のQF 3.7インチ高射砲も対戦車戦闘は考慮されておらず、アメリカ陸軍のM1 90mm高射砲も有効な対戦車戦闘ができなかった。"以下に挙げた物は広く使用された物で、試作品の域を出ない物は除く。"大戦中、ドイツ国防軍は戦前半は質において、後半は量において優勢な敵と戦った。つまり常に戦車劣勢の立場にあった。したがって、彼らが「戦車なしで敵戦車に立ち向かう手段」を求めたのは当然で、大戦全期を通じ積極的に対戦車砲の開発を行った。「88(アハト・アハト)」こと8.8 cm FlaK 18/36/37は最も有名であるが、本来は対戦車砲ではなく野戦高射砲である。もともと対戦車砲を運用する歩兵連隊の対戦車(後に戦車猟兵・戦車駆逐)中隊用ではなかったが、大戦当初から空軍地上部隊から一部が陸軍に割譲され、「重対戦車砲」という名目で対戦車部隊の装備となっていた例もある。ドイツ軍はバルバロッサ作戦で、ソ連軍のM1936 F-22師団砲(野砲)を大量に捕獲、7.62 cm FK 296(r)と名づけてそのまま使用していたが、強力なT-34中戦車やKV-1重戦車に対抗すべくこれを対戦車砲に改造した。防盾は二重構造となり、照準が一人でできるように操作ハンドルを左側に集め、砲身の先にはマズルブレーキが付いた。またより強力なPaK40用の長い薬莢を使えるように、薬室が改造されている。ピンチヒッター的な砲ではあったが、東部戦線からアフリカ戦線まで、また自走砲に搭載され活躍した。ソ連軍(労農赤軍)も列強各国と同様対戦車砲の開発に努め、当時としては比較的高い威力のものを装備していた。更に、幸いにも野砲として配備された76.2mm F-22 M1936等に対戦車砲としての能力があったため、他の国々が37~50mm級の対戦車砲しか持っていなかった時期に、75mm級の砲で戦うことができた(ただし砲兵の装備であり、歩兵の自衛用ではなかった)。そして、より量産向けである後継のZiS-3が、実質的に独ソ戦中期以降の主力対戦車砲として使用された。なお、ソ連軍の砲術では帝政ロシア軍以来一貫して直接照準による平射が重視されており、口径122mmや152mmの榴弾砲でさえも全て直接照準器が装備され、対戦車戦闘を行えるようになっていた。戦前日本には「戦車には戦車で対応する」という考えは少数であり、必然的に対戦車戦における対戦車砲の役割は大きかったが、日中戦争(支那事変)において中国軍側が機甲戦力を有効活用しなかったこと、欧州戦線で巻き起こった戦車の恐竜的進化を予見できなかったこと、大口径対戦車砲を広く配備するには多数の牽引車等の整備が必要であること、中でも列強各国と比較し国力(生産力・技術力)に劣る日本では、貴重なリソースを海軍戦力や他兵器(野戦砲・高射砲・航空機)に優先せざるをえなかったことから、帝国陸軍は強力な対戦車砲の開発を積極的には行えず、必要とされた時に間に合わなかった。また、タングステンやニッケルなどの希少金属の制約により弾頭の金質が劣っていたこと、そして徹甲弾(AP)でなく弾頭内に炸薬を充填した徹甲榴弾(AP-HE)を主用したために日本軍の徹甲弾の強度は厚い装甲に対しては不足しており、結果として旧軍は対戦車戦において非常に苦労することとなった。費用と資材の制約から被帽子付徹甲弾(APC)を使用できなかった点もそれに拍車をかけた。イギリス軍は火砲を口径ではなく砲弾の重量で呼称する伝統があり、第二次大戦中の対戦車砲もその伝統に従って名称がつけられた。戦車の装甲を貫通させることを最優先としたために当初徹甲弾しか供給されておらず、支援砲撃用に転用できないなどイギリス的な頑迷さが見られる。あまりに不評だったため、大戦後半には榴弾も開発され供給された。敵戦車に対しては味方の戦車ではなく、機動力のある戦車駆逐部隊(タンクデストロイヤー)が要請に応じ駆けつけて迎え撃つ方針であった米軍の場合、牽引式対戦車砲より対戦車自走砲である駆逐戦車が充実していた。しかも大戦末期の「バルジの戦い」で、牽引式対戦車砲の多くが遭遇戦で配置する間もなく撃破されてしまったことから、戦車駆逐部隊は全てを自走砲化することが決定された。また、戦争後半にはかの有名なバズーカが大量配備され、歩兵の自衛用対戦車兵器の主力となっていった。第二次世界大戦における戦車と対戦車砲の関係はまさに「盾と矛」の関係であった。開戦当初は37~47mm程の口径が標準であったものが中期には50~57mm級、75~76.2mm級と大型化し、大戦末期には88~100mm(多くは野砲や高射砲兼用で、歩兵ではなく砲兵隊の装備)以上の物も量産されていた。口径が88mmを超える砲になると大きさ、重量もかなりのものになり、人力で移動可能で待ち伏せのため隠蔽するという従来の対戦車砲の運用法から完全に逸脱してしまった。この問題の解決法として、各国は対戦車砲を様々な車台に搭載し自走砲化をすすめた。また、大戦末期からはバズーカやパンツァーファウストに代表される成形炸薬弾を使用した携帯式のロケットランチャーや無反動砲が急速に発達し、牽引式対戦車砲がなくても歩兵が戦車を破壊できるようになった。さらに、小型の対戦車ミサイルが実用化されると遠距離からでも戦車を破壊できるようになり、対戦車砲の存在意義は薄れ急速に姿を消していった。現在では中国とロシア等旧共産圏に一部の野砲兼用型が残されているのみであるが、冷戦終結後は対戦車砲の最大の相手である機甲部隊の大侵攻という状況自体が発生しにくくなっているため、チェチェン紛争のような低強度戦争では榴弾による火力支援を主な任務としていると思われる。

出典:wikipedia

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